第13話 日常

 ハンナと一緒に先程の部屋に戻ると、ギルバートがソファにもたれかかるようにして書類の続きを読んでいた。自宅にいる時は身軽でいたいのか、白いシャツ一枚と言うくつろいだ格好をしている。

 エレオノーラは彼の姿を見つけると、足取りも軽やかに駆け寄った。


「ギルバート、見て見て。とても綺麗にしてもらったわ」


 彼の目の前でくるりと回ると、桃色のドレスのすそが風を受けてふんわりと広がった。書類に目を通していたギルバートが顔をあげ、エレオノーラの姿を見て目を細める。


「ほう。正式な格好をしていればお前も見えないこともないな」

「もう、あなたは本当に意地悪な言い方しかできないのね。きっとエドワルド様なら素敵だねって褒めてくださるのに」

「あいにく、俺は女性を称える言葉を知らんのでな」


 そう言ってギルバートがふいと視線をそらし、再び書類に視線を落とした。だがその口角はわずかに上がっており、先程より柔らかい表情をしている。

 どこか嬉しそうにも見えるその顔に、エレオノーラの胸もほんの少しだけくすぐったくなった。


「ねぇギルバート。この服を着ていたらエドワルド様に会いに行けるの?」


 エレオノーラが目を輝かせながら言うと、ギルバートの眉がぴくりと動く。


「待て。お前はまだ殿下と会うつもりなんだな」

「もちろんよ。だって私、エドワルド様のお側にいたいんだもの」


 両手を握りしめ、熱っぽく言うエレオノーラを見て、ギルバートが書類を机に置き、難しい顔で腕組みをする。


「お前の気持ちはわかった。だが、それにはお前は貴族階級の社会……いや人間のことを知らなすぎる。今のままでは殿下に会うどころか王宮の中にも入れん」

「ど、どうして? きちんとしたお洋服はしっかり着ているのに」

「エレオノーラ様。人間の世界には身分階級というものが存在します。ぼっちゃまや王子のような高貴な方々には、それ相応の振る舞いや作法を身につける必要があるのですよ」


 ギルバートの横でハンナも優しく助け船を出す。二人から話を聞くうちに、早急に覚えなければいけない知識の多さを知ってエレオノーラは愕然がくぜんとした。

 文字の読み書き、お金の使い方などの日常生活の知識に加えて、上流階級ならではの食事や社交界のマナーなども身につけなければならないのだ。エドワルドに会うまでの道のりのなんと遠いことか。だが、最初から諦めていたのではいつまで経っても彼に会うことはできない。エレオノーラは深呼吸をし、ギルバートの灰色の瞳をしっかりと見つめた。


「ギルバート。私、エドワルド様の為に頑張りたいわ。お作法を教えて」

「まぁどちらにしろ、ここにいるうちは必要な知識だからな。ハンナ、任せていいか?」

「ええ、承知いたしました」


 側に控えていたハンナが満面の笑みでお辞儀をする。顔をあげた瞬間にハンナの目がきらりと怪しく光った。彼女の顔が先程より酷くにこやかに思えるのは気のせいだろうか。

 なんとなく不吉な気配を感じてエレオノーラはきゅっと唇を結んだ。

 

 その日からハンナによる作法の指導が始まった。そして、練習を開始して三秒後には、エレオノーラは自分の不吉な予感があたっていたことを悟った。


「エレオノーラ様、お辞儀の角度はもう少し上でございます」

「こう?」

「もう少し上でございます」

「こう……かしら」

「今度は腕の角度がさがりましたわ」


 ハンナがニコニコと笑顔を絶やさずに言う。鏡の前で何回もお辞儀の練習をしていたエレオノーラは、とうとう三百五十一回目のお辞儀が終わった直後にぺたりと床に座り込んだ。体を締め付ける窮屈なドレスを身にまとい、手足の末端まで神経を尖らせながら一ミリのずれも許されないハンナの指導はエレオノーラから体力と精神力をどんどんと奪っていく。

 さすがにやりすぎだと思ったのか、ハンナが近づいてきて優しくエレオノーラの手をとった。


「エレオノーラ様。まだ初日ですから、最初から完璧にできなくても構いません。今日はもうこれくらいにしておきましょうね」


 ハンナがそっとエレオノーラの腰に手を添え、ソファまで誘導しようとする。だが、エレオノーラはその手をやんわりと外すと、深青の瞳で真っ直ぐにハンナを見た。


「私、もう少しだけ頑張りたいです。ハンナさん、お願いできませんか?」

「あらまあ。それは構わないですが……」


 ハンナがエレオノーラの体を支えながら、ちらりと横に目線を送る。彼女の視線の先には、文机の上に組んだ両腕をつきながら二人の様子を見守っていたギルバートがいた

 ハンナの視線の意味に近づき、彼も頷きでそれを肯定する。


「彼女の覚悟は本物だ。悪いが付き合ってやってくれ」

「承知致しました」


 ハンナの言葉と共に、エレオノーラもまた立ち上がる。彼女の指導はかなりのスパルタだが、この作法を習得しないとエドワルドに会うことができないのであれば仕方がない。

 エレオノーラは少し休憩を取ると、また延々とお辞儀を繰り返す時間と格闘し始めた。

 倒れそうになるほどお辞儀の練習をした後は、ギルバートが字の書き方を教えてくれた。だが、ペンを持ったことすらないエレオノーラにとって、紙の上に踊る文字はのたうち回ったミミズにしか見えない。


