第19話 隣国へ(2023/05/16加筆)

 サラとギルバートはまだ婚約関係ではない。だが、あの一件以来、サラからは頻繁に手紙が届くようになった。届けられる手紙にユリの紋章が入っていれば、それは彼女からの手紙なのだ。

 いつも不機嫌そうな顔をして睨みつけるように手紙を読んでいたギルバートが、サラからの手紙には時折ふっと笑いながら目を通しているのもエレオノーラの心を波立たせた。ギルバートが幸せになることはエレオノーラにとっても嬉しいことであるはずなのに、素直に喜べない自分が恥ずかしかった。


 そんな日が続いたある日の朝。ギルバートに呼び出され、書斎で彼の話を聞いたエレオノーラは目を丸くした。


「隣国に行く為の船に私も乗るの?」

「そうだ。そしてこれは殿下のご意思でもある。お前は嵐の兆候を読むことができるだろう? その力を殿下の為に使ってくれないか」


 エドワルドやギルバートと一緒に船に乗ると聞いて、エレオノーラの目が輝いた。


「エドワルド様と一緒にいられるのね? ええ、もちろんよ。でも海の変化を読み取ればいいのよね? そんな簡単なことだけでいいの?」

「普通の人間には簡単なことではないからな」


 キョトンとした顔でたやすく言ってのけるエレオノーラに、ギルバートが苦笑する。この国の情勢も少なからず知っておいた方が良いと判断したギルバートは、エレオノーラに経緯を簡単に説明することにした。

 今、エレオノーラ達が住む国は隣国と繋がりを持とうと画策している。海を向こうの文化や産業を取り入れ、国としてさらなる発展を目指そうとしているわけだ。

 両国の国交を結ぶ正式な儀式を行う為に、国を代表としてエドワルド第一王子が選ばれたのだが、それを拒むのが両国を隔てる海だった。特に荒れやすいと言われているこの海への航海は、先日の嵐のように急な悪天候に見舞われて頓挫することも多く、隣国への渡航はなかなか困難を極めていた。


「今回は国交を結ぶ為の儀式だが、うまく事が進めばこれからも船を出す機会は格段に増える。その度にお前がうまく嵐を回避してくれれば、他の者達からの覚えも良くなり、お前も王宮に出入りしやすくなるかもしれん」

「本当に? そうすればもっとエドワルド様にお会いできる機会も多くなるわね」


 エレオノーラが声を弾ませるが、反対にギルバートは少しだけ硬い表情をしていた。口を一文字に引き結び、エレオノーラに気遣うような視線を送っている。


「ギル? そんな顔をしてどうしたの?」

「いや……何でもない。航海に出るのは一週間後だ。それまでしっかり体を休めておくんだな」


 そう言って部屋を出ていく後ろ姿をエレオノーラは不思議に思いながら眺めていた。



 日は飛ぶように過ぎ、あっと言う間に出港の日になった。エレオノーラも動きやすいながらも王族の前で失礼にならないように正装をし、馬車に乗って船着き場へ行く。馬車を降りると、船着き場に王家の紋章が入った大きな船が停まっており、エドワルドとギルバート、そして多くの従者達が船に乗り込む所だった。

 事前に言われた通りにエドワルドの元へ向かい、ハンナに叩き込まれたお辞儀を披露する。特訓のかいあって、特に笑われることもなく挨拶は終了した。

 ギルバートの指示に従って船に乗り込み、エレオノーラはどこまでも続く青い世界を見つめた。

 海に出るのは久しぶりだ。エレオノーラは甲板に出て、夏の風に海の色をした髪をたなびかせる。この海から地上に出てきて随分経つが、シェルは元気にしているだろうか。彼は突然海から消えたエレオノーラを心配しているに違いない。せめて一言別れを告げたかったとぼんやり思っているうちに、船は静かに陸を離れ始めた。

