第24話 混乱(2023/07/31加筆)

 国交を結ぶ儀式が終わり、エレオノーラ達は無事に自分の国へ戻ってきた。だが、あれ以来ギルバートはいつもピリピリしていた。眉間のシワはまた一層深くなり、口は真一文字に固く結ばれている。彼が自分の一件で動揺しているのは明らかだった。

 彼の目下の目的は、エレオノーラを王宮に入れることだった。だが、隣国の王女との婚礼が整う前に別の女と王子を結婚させることなどできない。その辺りの準備を早急に進める為にギルバートは王宮にいることが多くなり、たまに屋敷の中にいるかと思うと難しい顔をして考え事をしている姿をよく見るようになった。

 最近の彼は、エレオノーラに軽口を叩くことも、からかうこともしなくなった。それがエレオノーラにとってはとても寂しいことだった。


「ギルバート、少し休んで。私が言えたことではないかもしれないけど……」


 書斎で腕組みをしながら考え込んでいるギルバートにお茶を運びながら、エレオノーラは心配そうに彼の顔を覗き込んだ。窓から入る明るい日差しとは裏腹に、彼の顔は憂いに満ちている。 


「俺達のせいでお前を人間にしてしまったんだ。お前を人間にするか、人魚に戻すか。そのどちらかを見届けるまでは関わらせてくれ」

「そんなの……薬を飲むって決めたのは私なんだから、あなたが気負うことじゃないのに」


 エレオノーラが悲しげに眉を下げながら言うと、ギルバートがコトリとカップを机に置いた。


「お前が幼い頃から殿下を慕っているのは知っている。長年、ずっと。だからこそ、俺はお前が人魚に戻る方が良いと思っている。これからずっと第二夫人として殿下の側にいても辛い思いをするだけだ。それなら一度人魚に戻り、また心から好きになった人が現れた時に陸にあがる方がいい。人魚は人間よりも遥かに長生きだからな」

「そんな、人魚に戻るなんてできないわ。私はエドワルド様を亡き者にすることなんてできないもの」

「お前が殺すのは殿下ではない、俺だ」


 有無を言わせない勢いでギルバートがきっぱりと言い切る。


「賊に襲われた時に消えそうになる感覚を覚えたと言ったな。おそらく、望まぬ関係を強いられれば条件は成立しなかったと見なされてお前の体は消えるのだろう。だが裏を返せばお前が好意を抱いている相手ならば条件は成立するということだ。恋慕の情はなくとも、俺に対して親愛の情くらいはあるだろう?」


 そう言うとギルバートが文机の中から銀細工のついた小刀を取り出し、机の上に静かに置いた。コツっという硬質な響きが酷く耳を打ち、エレオノーラの体がふるりと震える。


「ギルバート、やめて。私があなたのことを殺せるわけがないじゃない」 

「俺のことを好きにならなくても良い。だが人魚に戻りたいと思った時は俺の心臓を刺せ。やってみる価値はあるだろう」

「ギル……嫌だわ、私、そんなことをしてまで人魚に戻りたくない」

「エレオノーラ、お前は心から好きになった人と一緒になる方がいい。この人の為なら身を投げうってでもいいと思える相手が見つかるまでは自分を安売りするな」


 ギルバートがハッキリと告げる。その響きはどこか拒絶を伴っていた。何か返事をしなくてはとエレオノーラも口を開くが、薄く開いた口からは何の言葉も出てこなかった。

 その時、重たい静寂を破るかのようにコンコンと部屋をノックする音がして、エレオノーラはパッと振り向いた。そこにはエプロンをつけたハンナが立っており、二人に向かって恭しくお辞儀をする。


「ぼっちゃま。サラ様がいらっしゃいました」

「そうか。通せ」


 ギルバートが返事をして立ち上がる。椅子にかけてある上着を羽織り、彼は静かに部屋を出ていった。階下の客間に行くのだろう。エレオノーラは、彼の大きな背中が消えていくまで黙って彼の後ろ姿を見送った。

 扉を閉める際に、ハンナが悲しそうな顔をしているのがやけに鮮明に映った。




「ギルバート様、お待ちしておりました」


 客間に着くと、先にソファに座っていたサラがパッと破顔した。彼女はあの日以降、何かと理由をつけては頻繁に屋敷に来るようになっていた。折角繋がりかけた大貴族との婚姻のチャンスを手放すまいとしているのだろう。常に名家の威光にかしずかれるにはいい加減辟易していたが、ギルバート自身も他の女を遠ざける為にサラの存在を利用しているのだからお互い様だ。

 ソファに腰掛けると、サラが最近あったあれこれを楽しそうに話してくれる。中には少しだけ自分をよく見せようとする軽い誇張表現も見て取れたが、嘘と欺瞞で塗り固められた貴族と渡り合ってきたギルバートにとっては可愛いものだった。


(俺は彼女サラと結婚することになるのだろうか)


