第21話 失恋(2023/05/21改稿)

 その後、エドワルドとギルバートは大勢の従者を伴い、この国の王宮へ出発した。この後正式に国交を結ぶ儀式を行うらしい。エレオノーラは二人と別れ、その他の従者と共に来賓をもてなす為の宮殿へと案内された。

 宮殿はエドワルドが住む城と同じくらい大きく、またきらびやかで豪勢な作りだった。そこでエレオノーラはメイドに浴室に連れて行かれ、丹念に体を洗ってもらう。香油の入った湯に浸かり、風呂を出た後は真珠の飾りがついた薄水色のドレスを着せてもらった。海の色をしたゆるやかな巻き毛にも櫛を通して髪飾りをつけてもらい、仕度が終わる頃には窓から見える空はすっかり闇を纏っていた。


 メイドに連れられて案内された場所は、王宮内にあるホールだった。金細工の意匠が施された白亜の壁には真っ赤なビロードのカーテンがかかっており、純白のクロスがかけられたテーブルがそこかしこに並んでいる。その間を、綺麗に着飾った貴族の男女が手にグラスを持ちながら楽しげに歩き回っていた。そう言えば仕度の際に、メイドから儀式が終わった後は交流を兼ねた晩餐会があると聞いていたが、これがそれなのだろう。

 部屋の奥へ進んでいくと、来賓席にエドワルドが座っており、隣国の貴族達と何やら楽しげに会話をしていた。エドワルドの傍らにはギルバートが背筋を伸ばして立っており、その周囲を他の護衛達が囲むようにして守っている。

 エレオノーラも彼の元に近づき、膝を折って挨拶をすると、エドワルドの周りを囲っていた貴族達がどよめいた。


「おお。これはなんとお美しい令嬢だ。どなたかの奥方様ですかな?」

「まだお相手がおらぬのならぜひ名乗りを上げたいところですな」

「これから国の行き来も増えますゆえ、海を渡っての婚姻も増えるでしょうなぁ」


 値踏みするような視線に耐えきれずにうつむくと、エドワルドが立ち上がってエレオノーラの肩に手を置いた。


「彼女はこの国の優秀な航海士であり、そして僕の幼馴染でもある女性だ。ランベルト家にも縁がある。良ければ仲良くしてやってくれないか」


 エドワルドの言葉を聞いた途端、隣国の貴族達が一斉にエレオノーラを見た。その目は獲物を狙う獣のように光っており、今の発言で隣国の貴族達がエドワルド第一王子殿下と縁を繋ぐ為にエレオノーラを標的に定めたのがわかった。

 一人の貴族が進みいでてエレオノーラの前に跪き、手を取って熱っぽい目で見上げてくる。


「これはこれはお美しいご令嬢だ。実は我が家には一人近衛騎士を務めている息子がおりましてね。なかなか美男子だと世間でも評判の男なのだよ。どうです、一度会ってみては」

「いやいや何を言う。まだ出会ったばかりのご令嬢を口説くやつがおるか。海の色をまとった美しいお嬢さん。実は我が家は建国当時より騎士の栄誉を賜っている家でしてな。この国に訪れた際はぜひ我が家の晩餐会に足を運んでいただきたい」

「いやいや我が家の舞踏会にぜひ」

「あ、あの、私、まだそういうことはわからなくて」


 目を爛々と輝かせながら口々にエレオノーラを口説き始める貴族達が恐ろしくなり、エレオノーラは咄嗟にギルバートの後ろに隠れる。ギルバートが腕組みをしながら無表情で貴族達を睥睨へいげいすると、強面の騎士におそれをなしたのか貴族達は一斉に口をつぐんだ。


「殿下、あちらに隣国の王女様がおいでです。ぜひご対面を」


 傍らに控えていたギルバートがエドワルドに進言する。振り向くと、広間の奥から王冠を載せた麗しい女性が豪奢なドレスをまとってこちらに向かって来るのが見えた。


「そうだね、ちょっと挨拶をしてくるよ。エレオノーラ、またね」


 エドワルドが立ち上がると同時に周りの貴族達もはけていく。一人か二人はまだエレオノーラと話したそうにチラチラと視線を送っていたが、ギルバートの鋭い瞳に睨まれて慌てて離れていった。


