第30話 期限

 武器店を離れてからは記憶が曖昧だった。ギルバートにすがりつくようにして店を出た後は、彼が往来で捕まえた馬車に乗ってなんとか屋敷へと戻った。エレオノーラの青ざめた顔を見たハンナは心底驚いた様子だったが、それでも何も聞かずに身の回りの世話を焼いてくれた。 

 自室へと戻ったエレオノーラは、ソファに腰掛けながらぼんやりと窓の外を眺めていた。窓の形に切り取られた町並みは厚手の雲に覆われ、いつもの鮮やかさを失ってくすんだように見える。そのままぼんやりと虚空を見つめていると、まだ冬も始まったばかりなのにチラチラと空から白いものが降っていた。


(アイリーンさん、泣いているのかしら……)


 雪の降る季節に来たアイリーンの言葉を思い出し、エレオノーラはきゅっと唇を結んだ。もう自分がこの世界から消えると知った時、彼女は何を思ったのだろうか。彼女は自分を看取る相手をエレオノーラに選んだが、きっと本当は愛しい彼の腕の中で逝きたかったに違いない。そう思った途端に胸が苦しくなり、エレオノーラは両手を膝の上で握りしめたまま項垂れた。青い瞳から落ちた熱い涙が手の甲を濡らし、そこで初めて自分が泣いていることに気がついた。


「エレオノーラ」


 低く優しい声に顔をあげると、ギルバートが隣に座っていた。彼もどこか泣きそうな、痛ましそうな表情をしていた。


「お前の気持ちもわかる。俺も想定外だった……まさか、記憶が消えてしまうなんて」


 ギルバートの言葉に、エレオノーラの心臓が軋む。まるで酸素を求める魚のように、エレオノーラは大きく息を吸った。意識をしないと呼吸さえできない程に胸が詰まって苦しかった。

 エレオノーラの心が深く傷ついているのは、皆がアイリーンのことを忘れてしまっていたことだった。彼女が人間の世界で過ごした一年は、文字通り水泡に帰してしまったのだ。彼女が想いを寄せたラッセルでさえも忘れてしまったというのであれば、彼女が陸に上がった意味は何だったのだろうか。


「アイリーンさん……可哀想」


 両手に顔を埋めてすすり泣く。彼女とは言葉を交わした期間も時間も少なかった。こんなことになるなら、もっと彼女の見たものや感じたものを聞いておくべきだった。そうすれば彼女が見聞きしたものを、自分が代わりに記憶に留めておけたのに。

 嗚咽を漏らしながら泣いていると、ギルバートがぐっと唇を噛み、そっとエレオノーラの肩に手を置いた。


「それでも、彼女にも幸せな瞬間はあったはずだ。最期は叶わなかったとしても……生きていて良かったと思えるその瞬間があったのなら、彼女は恋をした意味があった」

「ギル……」


 どこか実感の伴ったその言葉に、エレオノーラは顔をあげた。鋭い灰色の瞳が真っ直ぐに自分を見ている。今はその力強さに頼りたくて、エレオノーラは思わずギルバートの胸にすがりついた。シャツを掴み、時折しゃくりあげながらすすり泣いていると、彼の手が伸びてきて控えめに背中に回された。

 ギルバートの力強い心臓の音がする。生命に溢れた血潮の音。その者が生きている証となる音。トクトクと一定の速度を刻む彼の音を聞いていると、少しだけ心が落ち着いてくる。そっと目を瞑ると、まぶたに押しやられた涙が頬を伝った。

 暫くの間二人共無言でそうしていた。黙ったまま身を寄せ合い、互いに互いの存在を支えにしていた。


「私、知らなかった。期限が来る前でも、この恋は終わったと思ってしまったらそこで泡になって消えてしまうのね」

「……エレオノーラ、それはどういうことなんだ」


 優しい口調だったが、声に緊張が混じっていた。彼の様子が変わったのを感じて、エレオノーラも身を固くしながら口を開く。


「アイリーンさんが人間になったのは雪が降る真冬の季節だと言っていたわ。それでも彼女はそこを迎える前に消えてしまった……自分の中でこの恋は実らなかったと諦めてしまえば、そこでもう泡になる条件を迎えてしまうみたいなの」

「……そうか。ならば俺がやれることは一つしかない」


 何かを決意したかのようなハッキリとした物言いに驚き、エレオノーラは顔をあげた。自分を見つめる灰色の光が悲しそうに揺れている。エレオノーラを抱く腕に一瞬グッと力をこめると、彼は静かにソファを立った。


「ギル……?」


 エレオノーラが名前を呼ぶも、彼は振り返ることなく無言で部屋を出て行った。



※※※



 それはもう間もなく就寝時間になるという頃合いだった。ギルバートはあの後王宮へ行ったようでそのままずっと帰って来ない。エレオノーラは夜着を着たまま寝台に腰掛けて月明かりに照らされる夜の町を見ていた。

 ぼんやりと宛もなく窓の外を眺めていると、突如夜の静寂を破るかのように馬の蹄の音が響き、馬車が暗闇の中から現れた。一定のリズムを刻みながら馬車はどんどん近づいてきて、やがて屋敷の前で停車する。

 馬車の中から出てきたのはギルバートだった。どこか焦ったような様子で急ぎ屋敷の中へと消えていく。ただ事ではない様子に身を固くしていると、ドタドタという音と共に扉が開き、ギルバートが部屋へ入ってきた。


