第35話 覚悟

 ギルバートとサラの婚約が内定してから、サラはまた頻繁に屋敷を訪ねるようになった。最近、サラはランベルトの家を盛り立てる為に奔走しているらしい。由緒正しい名家とそれを支える献身的な妻。これでまたランベルト家の権力は万全なものになるだろう。

 初めはあまり良い顔をしていなかったハンナも、ギルバート自身が彼女を選んだことを知るとその事実を静かに受け入れたようだった。


 ある日の昼下り、なんとなく新鮮な空気に当たりたくなったエレオノーラは自室の窓を開け、海からやってくる冷たい風に髪をなびかせていた。ほんのりと潮の香りがする澄んだ空気が、海の色をした髪を柔らかく撫でる。懐かしい海の匂いに暫く浸っていると、庭でサラとギルバートが話しながらこちらへ歩いてくるのが見えた。

 サラがとても嬉しそうに笑っている。ギルバートも柔らかい表情で会話を楽しんでいる様子だ。幸せそうな二人の姿を見て、エレオノーラは寂しそうに微笑んだ。幸せな結末。今の二人の仲を引き裂くことは自分にはできない。

 暫く二人の姿にみとれていたが、あまりジロジロ見るものではないと、エレオノーラは手を伸ばして静かに窓を閉めた。だが、伸ばした両腕が窓の向こうの景色をぼんやりと映しているのを見て、エレオノーラは小さく悲鳴をあげた。


「エレオノーラ、どうしたんだい?」


 隣で声が聞こえた。ハッとして振り向くと、シェルが円な瞳を丸くして、じっとエレオノーラのことを見ている。彼もエレオノーラの腕の異変に気付いたのか、黒い目が大きく見開かれた。


「エレオノーラ……その腕……」


 シェルの声が震えている。


「どうしてだい? 君もエドワルドと結婚するんだろう? 条件は成立したんじゃなかったのかい?」

「違うの、シェル。私が本当に好きなのがギルバートだったからだわ」

「ギルバート? だって君はずっとエドワルドが好きだったんだろう?」

「いいえシェル、私はずっと前からギルバートが好きだったの。黙っていてごめんなさい」

「どうして謝るんだい? 君はもう自分が消えるものだと思っているんだね?」


 シェルの声が険しくなる。彼は珍しく怒っているようだった。シェルの言うことを肯定することができずにエレオノーラは口をつぐみ、部屋に気まずい沈黙が流れる。

 彼は暫くの間無言で水中を漂っていたが、やがてゆっくりと大きな泡を吐いた。


「ギルバートを殺しなよ、エレオノーラ」

「え……?」

「エレオノーラが消えてしまうのは悲しいよ。だから、ギルバートを殺すんだ。彼の机の中に短刀が入っているのは君も知っているだろう?」

「いや……嫌よ、そんなことできるわけないじゃない」


 震えながら小さな友達を見つめると、シェルは曇りの無い瞳で真っ直ぐにエレオノーラを見つめ返す。


「好きな人と一緒になれないなら、もう一度人魚に戻ればいいじゃないか。人魚の寿命は人間より遥かに長い。生きていれば、また地上にあがりたいと思える程愛しい人を見つけられるさ」

「でもシェル、ギルは今とても幸せなのよ! 彼が死んだら、サラさんだって悲しむわ」

「エレオノーラはギルバートと結婚したくはないのかい?」


 シェルの鋭い問いがエレオノーラの胸に深く突き刺さる。そんなことは言われなくてもわかっている。だが、自分にはそれを受け入れる覚悟はなかった。


「ギルのことは好きだわ……でも、私が彼にできることは少ないもの。貴族としての常識も振る舞い方もわからないし、彼を助けるための手段もない。その人のことを好きだという気持ちだけで結婚しても、彼に苦労をかけるだけだわ」


 苦しそうに言葉を吐き、エレオノーラは両手でドレスの裾をキュッと握った。

 ランベルト家とグレイス家の婚姻はまだ公表されていないが、風の噂では大分広まっているらしい。他の家を牽制する為にわざとグレイス家が噂を広めているという話もあるが、その商人としてのやり方は確かに功を奏していた。一部では陰口を叩く声もあったが、交渉術や駆け引きにおいてはあの家の右に出るものはないと、ランベルト家の選択を英断だとする声もあった。賛否両論あるが、ギルバートとサラの婚約は、概ね世間に受け入れられているのだ。それを今更壊す気になどなれなかったし、例え彼がエレオノーラを選んだとしても、母親と同じ庶民を妻にしたとギルバートはまた非難の嵐に晒されるだろう。これ以上この貴族社会の「常識」とやらにギルバートが苦しめられる姿は見たくなかった。