「大丈夫か」


 頭上からギルバートの声がする。顔をあげると、灰色の瞳が気遣わしげにこちらを見ていた。


「え、ええ、ちょっとびっくりしたけど、大丈夫よ」

「殿下は本気でお前を王室に迎える気なんだ。ああやってお前の存在を貴族達に認識させて、お前を迎えることに反対する者を減らす。お前にも負担をかけるがこらえてくれ」


 彼の言葉でやっとエドワルドの行動に合点がいった。自分を今回の航海に呼んだのも、先程船にいる時に抱き寄せられたのも、エレオノーラとエドワルドの親密さを周囲に見せつける為だったのだろう。

 そっと視線をホールに向けると、隣国の姫君と談笑をするエドワルドの姿が見えた。いつもエレオノーラを見つめる柔らかく優しい眼差しは、今は目の前の愛らしい女性に向けられている。

 一人だけ取り残されたような寂しい気持ちを感じながらエレオノーラは睦まじい二人の様子をずっと眺めていた。そしてそんなエレオノーラの様子を、ギルバートも無言で見つめていた。



 宴もたけなわとなり、両国の貴族達はそれぞれ思い思いに過ごしながら親睦を深めている。エドワルドも従者を伴いながら隣国の貴族達と次々に挨拶を交わしており、他の従者や護衛達も王子と適度な距離を保ちつつもそれぞれパーティーを堪能していた。

 エレオノーラは持っていたグラスをそっとテーブルの上に置くと、開け放たれた扉から夜の庭へ足を運んだ。ホールと地続きになっている庭園は、エドワルドの住む王宮と比べても遜色ないほど見事だ。

 エレオノーラは季節の花々が咲き誇る石畳の道を歩き、庭園に鎮座している大きな噴水の縁に腰をおろした。精緻に掘られた石像から水が夜空に放たれる音が聞こえる。澄んだ水の音を聞きながら、エレオノーラは静かに目を伏せた。

 隣国との国交を結ぶ為に婚姻をするエドワルド。

 王族や名家と繋がりがあるとわかった途端に縁を結ぼうとする貴族達。

 人間の世界は純粋な恋心だけでは愛する人と結ばれることはできないのだということを、エレオノーラはもうとっくにわかっていた。例えエドワルドに婚約者がいなかったとしても、貴族社会ひいては人間の世界の事もよく知らないエレオノーラがこの国を統べる王の伴侶になることなど最初から無理な話だったのだ。

 ふと視線を噴水に移すと、自分の姿が水面に映っているのが見えた。首元には月光を受けて光り輝くダイヤの首飾り。エドワルドからもらったものだ。噴水の縁に横座りになり、じっと水面を眺めていると、誰かが隣に座る気配がした。


「なんだ。泣いているのかと思ったのだが」


 顔をあげると、ギルバートが腕組みをしながらこちらを見ていた。意地の悪いその言い方になんとなく素直になりたくなくて、エレオノーラもふいと彼から視線をそらす。


「……もし泣きたかったとしても、そんな意地悪なことを言うあなたの前では泣かないわ」

「ははっ。まったく、お前は本当に可愛げがないな」


 ギルバートが乾いた笑いを漏らす。だが、その声色は涙が出そうなくらいに優しかった。彼が自分の心に寄り添おうとしてくれているのが痛いほどわかる。今も──いや、前からずっと。


「ギルバートは、私が傷つかないようにずっと守ってくれようとしていたのね。私が人間になりたいって言った時に反対していたのは、一途に想うだけでは恋が叶わないことを知っていたから」

「……お前にはすまないことをしたと思っている」


 噴水の音に消えてしまいそうなほど弱々しい声が隣から聞こえた。


「殿下もお前のことを慕っているのは事実だ。だが、この国の王女との婚姻が我が国にとって必要不可欠なのも確かだ。何の力も後ろ盾も持たないお前が王妃になることはかなり難しい。だが第二夫人にすることならできる。そして殿下はそのつもりで動いている……殿下はお優しい方だ。例え別に正妻がいようとも、きっとお前のことも心から愛してくれるだろう。お前がそのことを受け入れられるのであれば」 


 そこでギルバートは言葉を切った。そっと彼の方へ視線を向けると、悔しそうな顔をして拳を固く握っているギルバートの姿が見えた。彼は自分の気持ちを知っていたからこそ、エレオノーラに本当のことを言えなかったのだろう。エレオノーラに渡航の同行を告げた時に苦しそうな顔をしていたのは、この事実にエレオノーラが傷つくことを知っていたからだ。

