第31話 再会、そして(2023/08/06改稿)

 背後で扉が閉まる音がした。静寂の中に響くその微かな音が、この空間に文字通り二人だけになったことを告げる。そう意識した瞬間、急に心臓が早鐘を打ち始め、エレオノーラは思わず両手を胸の前で握りしめた。


「エレオノーラ、久しぶりだね。こちらへおいで」


 天蓋付きの大きな寝台に腰掛けたエドワルドが優しく声をかけてくれる。彼もまた絹の夜着に身を包み、いつもは結わえている髪を解いていた。普段見ている凛々しい姿とは違い、完全に私的なその姿は、いやがおうにもこの後のことを連想させた。

 ゆっくりと近付き、エドワルドの隣に腰掛ける。驚くほど柔らかい布団がエレオノーラの体を包み込むように沈んだ。緊張した面持ちでじっと目の前の床を見つめていると、エドワルドが優しくエレオノーラの肩を抱いた。


「ギルから話は聞いているよ。エレオノーラ、君も僕のことを愛してくれているの?」


 エドワルドの言葉に、エレオノーラはゆっくりと頷いた。だが、それは半ば反射に近かった。エドワルドのことは愛しているはずなのだが、待ち望んでいたであろうこの瞬間が、喜びではなく恐怖や不安で占められているのはどうしてだろうか。

 エドワルドが腕に力をこめ、エレオノーラの体がピクリと動く。エドワルドの両腕がエレオノーラの体を包み込み、そのままぐっと抱きしめられた。


「エレオノーラ、僕も君を愛しているよ。可愛い僕の人魚姫。君と結ばれる日が来るのをどんなに夢見たことか」

「わ、わたしも……です」


 エドワルドの甘い声が耳元で優しく響く。エレオノーラも喘ぐかのようになんとか声を絞り出した。自分の血潮がドクドクと音を立てながら体を巡っていくのがわかる。エレオノーラにとってもこれは待ち望んでいたはずなのに、不安や緊張ばかりが体を支配していた。

 エレオノーラがおそるおそるエドワルドの背中に手を回すと、彼の腕に力がこもる。ぐっと力強く抱きしめられたかと思うと、エレオノーラはゆっくりと寝台に横たえられた。

 青い海色の髪が白いシーツの上に波のように広がる。視界に映るのは、金細工が施された天井と、ろうそくの炎で美しく煌めく彼の金色の髪だった。寝台に投げ出されたエレオノーラの両手にエドワルドが自身の指を絡ませる。


「エレオノーラ、気持ちの準備はできたかい?」


 エドワルドが労るように声をかけてくれる。ギシッと寝台が軋む音と共に、エドワルドの体がエレオノーラの上に覆いかぶさった。熱を灯した新緑の瞳が自分を見つめている。思わず目をそらした瞬間に部屋の扉が目に入り、エレオノーラの胸がどくりと鳴った。


(ギル……!)


 あの扉の向こうにはギルバートがいる。彼は扉の向こう側で、自分とエドワルドが結ばれるのを待っているのだ。廊下に佇む彼を想像した瞬間、エレオノーラの目から涙がこぼれ落ちた。


「エレオノーラ、ごめん。怖かったかい?」


 慌ててエドワルドが身を起こし、エレオノーラの頭を優しく撫でる。エレオノーラも寝台から起き上がると、溢れ出る涙を手の甲で拭った。


「エドワルド様、教えて下さい。あの時の彼が誰だったのかを」


 深青の瞳で真っ直ぐにエドワルドの顔を見つめる。そしてエレオノーラは話し始めた。

 幼い頃に人間の罠にかかり、怪我をした自分に優しく寄り添ってくれた男の子のことを。キスをしてくれて、恐怖から守るかのようにずっと抱きしめていてくれた彼に、自分はずっと恋をしていたことを。話しながらも、自分はもうずっと前からそれが誰なのかをわかっている気がした。

 エレオノーラが話し終えると、エドワルドは静かに目を伏せた。口元に笑みを称えながらゆっくりと開かれた緑の目は、寂しそうに弧を描いていた。


「あの時、ギルバートが浜辺で倒れている君を見つけたんだ。僕が衛兵を呼びに行こうとしたら、彼が止めた。人魚がいることを沢山の人に知られるのはまずいって。そこで僕達は君を洞窟に運び、そして僕がレオード先生を呼びに行った。僕が戻ってきた頃、君はギルバートの腕の中で眠っていたよ」


