第40話 独白

 初めて彼女を見た時、なんて美しいんだろうと目を奪われた。


 子供の頃のことはあまり思い出したくない。物心ついた時からお前は王族の護衛になるのだと言い聞かされ、必死の思いで剣を振ってきた。名家の威光を継ぐことが是とされ、それが自分の小さな世界の全てだった。

 愛情を注いでくれた母は幼い頃に亡くなった。継母は自分のことを蛇蝎だかつのごとく嫌っていたが、父が自分に期待をかけてくれていたことを知っていたから気にはならなかった。礼儀作法や貴族社会のルール、名家の名前や歴史などを徹底的に覚えさせられる日々は辛くもあったが、同時にそれが自分のり所でもあった。

 半分は貴族の血を引いていない自分が居場所を確保できる最善手が、父の期待に答えることであったのは言うまでもない。


 だが、その日々も、実弟が生まれたことで終わりを告げた。継母である父の正妻が子供を産み、正当な血筋をひく後継者ができてから自分は誰からも構われなくなった。それでも実弟を憎む気にはなれなかった。悲しいことに、半分は娼婦の血を引いているのだから忌み嫌われるのは仕方がないと理解してしまうほどには貴族社会の常識に自分も色濃く染まっていた。それでも最初は踏ん張っていたと思う。努力を続けていれば、きっと父はまた振り向いてくれるだろうという淡い期待が自分をき動かしていた。

 決定的だったのは、継母の指示により仲の良かったメイドに毒を盛られたことだった。自分は誰からも愛されず、求められていなかったことを知ってしまった。その瞬間、自分の中で何かが壊れた。

 自分にとってこの世界は、汚くて、辛くて、どうしようもなく悲しい場所だった。

 

 そんな日々を送るうちに、いつの間にか心が疲弊すると海に来るようになっていた。小さな自分を容易く飲み込んでしまうような大海原を見ていると、心が慰められるような気持ちになるのだ。あの中に沈めば楽になれると思う気持ちも少なからずあったかもしれない。

 だが、そこで出会ったのは、見たこともないほどに綺麗な女の子だった。

 人魚の存在は知っていた。船乗りにとっては身近な存在で、皆一様に美しい容姿をしているという。その小さな人魚の女の子も、海の宝石をそのまま体現したかのような美しさだった。海に溶けこむような青い髪、真珠のような体は尾ひれにかけて桜貝の色に染まっており、なめらかな肌と尾ひれが水を弾いて辺りに光の粒子を飛ばす。だが、自分が心惹かれたのはそこではなかった。

 小さな人魚の女の子は、浜辺にある大きな岩の隙間に隠れて、一人ぼっちでヒトデと遊んでいた。小さな手でヒトデをツンツンとつついたり頭に乗せてみたり。彼女は飽きもせずに浜辺で貝を拾ったり、海にもぐったり、歌を歌ったりと楽しそうに自分の世界に浸っていた。


 涙が出た。

 自分でもなぜ泣いているのかはわからなかった。気がつくと、剣を片手に持ってボロボロ泣きながら砂浜に立ち尽くしていた。家にいる時は泣く余裕もなかったから、初めは何が起きたのかわからなかった。手の甲で拭った涙を見て、その熱さに驚いたものだ。だが、自由気ままに生きる彼女の姿は、自分の陰った灰色の瞳には酷く眩しく映っていたのを覚えている。


 その日から、ほぼ毎日海辺へ行って彼女を眺めていた。話しかける勇気は無かった。自分にとって、自由とは遠くから見ているだけのものだったから。それでも、その子を眺めている時間は楽しかった。綺麗な貝を集めて岩の上に並べてみたり、気持ちよさそうに泳いでみたり、人間の世界に興味があるのか浜辺に近づきすぎるきらいはあるけれど、無邪気に海で遊ぶ彼女を見ていると慰められるような気持ちになったのだ。


 だから、彼女が罠にかかっているのを見た時は胸が潰れそうだった。あれはちょうど父について視察に回っていた時のことだった。海辺につくと無意識のうちに彼女を探している自分に内心呆れながらも、それでも砂浜に倒れている彼女を見つけたときは心臓が止まりそうだった。

 罠にかかってくったりと横たわる彼女は痛々しいほどに弱っていた。鋭利な棘が白い柔肌に食い込んで体中を真っ赤に染めている。人間の悪意によって傷つけられている彼女を見るのは、なぜだが自分が痛みを受けた時より辛く、苦しかった。

 その後は洞窟につれていき、信頼のおける大人を呼んでくるまでじっとその子を抱きしめていた。彼女はとても軽くて柔らかくて、そして温かかった。まるで人間の女の子と同じように小さくて頼りない存在。彼女を間近で見たのはその時が初めてだった。

 自分の腕の中ですすり泣いている彼女を見下ろす。弱っている彼女にキスをしたのはなぜなのか自分でもわからない。もしかすると、彼女の痛みを自分にも分け与えて欲しかったのかもしれない。だが、その時はそうしたいとごく自然に思ったのだ。

