第20話 上陸(2023/05/21加筆)

 だが、案の定船長は進路の変更について良い顔をしなかった。


「ギルバート様。ワシはもう何十年も海に出て何百と航海をしております。それをこんな若い娘さんのおままごとにつきあわされるのじゃ立つ瀬がありませんぜ」

「お前の言うことは最もだ。だが、この海は他の海と違って荒れやすい。先の嵐で船が転覆したのはお前も知っているだろう? 先方との国交を強固なものにするためにも我々はもう同じてつを踏むことはできない」

「そうは言われましても……」


 船長が口ごもり、顔をあげて空を見る。頭上に広がるのは雲ひとつない晴天で、雨風の気配は皆無だ。

 だがエレオノーラにはわかっていた。海自身がこの後荒れることをエレオノーラに教えてくれている。このままいけば突如現れた雷雲が風によってこちらに流され、嵐のど真ん中に突入することは明白だった。


「船長さん。もうすぐ嵐が来ます。早くここを離れないと」


 エレオノーラが焦燥感に駆られながら言うと、船長が胡散臭げな顔でエレオノーラを見る。


「お嬢さん、良いですか。これは命がかかっているんですよ。少し風や波が読めるからってそう簡単に進路は曲げられません」

「違うんです。私にはわかるんです、信じてください」

「いんや。ここは真っ直ぐに行かせてもらいます。良いですね?」


 船長の言葉にエレオノーラはぐっと拳を握った。このままでは先日のように船はまた嵐に巻き込まれて転覆してしまうだろう。おまけに今の人間の姿では前回のように彼らを助けることもできない。懇願するようにギルバートを仰ぎ見ると、彼は意を決したように腰から剣を鞘ごと引き抜いた。


「この船の意思決定権は私にある。もしも殿下の御身を危険に晒すようなことがあれば、私はこの剣を返上しよう」


 そう言って彼の目の前の机にごとりと剣を置く。その硬質な響きに船長はびくりと肩を震わせた。


「ギルバート様。何のご冗談ですか。剣は騎士の命でしょうに」

「私はそれ程本気だと言うことだ。すべての責任は私がとろう。彼女の言うとおりにしてくれるか?」

「し、しかし……」


 船長は口ごもりながらギルバートの顔を仰ぎ見る。だが、その灰色の鋭い視線は一点の曇りもなく真っ直ぐに自分を見返していた。


「わかりましたよ! もうどうなってもワシは知りませんからね!」


 声と共に船長がぐいと右に舵を切る。豪奢な船はゆっくりと進行方向から外れ、大きく曲がっていった。

 その時、青い空を引き裂くように雷鳴が轟き、ポツリポツリと水滴が頬をうつ。降り始めた雨はみるみるうちに大粒の雨になり、白い高波があちこちで目に見えるようになった。

 ギルバートが操舵室を出て指示を出す声が聞こえる。エレオノーラは船長の隣で冷静に海の様子を見ていた。

 先程まで静かに広がっていた空が一瞬で真っ黒な雲に覆われる。波が船を殴りつけ、エレオノーラも柱に掴まっていないと倒れてしまいそうな程に大きく揺れた。だが嵐の中心は避けられたようで、船が転覆するほどの衝撃ではない。

 ふと視線をそらすと、遥か遠くで黒い雲を引き裂くように稲妻が何本も海に落ちている様子が見えた。先程までエレオノーラ達が進んでいた航路だ。隣にいる船長が息を飲む音が聞こえる。

 その後も船は嵐の直撃を免れながら進んでいき、やがて収まりゆく波と共に船はまた晴天の中に戻った。


「はー……命拾いしました」


 舵輪から手を離した船長がぐったりと椅子に背を預ける。彼は椅子に沈み込みながらちらりと隣のエレオノーラに視線を送った。


「お嬢さんは一体何者なんです。長年海に出ているワシですら予測できなかったというのに」

「小さな頃からここで暮らしているからこの海のクセがわかるの。それだけよ」


 話をはぐらかしながら答えると、彼はどうやら信じてくれたようでそれ以降は素直に意見を聞いてくれるようになった。

 その後もエレオノーラは何度か海の声を聞き、船の進路を決めていった。度々悪天候に見舞われることはあったが、いずれも直撃は免れた為に大きな被害はなかった。


 嵐の海域を抜けた後は順調に進んでいき、幾日か経った後にやっと陸地を確認することができた。船が近づくと共に色鮮やかな建物群や建造物を確認できるようになり、港で出迎える人々の姿も肉眼でハッキリわかるようになった。

 甲板に出て町の様子を眺めていると、背後から誰かが近づいてくる気配がした。


「エレオノーラ。君のおかげで無事に着くことができたよ、ありがとう」


 声の主はエドワルドだった。その澄んだ瞳は真っ直ぐに自分を捉えていて、エレオノーラはモジモジと視線をそらした。声をかけられた嬉しさと、役に立てたという誇らしい気持ちで胸が熱くなる。

 はにかみながら頬を赤らめていると、エドワルドがにこやかに微笑んで自身の襟元に手を入れた。中から出てきたのは金細工のペンダントだ。凝った意匠のペンダントの中央に澄んだ海色の石がはまっている。それはかつてエレオノーラがエドワルドに贈ったあのアクアマリンだった。


「そのペンダント、持っていてくれたんですね」

「ギルバートが馴染みの武器店に持って行ってくれてね、僕が公務の場にも持って行けるように作り直してくれたんだ。これを持っているとなんだかいつも君が側にいてくれているみたいで胸が温かくなるよ」


