第32話 できること(2023/08/08加筆)

 二人が王宮を出たのはまだ朝日が昇り始めた頃だった。天上の空はいまだ濃紺をまとっているが、やがて登りつつある太陽が水平線を白く輝かせていた。

 門の外でギルバートが口笛を吹くと、予め呼んでいた馬車が二台こちらへ向かってきた。今宵の逢瀬はギルバート自身が仕組んだこととは言え、今しがた想い人と床を共にしたばかりのエレオノーラはきっと今の姿を誰にも見られたくないだろうと思ったからだ。それに初めてのことでエレオノーラもまだ気持ちが昂っているだろう。彼女が早く心を落ち着けるように、今はなるべく一人にしてやりたかった。

 馬車の扉を開け、エレオノーラを乗せる。大人しく乗り込んだ彼女の横顔は、何か吹っ切れたかのように清々しく見えた。


(お前はとうとう自分の望みを叶えたんだな)


 自分の馬車の扉を開けながらギルバートは内心で独りごちた。これできっと彼女が泡となって消えることはないだろう。後はエドワルドと隣国の王女の婚姻を整えた後にエレオノーラの輿入れを行えば良いだけだ。

 馬車の窓から海を眺めながらギルバートは小さく息を吐いた。胸の内にあるのは安堵と祝福――そして微かな痛み。 

 エレオノーラがエドワルドの自室で過ごしている間、ギルバートは廊下に立ったまま白みゆく空を眺めていた。この夜に限っては面倒事が起きなくて良かったと思う。あの晩廊下にいた自分は上の空で、賊が襲来したとしても冷静に対処できるとは思えなかったから。馬車の窓枠に腕を乗せながらギルバートは静かに目を伏せた。


 小一時間ほどゆられていたが、突如ガタンと大きく弾み、馬車はゆっくりと歩みを止めた。馬車から降りてエレオノーラが乗っている馬車に近づき、扉を開ける。毛皮のコートを着ているとは言えやはり薄着では寒かったのか、陶器のように白い頬はうっすら赤味を帯びていた。


「手を貸そう。この馬車は高さがあるからな」

「ええ。このコート、あったかいけど足元が全然見えないわ」


 エレオノーラがクスクスと笑いながらギルバートの手を取る。軽く腰を支えてやると、エレオノーラが迷わずギルバートの胸に飛び込んできた。胸に感じる温かさと柔らかさをこのまま腕に閉じ込めてしまいたい衝動に駆られたが、秘密裏に行われた逢瀬とは言え一度結ばれたのであれば彼女はもうエドワルドの愛人だ。臣下である自分が王子の妻となる女に懸想することなどあってはならない。 

 だからこの想いは心の底に沈めておく。


 馬車から降りたエレオノーラがほうと小さく白い息を吐いた。屋敷の方を見て一瞬思い詰めたように目を伏せたが、そのまま屋敷に向かって歩き出す。彼女の柔らかい髪が風にのってふわりとたなびき、ギルバートの手をくすぐった。思わず手のひらを上に向け、サラサラと指の間を通って離れていく青い髪をじっと見つめる。

 最後の一房が手からこぼれ落ちたと同時にギルバートは自分の気持ちに完全に蓋をした。







※※※



 そこから数日は平和な日々を過ごした。ギルバートも肩の荷が降りたのか、また笑顔でいることが多くなった。時折見せる彼の笑みはエレオノーラの心も柔らかくしてくれた。

 だが、王宮でのいざこざは彼を休ませてくれなかった。怪我から復帰し、また王宮での勤めを開始したギルバートに待っていたのは、エドワルド暗殺未遂事件の首謀者を見つけることだった。

 あの時捕らえられた賊は厳重な監視のもと、王宮の牢に繋がれている。彼に命を出した首謀者を吐かせるためには彼を拷問しなければならない。王宮に行く度に彼は青い顔をして屋敷に戻り、自室に籠もって出てこないことが何日も続いた。

