第12話 はじめてのこと(2023/05/13加筆)

 どれほど長く彼の姿を眺めていたのだろう。自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、エレオノーラはハッとして振り向いた。視線の先には、畳んだ白い布を両手に持ったハンナが立っている。


「エレオノーラ様、湯浴みをされてはいかがですか? あなたもお疲れでしょう」

「湯浴み?」

「ええ。人間達は体の汚れを落とす為にお風呂に入るんですよ。それに気持ちの高ぶりを落ち着かせる効果もあります。エレオノーラ様は人間の世界に来て不安でいっぱいでしょうから、緊張をほぐすにはお風呂に入るのが一番ですよ」


 そう言ってハンナが優しく微笑んだ。お風呂がどういうものかはわからなかったが、自分に良くしてくれようとする彼女の気持ちは十分に伝わってくる。考えてみれば確かに体が少しだけ重たいような気がした。

 ハンナの提案にエレオノーラはコクリと頷き、彼女の後を追って部屋を出ていった。

 ハンナの後について浴場に行く。大理石でできた床の真ん中に泉のように湯が溜められ、白い湯気がほわりと立ち上っていた。

 ハンナがエレオノーラの背後に立ち、するりと衣服を脱がしてくれる。同時に、目の前の大きな姿見に裸の自分が映った。

 ふっくらした柔らかそうな二つの双丘にきゅっと引き締まった柳腰。そしてその下から伸びるのは二本の細くて白い足だ。

 まだ半ば夢のような気持ちなのだが、エレオノーラが右足を動かすと、鏡の中の自分も足を動かす。憧れていた人間の足に見惚れていると、ハンナがエレオノーラの髪の毛をふんわりと持ち上げた。


「さぁ、髪の毛を洗ってあげましょうね」


 ハンナが優しく声をかけ、そのまま湯で髪を洗ってくれる。髪を洗ってもらった後は、ハンナに言われるがままに静かに浴槽の中に入った。

 温かい水のベールが体を包み込み、エレオノーラはほうとため息をついた。真夏の海でさえもこんなに熱い温度にはならない。それでも何かから解放されたような感覚は心地良く、エレオノーラは体の力を抜いてその温もりに体を委ねた。

 お湯を手で撫でるようにかき混ぜていると、遠くでリンリンとベルが鳴る音が微かに聞こえた。浴槽から少し離れた場所で控えていたハンナがすぐさま反応する。


「あら、来客だわ。エレオノーラ様。湯を出た後のお支度は私が行いますからね。ここで待っていてくださいませ。申し訳ございません。何分なにぶん人手が足りないもので……」

「ええ、わかったわ」


 エレオノーラが頷くと、ハンナは一礼してパタパタと玄関口の方へ去っていった。

 一人になったエレオノーラは、とぷんと湯の中に全身を埋めてみた。人魚の時と違って水中での呼吸はできない。視界ももやがかかったように不明瞭で、人魚の時とは全く違っていた。

 お湯の中から顔を出し、ぼんやりと空中を眺める。つい数日前までは海の中で生きていたのに、今は人間の体を手に入れ、ギルバートやエドワルドと同じ世界で時間を共にすることができるのだ。不安に思う気持ちはある。成り行きで薬を使うことになってしまったから。だが、それ以上に喜びの方が大きかった。これで、エドワルドの側にずっといられるようになるのだ。


 ──早くエドワルド様に会いたい。


 そう思った瞬間、優しい彼の姿が急に恋しくなった。自身の体に視線を落とし、二本の白い足を視界にいれる。

 人間の薬の期限は一年。花の匂いが海に混じるようになるまでにエドワルドに思いを告げ、彼にこたえてもらわなければ泡になって消えてしまうのだ。人間になった自分の姿を見た彼は喜んでくれるのだろうか。急に心細くなり、そっと指先で自分の唇をなぞる。

 あの時彼がキスをしてくれたのはどういう気持ちだったのか、いつか聞いてみたいと思った。


 しばらくの間お風呂に浸かっていると、急に体が熱っぽくなってくらりと目眩がした。湯あたりをしたのだが、今のエレオノーラにそれがわかるはずもない。

 ざぶりと浴槽からあがると、エレオノーラはキョロキョロと辺りを見回した。ハンナはここで待つように言っていたが、裸のまま待てば良いのだろうか。

 ペタペタと大理石の床を歩き、辺りを見回すと、高い台座の上に籠が置いてあることに気がついた。中にはふわふわした白くて手触りの良い一枚布が入っている。

 いぶかしみながらもエレオノーラはその布を取り出し、見よう見まねで身につけてみた。だが、その服には袖も紐もなく着方がよくわからない。

 ギルバートに聞いてみようと思ったエレオノーラは、体に布を巻き付け、そのまま浴室を出て行った。


 剣の稽古を終えたギルバートはソファへ座って書類に目を通していた。あまり良い内容ではないのか、細められた両目の間には深いシワがくっきりと刻まれている。まるで睨み付けるように書類を読んでいたギルバートは、大きなため息をついて目を伏せた。と同時に、かちゃりと扉が開く音がして誰かが入ってくる気配がする。

「ねぇ、ギルバート。この服はどうやって着るものなの?」

 エレオノーラの声だ。呼びかける声につられて顔をあげたギルバートは、目の前の光景を見て絶句した。

 彼が目にしたのは、一枚布を体にぐるりと巻き付けただけのエレオノーラの姿だった。しっとりと濡れた体に布がぴったりと張り付き、白い肌が透けて見えている。布に押し潰された胸はくっきりと谷間を強調していて目に毒だ。布から出ている二本の足も太ももまで見えていて、ギルバートは慌てて立ち上がった。


