第11話 お屋敷

 馬車に揺られながら、エレオノーラは窓の外の景色を眺めていた。レンガ造りの道に所狭しと立ち並ぶ店や家。所々に色鮮やかな花が飾られ、広場の中心にある噴水から出る水しぶきが朝日に反射して光の粒を散らしている。活動を始めた朝の町では、多くの人が忙しなく動いていた。

 エレオノーラは初めて見る人間の世界を目を輝かせながら見ていた。これから未知の場所で生活するという不安はどこかへ行ってしまい、初めて見る憧れの町並みは、エレオノーラの目には鮮やかに映った。

 そうこうしているうちに、馬車がゆっくりと歩みを止める。エレオノーラは再び窓から顔を出し、その深青の目を大きく開いた。

 馬車が停まっていたのは、とてつもなく大きい屋敷の前だった。いくつもの窓と扉がついており、先程のキースの診療所より遥かに大きい建物だ。屋敷の前には巨大な門があり、屋敷から門まで続く道には美しい花々が咲きほこっていた。

 馬車から降りたエレオノーラがその大きさに圧倒されていると、屋敷の中から一人の女性がこちらに歩いてくるのが見えた。

 白髪をうなじでまとめた小柄な高齢の女性だった。飾りのない、落ち着いた紺の長丈のスカートに白いエプロンをつけている。


「坊っちゃま、お帰りなさいませ」

「坊っちゃまはやめてくれ、ハンナ。今日からこの子の世話を頼む」


 ギルバートが声をかけると、女性がにこやかに頷いた。


「ええ。ユニベルクの家から早馬が届いておりますゆえ。準備は整っております」

「ありがとう。さすがだな」

「おやすいごようですよ。ところで、あなたがエレオノーラ様ですね」


 ハンナがにこやかにエレオノーラに向き直る。突然声をかけられたエレオノーラは、どぎまぎしながらも頭を下げた。


「はい。あの……よろしくお願いいたします」

「あらあら。とても礼儀正しくていらっしゃるのね。噂に聞いていたお転婆姫様とは大違いですよ、坊っちゃま」

「ハンナ、余計なことは言わなくていい」


 ギルバートの言葉にハンナがホホホと笑う。見たところ使用人と主人という関係だが、二人の仲はもう少し温かいもののように見えた。

 優しい空気を感じて、エレオノーラの顔も自然とほころぶ。門から屋敷までの道はバラのアーチが等間隔に置かれており、赤や黄、ピンクのバラがエレオノーラを歓迎するかのように甘い香りを撒いていた。


「すごい……とても大きなお家なのね」


 海の中から人間の世界を見ていたが、ここまで大きな家はなかなか無かったと思う。エレオノーラが感嘆すると、ギルバートがふんと小さく鼻を鳴らした。


「そうでもない。そこいらにあるのと同じような小さい屋敷だ」

「小さいの? こんなに大きいのに?」


 エレオノーラが驚いて聞き返すと、今度はハンナが苦笑しながら頷いた。


「私達から見れば大きな家でございますが、本来、坊っちゃまのような身分の方が住むには小さい家でございます」

「身分によって住む家が決まっているの?」

「あらあら。ふふ、エレオノーラ様はまずはそこからですね」


 エレオノーラの言葉に、ハンナが笑顔を崩さずに頷く。彼女の笑みの意味がわからず首を傾げていると、ギルバートが灰色の瞳をこちらに向けた。


「ハンナにはお前が人魚であることを伝えている。人間社会のことを色々と教えてもらえ」

「エレオノーラ様。僭越せんえつながら色々とお伝えしてまいります。共に頑張りましょうね」


 ハンナの優しい言葉が胸に染み込み、心がふわりと温かくなる。何もわからない人間の世界への不安が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。