 唇が触れた瞬間にこみ上げてきた、泣きたくなるほどに温かい気持ちは、今も自分の胸に甘く残っている。


 憧れが恋慕に変わったのは、彼女が失恋して王宮で泣いている時だった。その時初めて──自分の中に誰かを激しく求める熱があることを自覚した。

 自分の中に抑圧されていた激情をぶつけて、受け入れてほしい衝動に駆られた。美しい青い瞳に自分を写して欲しかった。愛した人以外の口づけを受ければ泡になって消えてしまうと知っていなければ、衝動的に彼女を求めてしまっていたかもしれない。

 だが、どうしても思いは伝えられなかった。彼女はずっと別の男を見ていたから。それで良かった。愛されることになれていない自分はきっと彼女を傷つけてしまうし、自分は多分自由に生きている彼女を側で見ているだけで十分に幸せだったから。

 だが、そう思い込もうとしていた自分の本心に気がついたのは、彼女が消えてしまった後だった。

 もっと早くに彼女も自分に対して同じ気持ちを抱いていると知っていたなら結果は違っていただろうか。

 

 エレオノーラ。

 俺の人魚姫。 

 君は俺の憧れであり、自由の象徴であり、そして俺が最も愛した女の子だった──

 

 

 








 昔の夢を見ていた気がする。ギルバートは目を開け、鉛が入ったかのように重たい体をあげた。机の上には空の酒瓶が転がっており、自分の呼気に酒の匂いが混じっている。情けないことに、酔ったまま文机に伏した状態で寝ていたようだ。まだ殴られたように痛む頭を抑えながら、ギルバートはゆっくりと部屋を見渡した。

 窓から差し込む朝日が室内を柔らかく照らしている。目の前のソファとローテーブルに日が当たり、まるで舞台の証明のように無人の席を照らしていた。そこにいつも座っていた彼女は──もういない。


「エレオノーラ……」

 

 絞り出すように出した声は掠れていた。つい昨日までここで一生懸命に読み書きをしていた彼女は、もう手の届かない所へ行ってしまった。

 物音ひとつしない屋敷は死んだように静かだった。何の息遣いも感じられない静寂の音が酷く耳につく。ハンナと二人だけの生活に戻ったはずなのに、屋敷がいつもより静かに感じるのはなせだろうか。

 ギルバートはまだ痛む頭を抱えながらゆっくりと椅子から立ち上がった。フラフラとした足取りで目の前のソファとローテーブルにつく。いつもエレオノーラがここで読み書きの練習をしていた場所だ。あの短い一時はまるでうたかたの夢だったのかもしれない。そう思いながら、ギルバートはローテーブルの引き出しをゆっくりと開けた。

 中に入っているのは沢山の紙束だった。エレオノーラが文字の練習をしていた紙。インクで汚れて真っ黒なその紙は、エレオノーラが確かに存在していたことを証明していた。無言のまま指で筆跡を優しくなぞると、またもや目頭が熱くなった。


「エレオノーラ……!」


 彼女の文字が書かれた紙を握りしめる。その拳に額を当てながら、ギルバートは苦しげに息を吐いた。

 好きな人の隣で幸せそうに笑う彼女を、ずっと側で見ていられれば良いと思っていた。愛されることにはなれていないし、彼女の視線がこちらに向くことなどないと思っていた。本当は結婚もするつもりなどさらさらなかった。だが、彼女が王子の寝室にはべった時に、どうしようもない虚無感に襲われた。サラとの婚姻を決めたのは、彼女を忘れたかった気持ちもあったかもしれない。自分の中に誰かを激しく愛する気持ちがあるなんて思ってもみなかった。 

 今更気付く自分の本心に、後悔の念が押し寄せる。彼女の思い出を見ているのが辛くなり、静かに引き出しを閉めようとしたはずみに、ふと引き出しの奥に何かがあることに気がついてギルバートは手を止めた。

 奥に手を入れて引き寄せてみると、それはエレオノーラが賢明に綴っていた革表紙の本だった。つい数日前まで彼女が手にしていた本。半ば無意識のうちに本を開くと、エレオノーラが書いた人魚姫の物語が現れた。字はミミズのようにのたうち回っているし、誤字や脱字も多い。だが、一枚一枚めくっているうちにだんだんと上達している所に彼女の努力を感じた。

 文字を愛おしげになぞりながらページをめくっていく。時折判別が困難な部分はあるが、物語に目を通しながらページをめくっていたギルバートはある部分で手をとめた。


「これは……」


 それは人魚姫が王子を短刀で刺そうとしたができず、海に身投げをした場面だった。人魚姫の落とした短刀が彼女の足の内側に傷をつけたと書いてある。ギルバートはその傷に心当たりがあった。


(同じ傷がエレオノーラの足にもあった。これは一体どういうことだ?)


 いぶかし気にページを捲りながら暫し黙考する。これまで読んできた人魚姫の話と、エレオノーラの話が頭の中で結びつき、一つの仮設となっていく。

 ギルバートは無言で立ち上がると、本を持って屋敷を出ていった。



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