 当たり障りのない会話をしながら内心で独りごちる。昔の自分であればそれも悪くないと思ったかもしれないが、今はもう胸の内に宿る自分の確かな感情に気付いていた。

 あの日涙に濡れる彼女を見た時に、胸にハッキリとした揺らぎを感じた。辛い心境であっても自分を気遣う感謝の言葉に、無意識に蓋をしていた感情が濁流のように流れ出た。


 ――ギル。あなたがこの世界にいてくれて良かったわ。


 エレオノーラの優しい声が何度もこだまする。大貴族の出だからと媚びへつらわれる一方で、半分は平民の血が流れていると蔑まされてきた自分にとって、ギルバート自身を愛してくれる言葉は何よりも欲していたものだった。そのことに気付いてしまったからには、もう自分の気持ちに否定はできない。

 本当はあの日、隣国の海で彼女を抱き寄せた時に自分の想いを告げるつもりだった。だが彼女の運命を知ってしまった今――エレオノーラがエドワルドと結ばれないと泡となって消えてしまうことを知ってしまった今、ギルバートにできることは限られている。一刻も早くエドワルドとの婚約の手筈を進めるか、自分の命と引き換えに彼女を海に戻してやるか。

 

(エレオノーラ……お前の為ならこの命、捨てるのも惜しくない)


 サラの話を聞きながら、ギルバートは固く拳を握った。



※※※


 そんな日々が数日続いたある日、ギルバートの元に王宮から書簡が届いた。エドワルドからの手紙だ。王家の紋章がついたその手紙を無言で読んでいたギルバートは、読み終えると同時に覚悟を決めるかのように静かに目を伏せた。


「エレオノーラ、数日後にお前を国の正式な航海士として任命する式を行う。お前もその覚悟でいてくれ」

「航海士? 式? どういうことなのかわからないわ」


 文机の前に置かれたソファに座り、最近ハンナに教わったとおりに紅茶を淹れていたエレオノーラはきょとんとしながら手を止めた。テーブルの上には紅茶の入ったティーカップがホワホワと白い湯気を立てている。

 白く立ち上る筋を暫くの間見つめていたギルバートは、やがておもむろに口を開いた。


「先日、隣国へ渡る際の航海でお前が進路を変えて嵐から船を救っただろう? その功績を称えてお前を国の正式な航海士に任命することが決まった。要するに、お前は国に認められた状態で、毎回の航海に着いていくことができる」

「本当に? 嬉しい話だけれど……でも、それだけのことでそんな大事な役目を賜ってもいいのかしら」

「いや、普通ならばそう簡単にはいかないな。だがこれは俺と殿下で話し合って決めたことだ。お前にも宮廷内で奮える権力を持たせ、そして殿下の婚礼が済んだ後お前をすぐに王室に入れる為の策だ。王族による身勝手な采配と捉えられる可能性はあるが、王室直属の航海士となれば、王宮にも出入りがしやすくなるからな」


 静かに告げるギルバートの声に、エレオノーラの胸が締め付けられる。彼は多少手を汚してまでもエレオノーラをエドワルドの第二夫人にしようと尽力してくれているのだ。季節は夏。海に花の匂いが交じるまでの時間はあまり残されていない。胸中を満たす不安の気持ちを抑えるように、エレオノーラは静かに胸に手を当てた。


(私は今、本当にエドワルド様のことが好きなのかしら)


 ギルバートから向けられる、痛いほどに思いの込められた感情に気がついていないわけではない。だがそれが幼馴染に対するものなのか、異性に向けられるものなのかを明らかにする自信はなかった。幼い頃から抱いていたあの淡く甘い恋の気持ちが胸の中にある内は、簡単に彼の気持ちに答えていいものではないからだ。 

 どちらにせよ、ギルバートやエドワルドの命を奪って人魚に戻る選択肢はエレオノーラの中にはない。だから今は彼の提案を受け入れるしかないのだった。


「わかったわ、ギル。貴方の言う通りにする。でも覚悟というのがわからないのだけど」

「王宮に入り、王族と近づくということはそれだけ他の貴族達から敵意を向けられることになる。殿下の愛人になるとしても、社交界にはなるべく出ないようにしてくれ」


 その言葉には、彼の今までの苦悩がにじみ出ていた。実感の伴った言葉にエレオノーラも素直に頷く。そして式の準備は滞りなく進められていった。


※※※


 式までの日はあっという間だった。

 その日、ギルバートと共に王宮に着くと、エドワルドがにこやかに出迎えてくれた。王宮内で行われる正式な催しの為、いつもより格式の高い衣服を身に纏っている。優しげな光をたたえた新緑の瞳と甘いマスク。蜂蜜色の髪は首元で絹の髪紐で結わえられており、正装したエドワルドはまるでおとぎ話から出てきた王子様そのものだった。

