第18話 焦燥感

 ハンナの案内により、サラは屋敷の中へ足を踏み入れた。ギルバートは小さい屋敷だと言っていたが、成り上がり貴族であるサラにとっては大きな屋敷だったようで、目を輝かせながらしとやかに歩いていく。

 二人が客間に消えた後、エレオノーラは所在無げに玄関ホールに立ち尽くしていた。

 初めて目の当たりにする本物の令嬢を見てエレオノーラの胸はドキドキと大きな音を立てていた。自分のように付け焼き刃な振る舞いではなく、幼い頃から磨き上げられてきた本物の作法は人間の世界に疎いエレオノーラから見てさえ美しかった。


(あんなに綺麗なお作法を見たら、ギルバートも彼女を素敵に思うわよね……)


 本物の令嬢を目にした途端、なぜだか急にギルバートの目に映る自分の姿が気になってしまった。随分マシになったものの、エレオノーラの辿々しい振る舞いは幼い頃から宮廷で生活していたギルバートから見れば児戯に等しいものだろう。そう思った途端、自分の存在が酷く恥ずかしいものに思えて仕方がなかった。

 何もすることがないエレオノーラは、ひとまず自室に戻ることを決めた。それでもやはり二人の様子は気になる。エレオノーラはそっと厨房に入り、ちょうどお茶を出したばかりのハンナの側に近寄った。


「ハンナ、ギルバートはあの方と結婚するの?」


 小声で問うと、ハンナはチラリと客間に視線を送った。今、二人は客間のソファに座りながら話し込んでいる。サラは目を輝かせながら夢中で話しかけているが、ギルバートは時折相槌をうつなど素っ気ない態度だ。さすがに普段の不機嫌な顔は潜めてよそ行きの顔を作っているが、一刻も早くこの時間が去って欲しいと顔に書いてあった。

 そんな彼の表情を視界に入れ、ハンナは静かに首を振った。


「ぼっちゃまはサラ様と結婚する気はありません。ですが、先方がどうしてもお屋敷を見ておきたいと……あちらはどんな手を使ってでもランベルトの家名が欲しいようですわ。浅ましい」


 半ば強引に仲を取り持とうとするサラの家に、ハンナも憤慨しているようだった。確かにサラは先程からギルバートに気に入られようとお世辞を言ったり愛想を振り撒いている。美しい黒髪を見せたいのか、先程から彼女が口を開く度に高く結い上げた巻き毛の尻尾が小刻みに揺れていた。

 エレオノーラが厨房から見守っていると、ハンナがエプロンを整えて静かに厨房を出ていく。いつ声がかかっても良いように主人の側に侍るのだ。客間の隅で礼儀正しく立っているハンナを見て、エレオノーラもそっと厨房を離れようと客間に背を向ける。だが、二人の話し声が聞こえてきて、エレオノーラは思わず足を止めた。


「ギルバート様はとても素敵な御方でいらっしゃるのね。名家の出で名ばかりの騎士職だけもらって身も懐も肥えた者達のなんと多いことか。それに加えてギルバート様はしっかり鍛練をされているのが一目でわかります。王子を守る方ですもの。きっと剣の腕前も申し分無いはずですわ」


 サラが身ぶり手振りを加えて──それでもしとやかな振る舞いでギルバートを褒め称える。見え透いた軽い言葉に辟易したのか、ギルバートが眉を潜めて、持っていたカップをコトリと置いた。


「出会ったばかりなのに貴女は私のことをよくご存知のようだ。見てくれ以外で判断するべき所など無いだろうに」


 声色は穏やかだが、かなり皮肉めいた口調だった。彼が内心で苛立っているのが手に取るようにわかる。だがサラも負けてはいなかった。


「ギルバート様の御名は市井にも知れ渡っていますわ。皆あなた様のことを褒めておりますとも。わたくしも同感ですわ」

「ほう。では私が妾腹の子であることも勿論ご存じですな。貴族の社会では汚い娼婦の血が流れていると後ろ指をさされる。その汚名は、ゆくゆくは貴女にも影響するだろう」

「それがなんだと言うんですの?」


 遮るようなサラの言葉に、ギルバートの瞳が一瞬大きく開かれる。彼女の顔を見ると、サラは大きな茶色の瞳でしっかりとギルバートの目を見ていた。


「私のことを馬鹿にする者がおりましたら、私がその者よりうんと上に立って見返してやりますわ。私も元は商家の出。陰口などとうに慣れっこになっております。だから私にとってそれは何の枷にもなりませんわ」


 サラがカップを手に取り、口をつける。テーブルの上に再びカップを置いた彼女の指先は微かに震えていた。


「家柄も血筋も関係ありません。わたくしは貴方様が良いと思ったから婚姻を申し込んだのです。貴方の評判は町の人々から聞いています。名家を継がなくても、高貴な血をひいていなくとも、貴方のような誠実な方ならわたくしを幸せにしてくれると信じておりますわ」