 そこでエドワルドが言葉を切った。


「君にキスをした男の子は僕じゃない、ギルだ」

 

 彼の言葉を聞いた瞬間──全てが繋がった。どうしてギルバートと一緒にいると苦しいのか、そして今この瞬間に彼と会いたいと思ってしまっているのかを。


 ──自分は、ギルバートに恋をしていたのだ。遥か遠い昔から、変わらずずっと。


 やっと繋がった自分の気持ちに、エレオノーラはポロポロと涙をこぼした。なぜ自分が泣いているのかはわからなかった。ただ、今は一刻も早くギルバートに会いたかった。不機嫌そうな顔も、意地悪な軽口も、時折見せる優しい笑顔も、彼の全てが愛おしい。

 目の前で泣きじゃくるエレオノーラを見て、エドワルドが優しく目を細める。


「そうか。君はずっとギルに恋をしていたんだね」

「でも私、これが恋なのかもわからないんです。だって、エドワルド様と一緒にいる時はとても楽しくて嬉しいのに、ギルバートと一緒にいると辛くて苦しくて、自分が自分じゃないみたいになってしまうの」

「それが恋だよ、エレオノーラ」


 顔をあげると、エドワルドが優しく微笑みながらこちらを見ていた。


「恋は綺麗なものだけじゃない。苦くて痛くて苦しいこともたくさんある。でも、だからこそ美しいんだ」


 エドワルドが身を寄せ、エレオノーラの頬を流れる涙を指で優しく拭ってくれた。そのまま指が頬を滑り降り、エレオノーラの顎に添えられる。


「そうしたら、僕は今、君にキスをしない方がいいのかもしれないね」

「エドワルド様……ごめんなさい」

「いや、君が自分の気持ちに気づいてくれて良かったよ」


 エレオノーラの顎に添えられた手は、そのまま顔からゆっくりと離れていった。申し訳無さにエレオノーラが俯いていると、今しがた離れていった手がゆっくりと差し出される。その手を取ると、エドワルドが手を引いてエレオノーラを寝台の縁に導いてくれた。

 銀色の月光が射し込む窓を見上げながら二人で並んで腰掛ける。暫くの間無言で窓の外を眺めていたエドワルドがおもむろに口を開いた。


「エレオノーラ、君はこの後どうしたいんだい? 折角本当の気持ちに気付くことができたんだ。ギルバートに婚姻を申し込むなら、僕が手筈を整えてあげようか」


 エドワルドが静かな声で申し出てくれる。思いがけない彼の優しい言葉に心が弾むが、ふと頭を掠めるのはサラの姿だった。


「いえ……実はギルには良い仲になっているご令嬢がいるんです。まだ婚約という関係には至っていませんが、ギルバートの良い理解者になってくれそうな人です」

「へえ、珍しい話だね。どこの家の令嬢か気になるな。詳しく聞いてもいいかい?」


 エドワルドの言葉にエレオノーラは頷き、ゆっくりと話し始めた。

 はじめは断るつもりで組んだお見合いだったが、サラの物怖じしない性格にギルバートも好感を抱いていること。

 下級貴族の身分でありながら、果敢にも貴族社会に挑んでいくサラの姿がギルバートの支えになっていること。

 最近では屋敷に出入りし、彼の仕事も手伝っているくらいに親密になっていること。

 一通り彼女のことを話し終えると、エドワルドが興味深そうにふむ、と唸った。


「ギルは彼女のことを一切話さないからな。ランベルト家とグレイス家がそこまで親密であるなんて僕も知らなかったよ。まぁ、あの家同士が交流を持つのはギルにとっては悪い話ではないかもしれないね」

「どういうことですか?」

「グレイス家は元々商家だったんだけど、最近では王家とも繋がりを持っていて、今最も勢いがあると言ってもいい家だ。昔からの由緒正しい貴族達からは嫌われているが、元が庶民であるからこそ考え方が柔軟でね。少し手を汚すことはあるが誇りより結果を取る家だ。ギルの生家もなかなか敵が多いから、サラの一族がこちら側につけば彼の力になってくれるだろう」


 その話は、なぜかエレオノーラの心をざわつかせた。エドワルドはあくまで家同士のことを言っているに過ぎなかったが、その話は、なぜか酷くエレオノーラの胸に強く印象付けられた。


(ギルバートはきっとサラさんと一緒になった方が良いのよね……)