 拷問と言うものが何をするかはわからなかった。ギルバートは教えてくれなかったから。だが、ハンナに問うと、彼女は泣きそうな顔をしながら教えてくれた。


「拷問というのはですね、該当の人物から必要な情報を聞き出す為に、暴力的な行為で証言を迫る行為です。詳しいことはお伝えする必要はないでしょう。ですが、坊ちゃまはお優しい方ですから……職務とは言え、人を傷つけることにとても苦しんでいらっしゃるでしょう」

「ハンナ、私、何か彼にしてあげられることって無いのかしら」

「坊ちゃまのお側にいてあげてくださいませ、エレオノーラ様。それが一番坊ちゃまの助けになりますよ」


 ハンナが悲しそうな目でエレオノーラを見つめる。それでも、エレオノーラは何もできない自分が悲しかった。


 サラもまた、ギルバートの為に取り寄せた菓子折りやお茶を持って屋敷に来るようになった。

 今日も屋敷にやってきた彼女は、客間のソファに座ってギルバートと対面していた。今しがた口をつけていたカップを机に置くと、サラは向かいに座るギルバートの顔を心配そうに見つめた。


「ギルバート様。賊はまだ吐きませんか」

「ああ。やつもかなりの忠誠心を持っているようだ。黒幕の検討は大方ついているものの、決定的な証拠がない限りはこちらも動くことができない。事態を落ち着かせるにはまだ時間がかかるだろうな」


 ギルバートが冷静に返答する。だが、その顔は微かに青ざめていて、彼の心労が如実に現れていた。サラが立ち上がり、ギルバートの隣に腰をおろしてその手を取る。


「私も配下の者を何人が市井に送り込んでいますので、何か情報を掴みましたらすぐにお知らせ致しますわ」

「ああ、助かる」

「いいえ、これくらいのことは何とも。貴方のお力になれないことが歯がゆいですわ」


 サラがギルバートの手を握りながら悲しそうに瞳を伏せる。エレオノーラは二人の様子をじっと見つめていた。自分も勿論、彼の力になりたかった。少しでもギルバートの心が軽くなるように、そして一日でも早く状況を良くする為にできることがあるから命を賭けてでもやりたかった。だが、貴族との繋がりもなく、動かせるものが何もない自分にはどうすることもできない。サラに手をさすられながら憂いた表情をしているギルバートの顔を、エレオノーラは悲しい気持ちでずっと見つめていた。


 次の日も、その次の日も彼は遅くに屋敷に帰ってきた。騎士服を脱ぎもせず書斎のソファに座ったギルバートは、青い顔でため息をつき、エレオノーラが差し出したグラスの水を、まるで陰鬱な気持ちを押し込めるかのようにぐっと呷った。


「ギル、大丈夫?」

「仕方ない。これも仕事だからな」

「捕まった人はどうなるの?」

「王族を手に掛けようとした大罪人だ。情報を吐かせた後は速やかに処刑される。……いや、もうやつは殺してやった方がいいかもしれない」


 グラスを持つギルバートの手が震える。エレオノーラが手を伸ばして背中を優しくさすってやると、彼は苦しそうに息を吐いた。


「惨状だ。もはや生きているのかも死んでいるのかもわからない。俺がそうさせるように指示を出した。やつをあの状態にしたのは俺だ」

「ギルのせいではないわ。エドワルド様を守るためなんだもの」

「悲鳴が、やまないんだ。俺の耳の中で。ずっと。できることなら、早く楽にしてやりたい」


 ギルバートの悲痛な声に、エレオノーラの胸も激しく痛む。彼の背中に両手を回してそっと抱きしめてやると、ギルバートの腕がエレオノーラの腰を抱いた。彼の鼻先がエレオノーラの首筋に埋められる。ツンツンした髪を優しく撫でると、エレオノーラの腕の中でギルバートの体が微かに震えた。涙は出ていなかったが、おそらく彼は心に血の涙を流している。優しい彼は、自分のしていることに心を痛め続けているのだ。


「エレオノーラ、酒を持ってきてくれないか?」


 エレオノーラを抱きながら、ギルバートが囁くように言う。その言葉に慌てて席を立って台所へ行き、酒の瓶とグラスを持って部屋に戻ると、彼は膝についた両腕で顔を覆っていた。