 そこまで言い切ると、サラはギルバートに向かって微笑んだ。勝ち気な表情は成りを潜め、優しく、そして熱っぽい視線だった。

 ギルバートの瞳がサラに釘付けになる。その灰色の瞳は大きく見開かれ、微かに揺れていた。その表情を見た途端、何かに刺されたような鋭い痛みを感じて、エレオノーラは思わず胸に手をあてた。


 心臓が──痛い。


 わけのわからない焦りに翻弄され、エレオノーラは混乱していた。気持ちを落ち着けようと両手でスカートの端をきゅっと握る。なんとなく二人を見ていたくなくて、エレオノーラは静かに厨房を出ていった。

 自室に戻った後、エレオノーラは窓際の椅子に静かに座った。空気の入れ換えの為かハンナが窓を開けており、風がエレオノーラの海色の髪をふんわりとなびかせている。ふと風の中に海の匂いを感じて、エレオノーラは思わず窓へ近づいていった。

 窓枠に手をついて、爽やかな風を顔に浴びる。懐かしい海の匂い。かつて住んでいた海は、ギルバートの屋敷からはかろうじて見えるくらいだ。それでも風は確かに海の匂いを運んでくる。海と陸とを繋ぐそれはエレオノーラの心を少しだけ慰めてくれた。

 だがエレオノーラが窓を閉めようと窓枠に手をかけた時、視界の端に人影が映った。ギルバートとサラだ。サラは今、ギルバートの左腕に自身の腕を絡めながら美しい庭園を歩いている。


「……それでわたくし言ってやりましたの。あなたはご自身のドレスが私のものより高価だとおっしゃいますが、そちらのドレスはわたくしの家が出資をしている仕立屋で作られたものだって。そしたらその方真っ青になってしまって。あの時の顔は本当におかしかったわ、今でも思い出すと胸がすうっとしますの」

「そうか。あなたは物怖じしない性格なんだな」


 得意気に話すサラに返答するギルバートの声色は、先程とは打ってかわって優しい。彼女を見つめる灰色の瞳もいつもより柔らかく、その表情はエレオノーラの心に波を立たせた。

 サラがギルバートを見上げながら得意気に胸を張る。


「ええ。言いたいことを言えない口なんてあったってしょうがないですわ。そうそう、それで今度からあなたが買い付けに来たときはわたくしが直々にデザインして差し上げましょうかと言ったら、その方は慌てて逃げて行きました」

「ははっ。これは気の強いお嬢さんだ」


 ギルバートが笑う声が聞こえる。愛想笑いではなく、心から楽しんでいることが声色や表情から伝わってきて、エレオノーラの胸がキリリと痛んだ。


(ダメよエレオノーラ。本当は喜ばしいことなんだから……)


 そう。これはギルバートにとっては良縁に違いないのだ。彼がサラの言葉に救いを感じ取ったのは、あの時の彼の表情からも一目瞭然だった。

 名家に生まれ、その名のせいで苦しんできたギルバートにとって、気が強く物怖じしないサラは大きな存在になるに違いなかった。

 サラと会話をしていたギルバートがつと顔をあげ、門の前に停まっている馬車を見やる。


「そろそろ時間だろう。門まで送る」

「あっそんな……もう少し……」


 ギルバートの言葉にサラがすがるような目でギルバートの腕に自身の両手を絡める。そのはずみによろめき、彼女の華奢な体がふらりと揺れる。


「きゃっ!」


 だが、間髪入れずに彼女の腰をギルバートの腕が抱き止め、はずみで彼女の髪の毛先がふわりと弧を描いた。サラは驚きに目を見張っていたが、控えめに手を伸ばし、ギルバートの体に自身の体を寄せる。


「ねぇギルバート様」


 囁くような声が聞こえる。


「わたくしを貴方様の伴侶として迎えていただけますか?」

「それはまだわからない。婚約の契りを交わすか否かはまた追って沙汰をする」

「さようですか……」


 サラの声が低くなる。だが、彼女は一瞬顔を伏せたかと思うと、すぐに顔をあげ、ギルバートの灰色の瞳を真っ直ぐに見つめた。


「わたくし、あなた様から良い返事を頂くのをいつまでも待っています。ですからどうぞお元気で」

「……わかった、また会える機会があることを私も願っておこう」


 そう言ってギルバートは優しく微笑んだ。長い付き合いであるエレオノーラも見たことがない、柔らかく慈愛に満ちた顔。その表情を見た瞬間、エレオノーラの目からポロリと涙がこぼれ落ちた。慌てて窓を閉め、その場に崩れ落ちるように壁を背にして窓の下に座り込んだ。


(どうして……? どうして私は泣いてるの?)


 その気持ちの正体はわからない。だが、エレオノーラの心に宿った痛みは、いつまでも心の中にくすぶり続けていた。

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