「今から王宮に行く。支度をしてくれ。ハンナには伝えてある」


 どことなく緊張感のある声だった。訝しみながらも階下へ行くと、いつも身支度をする部屋でハンナが白いレースのドレスを手に持って立っていた。だが、その顔はどことなく憂いを帯びている。悲しそうにも見えるその表情にエレオノーラも無言で彼女の前に立った。

 もうすぐ深夜だと言うのに今から何をするのだろうか。鏡の前に立ちながらそこに映る自分の姿をぼんやりと眺めていると、ハンナがふわりとドレスを着せてくれた。だが布地は薄く、体を締め付けるものは何もない。胸元が開いたゆるゆるとしたその衣裳はドレスと言うよりネグリジェに近かった。ほんのりと目元と唇に薄化粧をしてもらったエレオノーラは不思議そうにハンナの顔を見つめた。


「ハンナさん、私は今からどこに行くの?」

「行けばわかることですよ、エレオノーラ様。坊ちゃまから話があるはずです」


 そう言ってハンナが静かに目を伏せる。ちょうどその時ギルバートが部屋の中へ入ってきて、エレオノーラの姿を見て目を細めた。


「綺麗だ。ハンナ、よくやってくれた。行くぞ、エレオノーラ」


 ギルバートが近付いてきて、厚手の毛皮のコートをふわりと肩にかけてくれる。薄着のままコートを羽織り、エレオノーラは冷たい初冬の空の下、馬車に乗り込んだ。馬車に乗っている間、彼は終始無言だった。



※※※



 夜も深まった頃、馬車は王宮についた。ギルバートの後について裏手の使用人達が使う扉から中へ入る。ギルバートが話を通しておいてくれたのか、衛兵達もすんなりと中へ入れてくれた。

 王宮の中は最低限の灯りしかなかった。ろうそくの火が等間隔に灯る中を、エレオノーラはギルバートの後について歩いていった。ギルバートの部屋に連れて行かれるのかと思ったが、どうやら向かっているのは違う部屋らしい。階段をいくつも上がり、廊下の窓から見える景色も段々と建物の影がなくなっていく。窓に映るのは月明かりが照らす夜の闇だけとなった辺りで、ギルバートは突如足を止めた。

 そこは王宮の中でも最深部にあり、一際大きな扉がついた部屋だった。エレオノーラが首を傾げていると、前を歩いていたギルバートが振り返る。


「ここは殿下の寝室だ。今夜はここで一夜を過ごしてくれ」

「どういうことなの……? 意味がわからないわ」

「中で殿下が待っている。俺は朝になったら迎えに来る。頼むからその先を俺に言わせないでくれ、エレオノーラ」


 絞り出すような彼の声に、エレオノーラはハッと息を飲んだ。不思議に思っていた全てがこの瞬間に繋がった。自分がここに連れてこられた目的も、薄手の夜着を着させられている理由も。途端に得体の知れない恐怖に襲われ、エレオノーラは思わずギルバートの手を掴んだ。


「どうして……? ギル、いきなりそんなことを言われても」

「エレオノーラ、よく聞いてくれ。お前はどう頑張っても第二夫人にしかなれない。そして殿下が最初に挙式をするのは正妻となる隣国の王女だ。今はまだ実感がないから良いかもしれない。だが、殿下と王女が睦まじくしている姿を見ればきっと耐えられなくなるだろう。俺の実母も、継母も、ずっと互いの存在に苦しめられていた。俺は、お前に消えてほしくないんだ」


 そこでギルバートはぐっと唇を噛んだ。


「殿下もお前のことを愛している。まだ婚姻関係にはないが、今の時点でもお互いに気持ちを通わせることなら十分できるだろう。ゆくゆくは必ず結婚させる。だが、今は我慢してくれ。たった一度で良い。それでお前が救われるなら……」

「でもギル、私にも心の準備が必要よ! いきなりそんな、エドワルド様と……」


 その先の言葉を発するのはためらわれた。その言葉の続きを彼の前で言いたくなかった。今にも泣きそうな顔ですがるように彼の手を掴むと、ギルバートがゆっくりとそれを振りほどいた。自由になった彼の手はエレオノーラの両肩に置かれる。


「この一回が功を奏するのかはわからない。単に俺が安心したいだけなのかもしれない。でもやる価値はあるはずだ。俺の為とも思ってくれないか」

「ギル、でも私」


 ──エドワルド様とそういうことはできないわ。


 そう言おうとした瞬間、グイと引き寄せられエレオノーラはギルバートの腕の中にいた。頭の後ろに手が回され、ぐっと胸に押し付けられる。四方から包まれる濃密な彼の気配に、心臓が痛いくらいに鼓動を打った。


「俺の我儘だ……頼む」


 耳元で低く囁かれる。その懇願するような響きに胸が詰まるのを感じて、エレオノーラは彼の背中に優しく手を回した。


「ギル……」


 彼の胸に顔を埋めながらエレオノーラも囁くように呼びかける。本心では、部屋に入るよりもずっとこうしていたかった。だが、ギルバートの腕がゆっくりと解かれ、背中を押されて扉の前に立たされる。

 この状況が避けられないものだと悟ったエレオノーラは、そのまま無言で扉を開け、中に入った。扉を閉める際にチラリと見えた彼の顔は何かを堪えているように苦しそうだった。


 扉を閉め、部屋の中を見回す。豪華な内装のその部屋はとても広かった。目の前には大きな寝台が置かれ、そこに一人の男が座っていた。はちみつ色の金髪が揺れ、新緑の瞳が優しげにこちらを見ている。


「エドワルド様……」

「待ちかねていたよ、エレオノーラ」


 彼はそう言って、甘い表情で優しく微笑んだ。

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