 シェルはぷかりと水中に浮いたまま、涙をこらえながら唇を震わせているエレオノーラをじっと見つめていた。


「なるほど、恋をした相手が貴族なのが悪かったのか。それなら尚更やり直せばいいじゃないか。ギルバートを殺して、次は何のしがらみもない船乗りにでも恋をするといい」

「シェル! お願いだからそんなことを言わないで!」


 いささか乱暴なシェルの言葉に、エレオノーラの声も大きくなる。彼がエレオノーラの為を思ってくれているのは知っている。だが、人間の世界に来て右も左もわからない状態のエレオノーラの側にいてくれたのがギルバートだった。何度か抱きしめられた時に聞いた力強い心臓の音。あそこに冷たい銀の刃を突き立てるなんて、想像すらしたくもない。


「シェル、ごめんなさい。暫く一人にさせて」


 振り絞るように言い、椅子にかけてある外套を掴む。後ろからシェルが呼び止める声が聞こえたが、構わずエレオノーラは部屋を飛び出した。


※※※


 屋敷を出て辻馬車に飛び乗り、宛もなく町へ向かう。混乱、恐怖、悲しみ。自分の心はありとあらゆる感情でぐちゃぐちゃだ。今はもう誰にも干渉されずに一人で自分の気持ちと向き合いたかった。ふと馬車の窓に視線を移すと、自分がずっと憧れていた美しい町並みが視界に映った。

 幼い頃から憧れていた人間の世界。ひとりぼっちで生きてきた自分には、楽しそうに生活を営む人間達がとても眩しく見えた。そこで出会った男の子に恋をして、地上の世界を見たときは全てが美しく輝いて見えたものだ。

 だが、この世界は一介の人魚が生きていくには厳しい場所だった。今ならギルバートがあれほど地上にあがることを反対していた意味がわかる。意地悪そうに見えた彼は、ずっと昔からエレオノーラのことを大事に想っていてくれたのだ。

 土色の髪と硬質な灰色の瞳を思い出した途端、エレオノーラの目から涙が溢れた。

 消えてしまう覚悟はできていた。エレオノーラの記憶がなくなれば、サラとギルバートは何のしがらみもなく結婚できるし、ハンナも、シェルも、誰も悲しませることはない。エレオノーラがいなくなっても、世界は上手に歯車を噛ませてくれるのだ。だからエレオノーラは一人でひっそりとこの世に別れを告げるつもりだった。

 だけど、すべての思い出が無かったことにされてしまうのは悲しかった。幼い頃から何度となくやり取りをしてきた喧嘩や軽口の叩き合い。ふとした瞬間にかけられる優しい言葉。自分が彼に抱いてきた悲しみや喜びさえも無かったことになってしまうのであれば、自分が生まれてきた意味は何だったのだろう。


 気持ちの整理がつかないまま馬車を降り、海の見える丘へと歩を進める。波が打ち寄せる音と共に、空と混ざってしまいそうな程美しく青い海が目の前に広がった。

 エレオノーラはその場所で暫く海を眺めていた。そして、自分と同じように海から上がってきた人魚姫のことを考えていた。王子に恋焦がれて陸にあがり、そして彼が隣国の姫君と結婚すると知った時、彼女は何を思っていたのだろうか。言葉が通じなくても、自分が彼の本当の想い人だと伝えるすべはいくらでもあっただろうに。

 目を閉じて彼女の気持ちに思いを馳せる。脳裏に浮かぶのは、睦まじく抱き合う人間の男女と一人の人魚。寂しそうに二人を見つめながらも優しく微笑む人魚姫と自分の姿が重なった途端、エレオノーラはハッとした。


 ああ。そうか。人魚姫は王子に幸せになってほしかったんだわ。


 人魚姫は恋に絶望して身投げをしたのではない。幸せそうな王子の顔を見て、愛のために進んで身を引いたのだ。そう思った途端、ふっと心が軽くなった。愛した人が笑っていられるのであれば、その隣にいるのは自分じゃなくても良い。そう思える人に出会えただけで、自分は恋をした意味があったのだ。


 だから、自分はこのまま消えてしまおう。彼の幸せそうな顔をこの目に焼き付けたまま。


 エレオノーラは丘の上に座り、太陽が海に沈んでいくまでずっと海を眺めていた。

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