「エレオノーラ、そこの綴りが間違っている。それでは意味が通らない」

「えっと……これはこうだったかしら」

「違う! ここはさっきも間違えていたぞ、しっかり覚えろ」

「きゃあ! ちょっと近くで怒鳴らないで! あなたは声が大きいのよ!」

「おい、俺が言ったのは『貴方のお召し物は素敵ですね』だぞ。これでは『私はあなたが好きです』にしかならん! 一体誰に告白してるんだお前は!!」


 ぎゃあぎゃあと騒がしく言い合いながらも、エレオノーラは言われるがままに必死で線を綴っていく。その日は日が暮れるまでお金の扱い方や食事の作法などをみっちりと叩き込まれた。



「ぼっちゃま」


 ハンナの言葉に、ギルバートは手紙を書く手をとめて声をする方に視線を向ける。日はすっかり落ち、窓から見えるのは闇の世界と仄白い月の光だけだ。


「どうした」


 ギルバートの言葉にハンナは返事をせず、人差し指を口に当てて手招きをする。書斎を離れて彼女と共に隣の部屋へ入ってみると、机の上に両腕を置き、猫のように丸くなってスウスウと寝ているエレオノーラがいた。

 彼女の周りには真っ黒になるまで文字が綴られた紙とペン、そして金貨や銀貨などのお金も散らばっている。柔らかい絹の部屋着を着ている所を見ると、寝室にいく時間になるまで練習をしようとしてそのまま寝入ってしまったようだ。


「あの後もご自身で必死に練習をされていたみたいですね」


 ハンナが小声で言う。机の上に重ねられた両腕の隙間から見える指もインクで真っ黒だった。


「このままではお風邪を召されてしまいますよ」

「そういうことか、わかった。俺が連れていこう」


 ハンナの意図を汲んだギルバートがエレオノーラを横抱きにしてふわりと持ち上げる。よっぽど疲れているのか、エレオノーラは目を覚まさなかった。 すっかり寝入っているエレオノーラを見てハンナが柔らかく微笑む。


「坊ちゃま、彼女は良い子ですね。エレオノーラ様が来てから屋敷の中が随分と明るくなったような気がいたします」

「そうか? 俺からすると騒がしくて仕方ないが」

「坊ちゃま、あなた様の表情も随分と柔らかくなりましたよ。ハンナはそこがとても嬉しゅうございます」

「そうか。急な話で負担をかけたが、お前がそう言ってくれるなら安心する」


 そう言うと、ハンナが嬉しそうに微笑んで一礼する。そのままギルバートは部屋を出て、階上の寝室へと向かっていった。

 月光に照らされた廊下を進んでいく。彼女を起こさないようにゆっくりと階段を上っていたつもりだが、エレオノーラが微かに身じろぎをしてギルバートの胸元をきゅっと掴んだ。

 ギルバートが足を止め、腕の中にいる彼女に視線を落とす。エレオノーラがまた微かな寝息を立て始めたのを確認すると、彼はまたゆっくりと階段を上っていった。

 寝室に入ると、ギルバートは彼女を寝台の上に優しく横たえた。そのままなんとはなしに近くの椅子を引き寄せて腰掛ける。静寂な空間にギッと木製の椅子が軋む音が響いた。

 眠っているエレオノーラは人形のようだった。陶器のように白い肌と形の良い唇。深い海を思わせる青い瞳は伏せられ、長い睫毛が月光を受けて肌に影を落としていた。

 ギルバートは手を伸ばし、今は月の色に染まっている海の色をした髪をそっと手に取る。剣を握る節くれだった指から絹のような髪がサラサラとこぼれ落ちた。

 彼女が幼い頃からずっと人間の世界に憧れていたのは知っていた。陸に上がり、エドワルドに会うことが難しいと知ってもなお健気に頑張ろうとする彼女の姿はギルバートの目にも眩しく映っていた。ハンナが言っていたことは本当だ。驚いたり笑ったり、表情がくるくる変わる彼女は見ているだけで忙しいが、思っていることが素直に顔に出る彼女は愛らしく、一緒にいてどこか安心感がある存在だった。

 ふと視線をそらすと、エレオノーラの真っ黒に染まった細い指が目に入る。


「お前はそこまでして殿下と一緒にいたいんだな」


 ポツリと呟き、思わず彼女の頭にそっと手を置く。そのままゆっくり頭を撫でると、エレオノーラがもぞとぞと動き、身をまるめるようにしてコロリと寝返りをうった。その拍子に絹の部屋着の裾がまくれ、美しい線を描く足と白い太ももが露になる。


「まったく……ハンナに言ってもっと令嬢としての振る舞いを身につけてもらわねばな」


 苦笑しながらエレオノーラの衣服を直そうとしたギルバートは、ふと何かに気付いて手を止めた。丸まるようにして眠っている彼女の太ももの内側にうっすらと傷ができていた。鋭利な刃物で切ったかのような鋭い直線。だが、傷口は完全に塞がっており、今日や昨日できた傷では無さそうだ。


(どこかにぶつけたのだろうか……)


 訝しみながらもギルバートは部屋着の裾を手に取り、そっと引っ張ってエレオノーラの足を隠してやった。そのまま彼女の体にもふわりと寝具をかけてやると、ギルバートは静かに部屋を出ていった。

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