「なんて格好をしているんだエレオノーラ! 早く服を着ろ!」

「きゃぁ! もうなんでそんなに大きな声を出すの! 服なら着てるじゃない! でも紐も袖も無くて着方がわからないの!」

「それは衣服ではない! 湯上がりの体をぬぐうための布だ!」

「えっ! 体を拭う? ど、どういうことなのかわからないわ!」

「ええい、いいからとりあえずこれを着ろ!」


 顔を真っ赤にしながらギルバートがソファにかけてあった上着を掴み、エレオノーラの体に羽織らせる。エレオノーラが慌てて両手で服を前合わせにして体を隠すと、大きな彼の上着が小さな体をすっぽりと包みこんだ。


「人魚のお前にはまだわからないかもしれないが、淑女は安易に男の前に肌を晒してはならん。わかったか」

「わ、わかったわ。ごめんなさいギル」


 上着の中で身を縮こませながらエレオノーラがちらりと視線をあげると、ギルバートは礼儀正しく視線をそらしながらため息をついていた。怒ったように眉間にシワを寄せてはいるものの、普段のしかめっ面と違ってその頬は薄っすらと赤い。初めて見る彼の意外な表情にエレオノーラがきょとんとしていると、騒ぎを聞きつけたのかパタパタと音を立ててハンナが部屋に入ってきた。


「あらあら、まぁ。これは大変」


 そう言ってハンナが慌ててエレオノーラの手をひいて別室へ消えていく。急いでエレオノーラを隣の部屋に連れてきたハンナは大きく頭を下げた。


「申し訳ありませんでした。私が至らないばかりに……」

「いえ、あの、私が勝手にお風呂から出てしまったからいけないんです……」

「仕方がないですわ。エレオノーラ様はまだこちらの世界のことをご存知ないんですもの」


 しょんぼりと肩を落とすエレオノーラに、ハンナが笑って衣服を着せてくれる。さくら貝を思わせるふんわりとした薄桃色のドレスだ。胸元はすっきりとしていて上品なレースで覆われており、所々に真珠がちりばめられている。美しいドレスに見とれていると、ハンナがドレスの腰紐をすぼめてくれた。


「このドレスの色はぼっちゃまがご指定なさったんですよ。エレオノーラ様の尾ひれがこの色だからと」

「確かに私の尾ひれはさくら貝の色だけど……わざわざ私の色に合わせてくれたの?」

「ええ。人間の世界に来て不安であろうエレオノーラ様を思ってのことですよ、きっと」

「そうなのかしら……」


 そう呟きながらあの不機嫌そうな顔を思い浮かべる。いつもエレオノーラに冷たくて、会うたびに喧嘩ばかりしている関係だが、それでもひとりぼっちで陸に上がったエレオノーラを受け入れてくれたのは確かだ。なんだかんだと言いながらも、人間の世界に不慣れな自分を気遣おうとしてくれるのは十分すぎる程伝わってくる。それに先程見せた表情は新鮮で、ギルバートの意外な一面を見ることができたのはエレオノーラも少しだけ嬉しかった。

 視線を前に向け、海の色をした髪にハンナが櫛を入れてくれる様子を鏡に映す。真珠とさくら貝色のドレスを着た自分の姿を見た途端、胸の内がほんのり熱くなった気がした。


(今の気持ちは何かしら)


 とんとんと胸の内を叩くものがわからなくて、エレオノーラはそっと胸に両手を当てた。だが、その胸の鼓動を隠すようにハンナがダイヤの首飾り──エドワルドからもらったものだ──を胸元にとめてくれる。


「ありがとう、ハンナさん」

「いいえ。お礼を言いたいのは私の方ですよ。エレオノーラ様が来て、ぼっちゃまはとても楽しそうですから」

「楽しそうなの? 本当に?」


 ハンナの言葉に驚いて振り返ると、ハンナがエレオノーラの顔を見て微笑んだ。


「ええ、あんなに感情をあらわにしているぼっちゃまを見たのは初めてかもしれません。ぼっちゃまはいつもこの屋敷で一人静かに暮らしていますから」

「でも、私といる時はいつもあんな感じだわ。すぐ怒るし、かけてくれる言葉も嫌みっぽいの」

「それはぼっちゃまがエレオノーラ様には気を許している証拠ですよ」


 ハンナが優しく言い、髪を綺麗に編み込んで真珠の髪留めでまとめてくれる。鏡の前に映る自分は、まるでどこかのご令嬢のように美しい装いをしていた。


(この姿を見たらエドワルド様は喜んでくれるかしら)


 綺麗に着飾った姿ならエドワルドも振り向いてくれるかもしれない。少しだけ弾む気持ちを抑えながらずっと鏡を見ていると、ハンナが仕上げだとばかりにエレオノーラの肩に両手を置いた。


「さぁ、ぼっちゃまにも見て頂きましょうね」


 ハンナの言葉に、エレオノーラの心臓がドキリと鳴る。エドワルドに見てもらおうと思った時は心が弾んでいたが、ギルバートに見てもらうと意識した途端、なんだかそわそわと落ち着かない気持ちになった。

 彼はいつものようにからかってくるのだろうか。それとも素直に褒めてくれるのだろうか。


(いいえ、別にギルバートがどう思ったって私には関係ないもの)


 期待と不安がないまぜになった複雑な気持ちを吹き飛ばすかのようにふるふると頭を振ると、エレオノーラはハンナについて部屋を出ていった。

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