第10話 キース
一夜が明け、ギルバートもすっかりと調子を取り戻したようだった。
昨夜の嵐はまるで嘘だったかのように空は青く、朝の日差しが室内を明るく照らしている。ギルバートを念入りに診察していたキースは、最後に彼の手足の動きを確認した後、眼鏡を押し上げながら軽く頷いた。
「もう大丈夫だ。凍傷になる前に救援が間に合ったのが良かったな。今日はもう家に帰ってもいいぞ」
「ああ、助かった。礼を言う」
「礼ならエレオノーラちゃんに言うべきだな。お前が助かったのは彼女のおかげなんだから」
キースの言葉に、ギルバートがこちらに視線を向ける。向かい側のソファに座って診察の様子を眺めていたエレオノーラの青い瞳と灰色の視線がぶつかった。
「エレオノーラ、体の調子はどうだ?」
「え? ええ……まだ歩くことにはちょっと慣れないけど、でも他におかしな様子はないわ」
「そうか、良かった。……お前には礼を言わなければならないな」
ソファに座り、両手を膝の上にのせたギルバートが囁くように言う。普段は高圧的に感じるその大きな体が、今は小さく見えた。
「……なんだかギルバートに真面目にお礼を言われると変な気分ね」
「おい、どういう意味だ」
「だってあなたはいつも私に意地悪ばかり言うんだもの。あなたが優しいと調子が狂っちゃうわ」
「お前は本当に可愛くないことしか言わないな」
エレオノーラが小首を傾げながら言うと、ギルバートが眉間にシワを寄せながらこちらを見やる。彼の口許が微かにひきつっていた。
そんな二人のやり取りを見て、キースも笑いながらどかりとギルバートの隣に座る。
「まあギルバートのしかめ面はいつものことだからなぁ! 僕も彼とは長い付き合いだが、この眉間のシワは昔からあるよ。僕が優秀な医者だとしても、これを取るのは至難の技だ」
「やめろ。触るな」
人差し指でギルバートの眉間をなぞるキースを、彼は鬱陶しそうに腕で払いのける。だが、キースは構わずにギルバートの肩に腕を回した。
「ははっ、連れないなぁ。君と僕は親友同士じゃないか。昔はよく僕の実験に付き合ってくれただろう?」
「あれはお前が勝手に巻き込んだだけだろうが! まったく、毎回毎回変な実験ばかりしやがって」
「僕の飽くなき探求心は海よりも深いのさ。もちろん、僕は君のことも知りたいよ、エレオノーラちゃん」
そう言いながらキースがウインクをする。その視線に射止められて、エレオノーラは縮こまるようして彼の視線を受け止めた。悪い人では無さそうだが、昨夜の「研究したい」発言から考えると油断はできない。
警戒心を少しだけ
「キース、この子はまだ人間に対しても不慣れなんだ。不必要に怖がらせるのはよせ」
「おっと、とんだ
そう言ってキースが微笑みながら身を乗り出す。彼の紫の瞳がぐっと近づいた。
「そういうわけさ、エレオノーラちゃん。君にはちょっぴり強面のナイトがついているんだ。人間の世界でも、安心して生活したまえよ」
そう言ってキースが快活に笑う。どうやらエレオノーラの緊張をほぐしてくれようとしていたようだ。彼の心遣いにエレオノーラも少しだけ肩の力を抜いた。
緊張がほぐれた途端、なぜだか微かにお腹のあたりがチクチクするような気がしてエレオノーラは自身の腹に手を当てた。同時にきゅるると気の抜けた音がする。
驚いて自分の体を見ると、背後でクスクスと笑う声が聞こえた。
「あらあら、お腹がすいたのね? それじゃあ朝御飯にしましょう。こっちへいらっしゃい」
振り向くと、マリーがにこやかに微笑みながら立っていた。男二人が立ち上がったのを見てエレオノーラも後に続く。
案内された部屋のテーブルを見て、エレオノーラは目を丸くした。
マリーが用意してくれた食卓は豪勢なものだった。落ち着いた暗い木のテーブルに真っ白いクロスがかけられ、焼きたてのパンや瑞々しい果物が入った篭が置いてある。
ふわふわのオムレツは鮮やかな黄色で、海にいる時には目にしたことがない色だ。椅子に座り、焼きたてのパンをパクリと口に入れると、甘くて香ばしい香りがふわりと広がった。
「すごい! お口の中が楽しくなるのね!」
エレオノーラが目をぱっちりと開いて手に持っているパンをしげしげと眺める。その様子を見ていたキースが、きらりと目を光らせてこちらを向いた。
「マリーのパンは美味しいだろ? 彼女はこの世で一番美味しくパンが焼ける女性なのさ」
「この感覚は『美味しい』っていうのね。ええ、人間の体ってとっても楽しいわ」
「そういえば人魚は何を食べて生きているんだい? 生命活動を維持するには栄養の補給が必要だろ?」
「えいようのほきゅう? よくわからないけど、人魚は何も食べないわ。海の底で寝ているといつの間にか元気になるの」