 エレオノーラが優雅に一礼すると、エドワルドが眩しそうに目を細める。


「来てくれて嬉しいよ、エレオノーラ。今日から君も貴族の一員だ。儀式は簡単なものだから、君は大人しく身を任せてくれればいい。緊張しすぎないようにね」

「はい、身に余る光栄です、エドワルド様」

「じゃあ玉座の間に行こう。ギル、ついてきてくれ」


 そう言ってエドワルドがエレオノーラの手を引く。弾みでよろけたエレオノーラの腰を、もう片方の手が力強く支えてくれた。


「も、申し訳ありません、エドワルド様。あの、一人で歩けますので」

「いいんだよ、僕がこうしたいんだから。玉座の間はすぐそこだからこのまま行こう」 


 そう言ってエドワルドがエレオノーラの腰を抱いたまま歩き出す。睦まじく歩く二人を、周りの貴族達が驚きに目を丸くしながら見ていた。中にはこちらを見ながらヒソヒソとあからさまな視線を向けてくる者達もいる。好奇の目から逃れるように身を縮こませていたが、エドワルドは全く気にしていない様子だった。むしろ、二人の親密さをわざと周囲に見せつけているようだ。

 エドワルドの横を歩きながらチラリと目線をあげると、見慣れた新緑の瞳は優しい光を潜め、挑むようにしっかりと前を見据えていた。まるで別人のような彼の表情にエレオノーラは息を飲む。王宮内で見る彼は、為政者の顔をしていた。


 玉座の間には、大勢の人々がいた。正面の椅子にはこの国の王が腰掛けており、傍らには見た事のない若い男が座っていた。おそらく、彼が第二王子であるアーサーなのだろう。エドワルドによく似た蜂蜜色の髪と美貌から、彼らが血を分けた兄弟であることがよくわかる。だが、エドワルドは彼を冷たい瞳で一瞥しただけだった。


(エドワルド様と第二王子はあまり仲がよろしくないのかしら)


 以前に船の上で第一王子派と第二王子派で対立しているという話を聞いたことを思い出す。貴族同士が勝手にそれぞれの派閥についているだけかと思っていたが、どうやら当人達同士の間も肉親の情はないらしい。

 王宮内でエドワルドが計算高く振る舞うのは、おそらく敵を牽制し第一王子としての地位を盤石にする為なのだろう。政治の為に手段を選ばないエドワルドの姿を目の当たりにすると同時に、貴族社会の中でも非情になりきれないギルバートのことを思ってエレオノーラの胸がチクリと痛んだ。


 厳かに始まった式はつつがなく進められた。ギルバートはエドワルドの後方でピンと背筋を伸ばしたまま直立している。剣を握りしめ、鋭い灰色の目は何者をも見逃さないようにしっかりと前を向いていた。

 エドワルドが立ち上がり、前に出る。金糸の入った書簡を取り出し、エレオノーラの名前を呼ぼうと彼が口を開いた時だった。 


 それは本当に一瞬の出来事だった。


 貴族の集団の中から、突如男が飛び出し、エドワルドに向かって突進する。手元の短刀が鈍い光を放った。だが、鋭利な切っ先がエドワルドの胸を突く直前に背後から黒い影が飛び出し、男の前に躍り出る。

 ギルバートが剣で男の腕を切り落としたのと、男の短刀が彼の腹に刺さったのは同時だった。


「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 胴体から離れた腕が鮮血を吹きあげながら地面に転がり、どこかの令嬢が悲鳴をあげてその場で卒倒する。片腕を失った男は恐ろしい悲鳴をあげながら床にのたうち回っており、ギルバートはぐっと低く唸りながら、腹を抱えるようにして地面に片膝をついた。


「ギル!」


 鮮血が騎士服を黒く染め上げているのを見てエレオノーラは悲鳴をあげた。慌てて駆け寄ろうと立ち上がるが、ギルバートの片手がそれを制する。見ると、乱入者が落ちている短刀を拾い、それを振り回しながら決死の覚悟で逃げようとしている姿が見えた。

 ギルバートも腹を押さえながら扉を目指して走る男を追いかけ、剣を奮って男のふくらはぎに一太刀いれる。耳をつんざくような絶叫。地面に倒れる音。床に倒れ伏す男の背をギルバートが踏みつけ、短刀を剣で薙ぎ払った。


「殺すな! こいつの口を塞げ! 後で黒幕を吐かせる」


 ギルバートの言葉に、慌てて他の近衛騎士達が男を押さえつけ、猿轡を噛ませる。男は終始暴れていたが、他の騎士達の手によって無理やり牢へと連れて行かれた。直後、緊張の糸が切れたかのようにギルバートも地面に膝をつく。腹を抑えた指の間から流れ出る鮮血が床を赤く濡らしていた。

 慌ててギルバートに駆け寄ると、彼は荒く呼吸をしながら歯を食い縛っていた。


「ギル……血が……!」


 背後で王宮侍医達が慌ててこちらにやってくる音がする。腹を抱える血まみれの手に触れようとした瞬間、ギルバートが鋭い目でこちらを向いた。


「触るな。多分、何か塗られている。おそらく、毒のたぐいか何かだ」

「毒って……そんな!」

「やつは確実に殿下を殺す気でいたようだな」


 言いながらギルバートの顔はどんどん青ざめていき、呼吸も浅くなっていく。紡がれる言葉も途切れがちになっていくのを見て、エレオノーラは慌てて彼の体を支えた。王宮侍医のひとりがこちらに向かってくるのを見た途端、安心したのかギルバートはエレオノーラの腕の中で意識を手放した。

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