「ギル、お酒を持ってきたわ」

「ありがとう。自分でげる。悪いが少し一人にしてくれないか?」

「でも、ギルが心配だわ」

「あまりかっこ悪い姿を見せたくないんだ。俺は大丈夫だから」


 柔らかな拒絶の言葉に、エレオノーラはぐっと唇を噛んだ。グラスにお酒を静かに注ぎ、エレオノーラは席を立った。部屋を出る際に振り向くと、ギルバートは酒には手をつけず、ずっとグラスの中で揺れる液体を見つめていた。

 扉を静かに閉め、そのまま扉を背にして長い廊下に視線を落とす。うつむいた瞬間、エレオノーラの頬を涙がつたった。


(ギル……可哀想)


 元々王子の護衛も彼が望んだことではなく、生家の栄誉を守る為にやっていることだ。それも実弟が適齢期になればその任は正当な後継者に継がれ、彼自身は用済みとなる。きっと彼は今、その狭間で苦しんでいるのだろう。上流貴族からは出目について後ろ指をさされ、下級貴族からは名家の威光を狙って迎合される。貴族社会は彼に一時の安らぎすら許してくれなかった。そして隣で苦しんでいるギルバートに手を差し伸べることができない自分自身がエレオノーラは悔しくてたまらなかった。


 すすり泣きながら自室へ戻ると、月明かりに照らされて窓際に置いてある鉢の水が月光色に染まっていた。中でキラキラと光っているのはシェルが吐き出す泡だった。ぷくぷくと彼の口から出る小さな気泡が月光に反射して煌めいている。エレオノーラは鉢へ寄ると、側に置いてある椅子に腰掛けた。

 シェルが黒い瞳をパチパチと開いてこちらを向く。


「僕のエレオノーラ、どうして泣いているんだい?」

「シェル、ギルバートがとても辛そうなの。でも私は何もしてあげることができなくて、それがとても悲しいの」

「そうなのかい? エレオノーラは色んなことができると思うけど」


 シェルが不思議そうに小首を傾げる。エレオノーラは涙を手の甲で拭いながら、ふるふると首を振った。


「だって私には貴族としての教養も身分も後ろ盾も何もないわ。私もサラさんみたいに、ギルの力になりたいのに、黙って側にいることしかできない。それがとても辛いの……」

「エレオノーラは僕らと話すことができるよ。海の声を聞くこともできるし、血を分け与えることだってできる。エレオノーラにだって、できることはたくさんあるじゃないか」

「そんなもの、彼の力になれなきゃ意味がないもの……」

「そうかな。何を持っているかが大事じゃなくて、どう使うかが大事だよ、エレオノーラ」


 シェルの言葉に、ハッとして顔をあげる。彼の言葉が水滴のようにエレオノーラの胸にポトリと落ちた。やがてその水滴は波紋を広げ、一つの考えとなってエレオノーラの頭の中に浮かびあがる。

 自分にしかできないこと。人魚の力を使うこと。

 自分が彼の為にできることは、これくらいしかない。


「シェル、一つだけ考えがあるの。協力してもらえる?」

 

 シェルが入った鉢を両手で抱え、月明かりに照らされながらそっと呟く。返事の代わりに、シェルがプクリと泡を吐く音が聞こえた。


※※※


 次の日、エレオノーラは馬車に乗ると一人で町まで出ていった。町へ着くと真っ直ぐに海辺へ行き、砂浜をサクサクと歩いていく。目的のものはすぐに見つかった。目の前を、小さなカニが砂浜に跡をつけながらちょこちょこと歩いている。エレオノーラは小さなカニの側によると、屈んでそっと口を寄せた。


「カニさん、私のお願いを聞いてくれる?」


 砂浜をちょこちょこと歩いていたカニの動きがピタリと止まる。話を聞いてくれることを確信したエレオノーラは真っ直ぐな視線でカニを見つめた。


「海の皆に伝えてほしいの。エドワルド第一王子の暗殺を企んでいるという言葉が聞こえたら、どこで聞いたのか、どんな人が言っていたか教えてちょうだい」


 わかりました、という言葉が微かに聞こえた。同時にカニはくるりと方向を変え、海の中へと消えていく。エレオノーラはその姿が小さな白い波になって消えていく様子をずっと眺めていた。

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