 ハンナに連れられて屋敷の中に入る。屋敷の中は広々としており、美しい装飾に彩られたきらびやかな空間だった。

 入ってすぐの玄関ホールには赤い絨毯がひかれた大理石の階段があり、階上で左右に向かって伸びている。天井は高く、あちこちにガラス細工のシャンデリアがぶら下がっていた。いつもエドワルド達が乗っている船も立派だと思っていたが、この屋敷の中はそれ以上の豪華さだ。だが屋敷の中には誰もおらず、部屋の見事さに比べてその空間はとても寂しげに見えた。

 一際大きな一室に入ると、ギルバートが金糸の刺繍が入った大きなソファにどさりと座る。エレオノーラもスカートを広げながら彼の向かいに腰をおろした。すかさずハンナが温めていた茶器と菓子を持って大理石の机に置く。


「この家にはギルバートとハンナさんだけしか住んでいないの?」


 トポトポとハンナがお茶を淹れる音を聞きながらエレオノーラが問うと、ギルバートがカップに口をつけながらちらりとこちらを見やる。


「そうだ」

「寂しくないの?」

「寂しいと思ったことはないな。ハンナがいてくれる」

「でも外にはたくさんの人がいて、皆とっても楽しそうなのに」


 エレオノーラが知っている人間は皆活気に満ち溢れ、楽しそうに往来を歩く人達ばかりだ。それなに、ここではそんな明るい気配がまるで感じられない。大きな家に一人ぼっちで住むなんて、まるで広い海の中に孤独に生きる自分と同じではないか。

 ギルバートも寂しい思いをしているのではないかと気遣うように彼の顔を仰ぎ見ると、ギルバートが一瞬目を見開いたのちにふっと微笑んだ。


「なるほど。お前にはそう見えているんだな」


 そう呟き、ギルバートがカップを机の上にコトリと置く。そして暫くの間、カップの中から立ち上る白い湯気を眺めていたかと思うとおもむろに口を開いた。


「俺はランベルト家の者から疎まれている」

「ランベルト? て、なあに?」

「俺の生家だ」


 ギルバートの言葉に、エレオノーラは首を傾げた。人間の世界のことは昔からエドワルドやギルバートから聞いてある程度のことは知ってはいるものの、身分や家の話はさっぱりだ。彼の意図がわからずにきょとんとしていると、ギルバートが苦笑する。


「俺は妾腹しょうふくの子だ。そのせいで、俺は生家から正式な跡継ぎとして認められていない」

「しょうふく?」

「坊っちゃまのお父上の子供として認められていないということですよ」


 礼儀正しく側に控えているハンナが助け船を出してくれる。ハンナに補足されながらも、ギルバートから聞いた話は次のようなものだった。


 ギルバートの生家であるフォン=ランベルト家は、昔から王家に仕える由緒正しい家柄だった。子息達は皆近衛騎士になり、騎士団長も数多く輩出している。特に、王家の護衛を務める役目を担っていることがこの家の誇りだった。

 だが、ギルバートの父であるコンラッドは正妻との子宝に恵まれなかった。跡継ぎがいなければ、家の栄誉は失われる。焦ったコンラッドは市井の女に手をつけた。当時通っていた料亭で働いていた、見目の麗しい娘だった。子を孕んだ娘は妾としてランベルトの家に入り、そこで男の子を生んだ。それがギルバートだった。


「俺はランベルト家の跡取りとして、王家に仕える栄誉を守れと言われて育ってきた。王族の護衛は、他家が羨む程のものだからな。だが、俺が十歳の時に父の正妻が子供を生んだことで俺は途端に邪魔者扱いになった」