 ギルバートの優しい心遣いに冷え切っていた胸が温かくなる。だからこそその想いに報いたくて、エレオノーラはギルバートに精一杯の笑顔を向けた。


「ギル、私の為に色々と考えてくれてありがとう。それが最善の道なら私はそれを受け入れるわ。もっときちんと令嬢らしく振る舞えるように、お作法もお勉強も、もっといっぱい努力するから」


 だがエレオノーラはそこで口をつぐんだ。気丈に振る舞おうと固く両手を握りしめるが、言葉の端に湿っぽいものが交じる。泣くつもりはなかったはずなのに、うつむいた瞬間に思わず両の目からポロリと涙がこぼれ落ちた。


「エレオノーラ」


 どこかためらいがちな手がエレオノーラの頬にかかる髪に触れる。そのままゆっくりと頭を引かれ、エレオノーラは彼の胸に抱き寄せられた。


「ギル……?」

「泣いてもいい。さっきは言い方が悪かった。泣きたければ泣けばいい。俺は見ていないから……笑って誤魔化せる程度の気持ちじゃないだろう」

「どうして? 私、そんなんじゃないのに」

「俺も昔からお前を見てきたからな」


 その柔らかな物言いにそっと顔をあげると、頭上でギルバートが静かにこちらを見つめていた。いつもの険しい顔ではなく、どこか哀しげで、でも優しい表情だった。

 おずおずと躊躇いがちにギルバートの体にしがみつくと、ギルバートが微かに腕に力をこめる。あの時と同じ温もり。そう思った途端、まるで何かに解放されたかのように涙がポロリとこぼれ落ちた。


「ギル……ギル……!」


 この涙が失恋に対するものなのか、この世界で生きていくことの不安によるものなのかはわからない。だが一度溢れ出た涙は留まることなく頬を伝っていく。彼の名前を呼びながら、まるで年端のいかない少女のようにすがりついて泣いていると、大きな手が不器用に背中を撫でてくれた。  

 ギルバートはずっと黙っていた。黙ってずっと抱き締めてくれていた。暫くの間彼の腕の中で泣いているうちに、少しずつ胸の痛みが収まってくる。逞しい腕の中に身を預けながらエレオノーラは手の甲で涙を拭った。


「ギルバートは優しいのね……ずっと前から知っていたことだけど」


 顔をあげて視線を合わせると、灰色の瞳が微かに揺れた。慣れ親しんだその色を見ていると、心の中がじわりと温かい気持ちで満たされていく。

 

「人間の世界は思っていたことと違うことも多かったの。でもやっぱり私はここが好き。綺麗なものや美しいものを見て楽しいと思えるのはきっとギルがいてくれたからなのね……。私本当はいつもあなたに感謝してるのよ。ありがとう、ギル。あなたがこの世界にいてくれて良かったわ」


 精一杯の気持ちをこめて伝えると、ギルバートが低く息を飲んだ音が聞こえた。灰色の瞳に熱がこもり、彼の纏う空気がはっきりと変わる。ギル? と名前を呼ぼうと口を開いた瞬間、グイと抱き寄せられて力強く抱きしめられた。


「エレオノーラ……!」


 かすれ声と共にギルバートの鼻先がエレオノーラの首元を掠める。彼の吐息が首にかかり、まるで首筋に口付けをされているかのような──そんな生なましい感触に、エレオノーラの体が甘美でゾクリと震えた。


「ギル!」


 悲鳴のような声をあげると、自分を抱くギルバートの腕の力が緩んだ。慌てて顔をあげると、彼はいつものように鋭い瞳でこちらを見つめていた。だがその目はどこか熱を孕んでおり、まるで何かに懇願しているような苦しげな表情だった。


「ギルバート……どうしたの? なんだかいつものあなたじゃないみたい」

「エレオノーラ……すまない。今のは忘れてくれ」


 振り絞るように言うと、彼は何かに耐えるように眉をひそめて目を伏せた。そのまま無言で立ち上がり、宮殿の中へと戻っていく。


「ギル」


 返事はない。呼び止めようとして伸ばしたエレオノーラの右手が虚しく空を切るだけだった。拳を握りながら宮殿へ向かって歩いていく彼の後ろ姿は、まるで何かを振り切ろうとしているようにも見えた。

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