 そう言ってエドワルドが目を細める。静かな森のように優しい新緑色の瞳が愛おしげにエレオノーラを見つめ、その甘い視線にエレオノーラの心臓がきゅっと心地良く締め付けられた。

 幼い頃からずっと夢見ていた光景だ。人間の体を手に入れて地上に上がり、こうやって恋をした相手と向かい合わせになっているのだから。

 どきまぎとして俯いていると、エドワルドの長い指が伸びてきて肩にかかったエレオノーラの髪をそっと背中に流した。首元があらわになり、首にはめられたダイヤの首飾りが日の光を受けてキラリと輝く。


「君も僕が贈った首飾りをつけていてくれているんだね。嬉しいよ」

「え、ええ……だってエドワルド様がくださった物ですもの。私にとっては何よりも大切なものだわ」

「はは、君は可愛いことを言ってくれるんだね」


 エドワルドの手が優しく肩に添えられる。そのままその手がゆっくりと背中に回されたかと思うと、突然ぐっと引き寄せられてエレオノーラはエドワルドの腕の中にいた。


「エ、エドワルド様……!」


 初めて感じる想い人の腕の感触にエレオノーラの頬が熱を帯びる。エドワルドに腰を抱かれたまま顔を上げると、彼は熱っぽい視線でエレオノーラを見つめていた。


「僕もずっと君を愛おしいと思っていたんだ、エレオノーラ。でも君は人魚だ。種族が違うから婚姻関係を結ぶことは難しいとずっと諦めていた……でも君は人の体を得て陸に上がってきてくれたんだね。まるで夢みたいだ」


 エドワルドが腕に力をこめ、胸元に抱き寄せられる。頬に触れる硬い胸板の感触に、あの優しく美しかったエドワルドももう立派な大人の男になっていることを意識してしまってふるりと体が震えた。


「エレオノーラ、君はまだ僕のことを愛してくれているかい?」


 耳元でエドワルドが囁いた。吐息のように微かな声がエレオノーラの耳朶を震わせる。


「は、はい……勿論です」

「もし君が頷いてくれるなら、僕は君を迎えに行くことができるよ。君の本意ではない形かもしれないけど」

「それは……どういうことですか」


 エドワルドの意味ありげな言葉にエレオノーラの胸がざわざわと騒ぐ。だがエドワルドが返答する前にカツカツと靴音が聞こえ、ギルバートが現れた。彼は真っ直ぐにエドワルドの元へ行くと静かに頭を下げる。


「殿下、もうすぐ隣国へ到着いたします。下船のご用意を」

「わかった、この話の続きはまたしよう。ギル、準備をしてくれ」

「仰せのままに」


 顔をあげたギルバートがちらりと視線を横に流してエレオノーラを一瞥する。彼の視線を受け、人前で王子と抱き合っていることにようやく気づいたエレオノーラは慌ててエドワルドの腕から離れた。

 ギルバートが大きく息を吐き、呆れた視線を送る。


「恐れずに申し上げますが殿下、ここは人の目があります。あまり大胆なことはなさらない方がよろしいかと」

「良いんだよ。この方が後々周囲の者達を牽制できるから」


 自身の装いを手で整えながらエドワルドが事もなげに言う。彼のいわんとしていることはわからなかった。だがエドワルドの言葉を受けてエレオノーラを見たギルバートの灰色の瞳はどこか痛ましそうで、そして切なげに揺れていた。まるでこの後、エレオノーラに悲しいことが起こるのをわかっているような、そんな哀しげな瞳だった。


(どうしたのギル……どうしてそんな顔をするの?) 


 わけがわからないままにギルバートの顔を呆然と見つめていると、錨を下ろす音が聞こえ、港に停まると同時に船は長い航海を終えた。


 港には大勢の人が待っていた。皆それぞれきらびやかで高価な衣装を身にまとっており、紋章のついた旗や馬が美しい隊列で並んでいる。

 あまりにも盛大な歓迎にエレオノーラが目を丸くしていると、隊列の中から王冠を頭に載せ、一際豪奢な衣装をまとった女性が進み出た。明るい茶色の髪を結い上げ、ふんわりと柔らかそうな印象を持つ女性だ。彼女は船の上にいるエドワルドを見つけると心から嬉しそうに微笑んだ。


「ギルバート、あの方は誰?」


 エレオノーラの言葉に、ギルバートが一瞬目を伏せた。だが眉は潜められ、険しい顔をしている。

 暫しの間無言でいた彼は、やがて灰色の瞳で女性を見つめながら口を開いた。


「あれは隣国の王族と従者達だ。あそこにおられるのが第一王女。王子の婚約者となる者だ」

「婚約者……?」


 今しがたギルバートから聞いた言葉がぐるぐると頭の中で渦を巻く。まだ人間の世界には疎いエレオノーラも、その言葉の持つ意味はよくわかった。


「エドワルド様はあの方と結婚するの?」

「殿下が十五の時に縁談があがり、今までは互いに文を交わす程度だった。だが、この度正式に婚約することが決まった。今回の航海は、国交を結ぶ儀式を行なうと同時に婚約の場を整える目的もある。順当にいけば、殿下の正妻はあの方になるだろう」


 ギルバートの言葉は淡々としていて、ただ事実を告げるのみだった。だがその表情は何かに堪えているかのように苦しげだった。


「お前が望めば殿下との婚約を結びつけることはできる。だが、なれるとしても第二夫人までだ。お前がそれでも殿下との婚姻を望むなら、俺は尽力する」


 ギルバートの言葉に、エレオノーラは咄嗟に返事ができなかった。

 第二夫人。それはエドワルドの妾になるということだ。口をつぐんでしまったエレオノーラに痛ましそうな一瞥を送ると、ギルバートは静かに船を降りていった。

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