 ギルバートが淡々と言葉を紡ぐ。その灰色の瞳は乾いていて、何物も映していなかった。


「どうして次の子供ができるとギルバートが邪魔者になるの?」

「家の正当な後継者ができたからだ。正しい血をひく、ランベルト家の跡継ぎ。市井の女である俺の母親とは違う、貴族の血を継いだ子供だ」

「でも、ギルバートとその子はお父様が一緒よね? どうしてお母様が違うだけでギルバートが嫌われなければいけないの? 私にはわからないわ」 

「それが人間の世界ということだ、エレオノーラ」


 ギルバートの声が鋭くなる。ハッとして見返すと、彼の灰色の瞳が真っ直ぐにこちらを見ていた。


「人間の世界は……お前が思うより綺麗ではないかもしれない。お前にはそれを知っておいてほしかった。だから話した」

「綺麗ではない? どうして?」

「くだらない線引きひとつで、同じものでも価値があるものと無いものにわけられる、理不尽がまかり通る世界だ。俺も同じだ。父の言葉ひとつで、俺は価値のある跡継ぎから一瞬で卑しい女の血をひく私生児になる」


 淡々と告げるギルバートの声からはなんの感情も読み取れない。だがエレオノーラは今の彼の言葉が腑に落ちなかった。人間の世界を知らないエレオノーラにとって、なぜギルバートが彼の父にとって卑しい存在になるのかはわからない。


「でもギルは卑しくなんかないと思うわ。だってとても良い人じゃない」


 何気なく言ったエレオノーラの言葉に、ギルバートの瞳が大きく開かれた。その灰色の瞳が微かに揺れている。だが次の瞬間には、彼は腕組みをしながらソファにもたれかかり、ニヤリと口角をあげた。


「ほう。俺のことが嫌いと言っているわりには、随分と寛大な評価だな」

「いつも不機嫌そうな顔をしている所は嫌いよ。でも、エドワルド様の為に誠実に行動している所は好きだわ。それに、地上にあがって困っている私をこうやって助けてくれたもの」

「ふん。お前に評価されるようになったか。魚もなかなかに見る目があるようだ」

「もう! だから魚って言わないで! そういう意地悪を言う所は嫌いだわ!」


 エレオノーラがプイと横を向くと、ギルバートが声を出して笑った。ひとしきり笑った後、ギルバートはおもむろに立ち上がりシャツの袖をまくる。鍛え上げられた太い腕が露になった。


「お前のようなうるさいやつが来たんじゃ、寂しいと思う暇もないな。ハンナ、剣を振ってくる。少し動かないと感覚を忘れそうだ」

「かしこまりました、ぼっちゃま」


 ハンナが頭を下げると、ギルバートは肩を回しながら部屋を出ていった。

 部屋に残されたエレオノーラは何とはなしに窓の側の椅子に腰かける。窓からは屋敷の美しい庭が見えた。

 暫くすると大きな剣を持ったギルバートが庭にやってきて、大きく振りながら様々な型をとる。その動きは流麗で美しかった。何気なく見ていたつもりが、いつの間にかエレオノーラは彼の動きに見入っていた。


「ぼっちゃまの剣捌きは見事でしょう?」


 声が聞こえ、振り向くとハンナがにこやかに立っていた。ハンナも窓に近づき、眼下のギルバートを優しい目で見つめる。


「私は坊っちゃまの乳母として昔からお仕えしてきましたが、坊っちゃまは本当に勤勉な方です。剣の稽古も昔から一日も欠かしたことはありませんでした」

「なぜギルバートはそれほど頑張っているの?」

「幼少期から王子の護衛にと言われていた坊っちゃまは、お父上の期待に答えるために死に物狂いで頑張っていました。ランベルト家の者としての矜持きょうじがあるのでしょう。ですが、ゆくゆくはその任は弟へいってしまいます。坊っちゃまはその事もわかっている上で、ランベルト家の者として王家に忠誠を誓っているのです」

「どうして弟に譲らなければならないの? それはギルバートのお母様が卑しい身分の者だったから?」


 エレオノーラの言葉に、ハンナが悲しそうに頷く。母親の身分が卑しいということだけで、その息子の身分も軽んじられてしまうということがエレオノーラにはわからなかった。長い睫毛を伏せ、窓に手を当てて眼下の彼を見つめる。

 彼の眉間にいつも深いしわが刻まれている理由が、少しだけわかったような気がした。

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