「へぇ、海のエネルギーを体から取り入れているのかな。これは興味深い」
キースがメモを取りたそうにソワソワする。そんな夫の様子を、お行儀が悪いですよとマリーが
初めての人間の体は驚くことばかりだが、新しい発見があってとても楽しい。エレオノーラも笑いながら、香ばしいパンに口をつけた。
食事が終わってソファで一息ついていると、リンリンとベルが鳴る音がした。来客の訪れに、マリーが「はぁい」と返事をして玄関口までパタパタと走っていく。
暫くするとマリーが一通の手紙を持って戻り、キースにそれを渡した。封を開けて手紙を取り出したキースは、暫く無言でそれを読んでいたが、やがてほうと小さく息を吐いた。
「朗報だ。殿下もご無事らしい。兄さんからの手紙にそう書いてある」
「エドワルド様も? 良かった……」
キースの言葉にエレオノーラも安堵のため息をつく。ソファに腰かけていたギルバートが彼の言葉を聞いておもむろに立ち上がった。
「殿下がご無事なら俺もすぐに王宮に戻らねばならん。キース、世話になったな」
「ちなみに兄さんからはお前の様子を知らせろとも書いてある。お前も今日一日くらいは安静にしてろ。医者命令だ」
「いや、俺には殿下をお守りする責務がある。キース、馬車を呼んでくれ」
「おい、僕の話を聞いていたか? 仕事バカも大概にしろバカ」
「第二王子の件はお前も知っているだろう? 俺はこんなところで寝てる暇はないんだ」
「ギルバートはエドワルド様に会いに行くの?」
二人のやり取りを遮るかのように、エレオノーラがきょとんとした顔で呟いた。その深青の瞳は期待でキラキラと輝いている。
「ねぇギルバート。私もエドワルド様に会いたいわ。一緒に王宮に連れていって」
エレオノーラがギルバートの側に駆け寄り、服の裾をつまみながら灰色の瞳を見上げる。その澄んだ青い瞳を見てギルバートがわずかにたじろいだ。
「連れていかれるわけがないだろう。王宮は王族が住まう場所だ。
「しせいって何? どうして入れないの? だってエドワルド様とは海でお会いしていたのに」
「あれは王宮の外、且つ俺という護衛がいたからだ。普段であれば、殿下にはお目通しすることも難しい」
「じゃあギルバートと一緒なら会えるじゃないの」
「なるほど、彼女には色々と教えることがありそうだな」
二人のやり取りを見てキースが苦笑する。ギルバートも上目遣いで懇願するエレオノーラを見てため息をついた。
「お前にはいずれ色々と教える。いつか殿下にお会いできる日も来るだろう。だが、今はダメだ。王宮に入るには色々と諸手続き……準備が必要なんだ。わかるか?」
ギルバートがエレオノーラにもわかりやすいように噛み砕いて説明してくれる。
人間社会のルールは今ひとつわからないが、彼が嘘を言っていないことは真っ直ぐに自分を捉える灰色の瞳からも理解ができた。
「……わかったわ」
しゅんと肩を落とすと、ギルバートが少しだけ優しげな眼差しでエレオノーラを見つめる。
「まぁそんなに落ち込むな。事前に連絡をしておいた方が殿下も喜ばれるだろう。それにまだ殿下も休息が必要だ。お前みたいなやかましい娘が側にいるんじゃ、体調が悪化しそうだからな」
「まぁなんて失礼なことを言うの! エドワルド様こそ可哀想だわ! あなたみたいな怒りんぼがいつも側にいたんじゃ気が張って仕方がないもの!」
「まったく、お前は本当に可愛げがないな」
口を尖らせてぷんぷんと怒るエレオノーラにギルバートが呆れ顔で見返す。
そんな二人をよそに、キースはマリーを呼び寄せ、一言二言何かを申し付ける。マリーが頷いて部屋を出ていくと同時に、キースがくるりと振り向いた。
「今馬車を呼んだ。だが、お前が行くところは王宮じゃない。家だ。まだ万全ではない状態で守られても、王子もいい迷惑だろうからな」
「だが、そうも言っていられないだろう」
「じゃあお前、エレオノーラちゃんはどうするんだ。預かると言っておきながら家に置き去りか? ハンナにも話があるだろうし、今日くらいは休め。僕がそう手紙に書いておく」
キースの勢いに根負けしたのか、ギルバートがチラリとエレオノーラに視線をやり、ため息をつきながら頷いた。
そうこうしているうちに、馬車の到着を告げる声が聞こえた。キース達に礼を言い、二人揃って外に出ると、そこには二頭の馬に引かれた黒塗りの立派な車が停まっていた。ピカピカに磨きあげられた乗り物は大きな窓がついており、金色の縁取りで装飾されている。
中に入り、赤い皮張りの椅子に座ると、ギルバートも反対側の椅子に腰をおろした。
直後に鞭の音がして、馬車はゆっくりと進み始めた。
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