 海を眺めていると、ふと誰かの気配を感じてエレオノーラは振り向いた。そこにはマントを羽織り、きっちりと正装をしたギルバートとエドワルドが立っていた。


「エドワルド様!」

「やあ。見違えるようだね、エレオノーラ」


 深青の目を見開いて駆け寄ると、王族の服に身を包んだエドワルドがエレオノーラの手をとって優しく微笑んだ。


「君を船に乗せることについて僕が許可を出したんだ。エレオノーラは海の変化を読むことができるとギルから聞いたよ。何か異変があったらすぐに教えてくれるかい?」

「はい。もちろんです。お任せください」


 エドワルドやギルバートの役に立てるのだとエレオノーラが嬉しさに顔を輝かせながらその新緑の瞳を見上げる。エドワルドが優しい目でそれを受け止め、エレオノーラから手を離した時だった。


「第一王子殿下。恐れながら申し上げますと、そのような娘の意見に御身の命を預けることはいかがなものかと」


 背後から男の声が聞こえた。エレオノーラが振り向くとそこにはギルバートと同じく騎士服に身を包んだ壮年の男が膝をついて礼をとっていた。髪には白いものがまじっているが、その目は猛禽のように鋭い。エドワルドの側に控えていたギルバートが前に進み出て男を見下ろす。


「先にも説明したが、彼女はランベルト家に縁がある娘だ。そして彼女が同行することは殿下の意思でもある。お前はそれを知って物を申しているのか? 場合によっては不敬に当たるぞ」


 ギルバートが冷たく言い放つと、男は礼を取りながらもぐっとギルバートを睨めつけた。


「いいえ、閣下。私はランベルトの者であるからこそ心配しているのですよ。ランベルト家は王族の御身をお守りすることよりも、賜った栄誉を守ることに心血を注いでいると聞き及んでおりますゆえ」

「貴様。無礼がすぎるぞ」


 ギルバートの語気が鋭くなる。だが男はギルバートの睨みにもたじろぐことなく、小馬鹿にしたようにふんと鼻で笑った。


「半分は売女の血が流れている私生児のくせに偉そうなことを。生まれる場所さえたがえば今頃は汗水を垂らしながら客に酒を振る舞っていた男が、堂々とランベルト家の威光をかざすことができてさぞ気持ちが良かろう」


 吐き捨てるように発せられたその言葉には嘲りの響きがあった。ギルバートの瞳に鋭さが増すが、職務中に私情を交えてはいけないと思ったのか彼は口を真一文字に結んで黙ったままだった。

 エレオノーラには貴族社会のしきたりもギルバートの抱えている事情もまだよくわからない。だが、今目の前の男が明らかに彼を侮辱したことだけはわかった。

 視線をあげてギルバートの顔を見ると、彼は冷たい目で男を見下ろしていた。


「では由緒正しいベルマン家の嫡子に伝えておけ。他者を悪口あっこうする暇があるならば、剣を振ることに時間を使えと」

「っ……紛い物の存在がよくもぬけぬけと」


 静かに告げたギルバートの言葉に、男がギリッと歯噛みする。二人の頭上に広がる空は雲ひとつないほどに晴れやかだが、両者の間には激しい嵐が吹き荒れていた。

 二人の間に一触即発の緊張感が走る。だがその空気を破ったのはエドワルドの咳払いだった。ギルバートの背後にいたエドワルドが靴音を鳴らしながら前に出る。


「ベルマン家の者よ、彼女の同行は僕が許可をした。この船の責任者は僕だ。命令が気に食わないと言うならば今すぐにこの船を降りるが良い」

「滅相もございません、殿下。我々は貴方様の意思に従うのみでございます」

「そうか。用がないならばもう行け」

「はっ。殿下の御前で大変失礼をいたしました。それでは私はこれで」


 エドワルドの前で跪いた男が深々と頭を下げる。顔をあげ、もう一度ギルバートに憎々しげな一瞥を送ると、男は立ち上がってそのままどこかへ行ってしまった。

 張り詰めた空気が弛緩し、ギルバートが呆れたようにため息をつく。


「今の人は誰なの?」

「奴はベルマン家の者だ。俺の生家と同じく、この一族も代々王家の護衛を務めている。だが、力関係はランベルトの方がやや上だな。だからこそこの一族は俺達を目の敵にしているんだ」


 エレオノーラが問うと、ギルバートが淡々と答える。貴族社会の派閥や力関係はまだエレオノーラには難しい内容だったが、ひとまず今の男とギルバートの家が仲が悪いことはわかった。