 優しい彼のことだ。エレオノーラが思いを告げたら、ギルバートは受け入れてくれるかもしれない。けれども、無事に彼と結ばれたとして、エレオノーラが彼の為にできることは一体何なのだろうか。

 人魚である自分には後ろ盾がなにもない。彼の力になることもできない。人間の世界の知識もまだわからないことだらけだ。この世界が純粋な恋心だけで生きていける場所ではないことは、この数ヶ月で身をもって知っている。エレオノーラは戸惑う気持ちを抑えるかのようにくしゃりとシーツを握った。


(ギル……)


 ふっと脳裏に浮かんだのは、貴族社会の中で生きづらそうにしている彼の姿だった。海にいた頃は、意地悪でいつも不機嫌そうな顔をしている嫌味たらしい男だと思っていたが、間近で見るギルバートはいつも苦しそうな顔をして何かと戦っていた。自分の血筋、家柄、護衛としての責務。彼の力になりたいと思った時自然に浮かんだのは、控えめに彼の側にいて日々の世話を焼く自分の姿ではなく、彼と背中合わせで貴族社会に挑んでいくサラの姿だった。

 そう思った時、もう自分の中で答えは出ていた。


「エドワルド様、私はギルバートを愛しています。だからこそ私は彼とは結婚できません」


 きっぱりと告げると、エドワルドが驚いたように新緑の瞳を丸くする。


「エレオノーラ……なぜだい? 昔からの付き合いだ。おそらく君が気持ちを伝えれば彼は間違いなく受け入れるだろう。なのになぜその選択をしようと思うのかい」

「私では彼の力になれないからです。いくら私が彼のことを好きでも、私はギルの為に何かをしてあげることすらできない……でも、サラさんならギルバートの支えになってくれるはず。彼に必要なのは私ではなく彼女です」

「そうか、君はギルを愛するがゆえに身を引くつもりなんだね」


 エレオノーラの答えを聞いてエドワルドが頷く。彼は顎に手を当てて考える素振りを見せたが、やがておもむろに口を開いた。


「君の気持ちはよくわかった。だが君もこの世界で暮らす以上、いつかは誰かと婚姻関係を結ばなくてはならないだろう。ランベルト家に縁がある美貌の令嬢なんて周りの男が放っておくはずがないからね。だけど僕としては、どこの馬の骨ともわからない貴族の男に君が貰われていくことを承知することはできないな」

「どういうことですか?」

「僕も君のことを愛していると言うことだよ、エレオノーラ。僕らは幼い頃からの友達だろう? 大事な可愛い人魚姫を、ギルや僕の目の届かない所にはやれないさ。安心して、僕に考えがあるから。でも今はまず王宮でのいざこざを片付けないとね。君のことについては王宮から賊を一蹴した後に考えよう」 


 そう言ってエドワルドが絹の寝具を持ち上げてエレオノーラを呼ぶ。エドワルドの隣に横になりながら、エレオノーラは眠れぬ一夜を過ごした。



※※※


 朝日が窓から差し込み、部屋を明るく照らす頃合いになって、エレオノーラはそっと部屋を抜け出した。扉を開けて廊下に出ると、少し離れた先にギルバートが腕組みをして立っているのが見えた。扉が開く微かな音に反応して彼がこちらを向く。


「おはよう、ギル」


 にこやかに挨拶をすると、ギルバートが近付いてきて、手に持っていた毛皮のコートをふわりと被せてくれた。


「よく眠れたか」

「ええ、朝まで」

「そうか」


 誰もいない廊下に短い言葉が交わされる。ギルバートがエレオノーラを見つめ、言葉を切った。


「……殿下にお前の気持ちは伝えられたか?」


 一言だけ述べてギルバートが口をつぐむ。彼が何を気にしているのかはわかっている。だから、エレオノーラはにこりと笑って灰色の瞳を見上げた。


「ええ。エドワルド様にも答えてもらったわ。ギルのおかげね。ありがとう」

「そうか。良かったな……おめでとう」


 ギルバートがふっと微笑む。エレオノーラの答えに安心したような、優しい声色だった。少しだけ罪悪感で胸がざわめいたが、エレオノーラは気づかないふりをしてギルバートの手を取った。


「早く帰りましょう、きっとハンナさんが待っているわ」


 努めて明るく言って彼の手を引く。だが、屋敷に戻るまでの間、エレオノーラは彼の顔を見ることができなかった。

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