 ギルバートがエドワルドに向き直り、恭しく頭を垂れる。  


「申し訳ございません、殿下。下々の者達のいさかいなど雑音でしかないでしょうに」

「いや、君にはいつも迷惑をかけてすまないと思っているよ、ギル。アーサーのことでも負担をかけているしね」

「第二王子の件はひとまず置いておきましょう。今は隣国との国交を結ぶことの方が大切です。長い船旅ですから、殿下も部屋でお休みください。雑事は私が済ませておきます」

「そうだね、ありがとうギル。エレオノーラもあまり無理はしないように」


 そう言ってエドワルドが甲板から去っていく。後に残されたエレオノーラは、そっとギルバートの側に寄り添った。

 エドワルドの背中を見送る灰色の瞳は凪いでいて、怒りも、悲しみも何の感情も宿していない。だが、先程ギルバートにぶつけられた呪いの言葉がエレオノーラの心をぐるぐると渦巻いていた。

 売女の私生児。以前ギルバートからチラリと聞いた彼の生い立ちが頭をよぎった。母親が庶民の出だったというだけでなぜこれほど彼が悪く言われなければならないのかはわからない。だがあからさまな悪口はエレオノーラでさえ胸が痛くなったのだから、ギルバートが受けた傷はより深いだろう。

 何と声をかけたら良いかわからず気遣うように彼の服の裾を掴むと、ギルバートがそれに気づいて苦笑した。


「すまない。怖い思いをさせたか。だがきらびやかな貴族社会の裏側はこんなものだ。失望したか?」

「ううん違うの……あの人、ギルバートに向かって酷いことを言うから」

「貴族としては半端者である俺に頭を下げなければならないのが不満なのだろう。由緒正しい家柄ほど血縁が全てだからな。確かに俺の母親が未婚のまま子を産んでいれば、俺は今この船の上にはいない。奴らからすれば、俺は名家の栄誉をたまたま手にした卑怯な男にしか見えないんだろう」

「でもギルバートがエドワルド様の護衛に任命されているのは毎日ギルが頑張って稽古をしているからでしょう? これは血筋じゃなくてギルの実力だわ」


 憤慨しながら言うと、ギルバートが意外そうな顔をする。


「なんだ俺の味方をしてくれるのか。お前にしては珍しいな」

「もう、あなたって本当にそういうことしか言えないのね。私だって善悪の区別くらいつくわ」


 唇を尖らせてすねた声で言うと、ギルバートが目を丸くする。一瞬驚いた顔をした後、彼は声をあげて笑った。先程までのしかめっ面は消え失せて、表情がぐっと柔らかくなる。


「まさかお前に庇われる日が来るとはな。心配するな。そんなことを言われるのはとっくに慣れている。お前は余計なことを考えずに船旅を楽しむといい」


 優しい声だった。どうやら心配するエレオノーラを安心させてくれようとしているらしい。彼の表情は穏やかで口元には笑みさえ称えていたが、そんな柔らかな表情でさえエレオノーラの目には痛ましく映った。


(でもギル、悪口を言われることに慣れるなんて絶対におかしいわ) 


 そう伝えようとして口を開きかけた時だった。

 エレオノーラの肌をざらりとした風が撫でた。突然潮の匂いが濃くなり、ザワザワと海が何かを語りかけてくる。身に染みつくほどに何度も経験してきたその感覚の意味をエレオノーラは瞬時に理解した。


 嵐の兆候だ。


 エレオノーラは慌てて空を見上げ、雲の動きを確認した。今はまだ白い小さな雲が点々と青空に散っているだけだが、この雲が一瞬のうちに雷鳴を伴う灰色の雷雲になることはこの海に住む者の常識だ。おまけに風の向きと船の進行方向から考えると、このまま行けば嵐の中に突撃するのは避けられない。


「ギル、嵐が来るわ。このまま行けばこの船は大波に巻き込まれることになる」


 手短に伝えると、ギルバートの灰色の瞳が大きく開いた。


「わかった、船長に行って進路を変えよう」


 そう言って足早に操舵室へ向かっていくギルバートの背中を、エレオノーラも慌てて追いかけていった。

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