第1話 海辺にて

 太陽の光が海の中にまで届いている。天から注がれる光は白い筋となって水中を照らし、その中を色鮮やかな小魚達が群れを成して泳いでいた。

 彼らが出す泡がぷくぷくとシャボン玉のように海中を賑わせており、まるで宝石のように輝く色彩豊かな海の世界をエレオノーラは優雅に泳いでいた。   

 光のカーテンをかきわけるように上を目指して進んでいく。とぷんと軽い音を立てて水面から顔を出すと、そこは木々に囲まれたいつも通りの場所だった。

 森の奥に深くに位置する小さな泉。一見すると木々に紛れ込んでしまいそうに小さな水溜まりだが、ここは大海原から地下洞窟で繋がっているれっきとした海なのだ。すっと鼻孔を通る爽やかな緑の香りがたかぶった心を少しだけ落ち着かせる。

 透き通るように薄い、青みがかった豊かな巻き毛をふんわりと水面に広げながら待っていると、やがて遠くから木々を掻き分ける音が聞こえてきた。瞬時にエレオノーラの胸もドキドキと鼓動をうち始める。


(きっとエドワルド様だわ)


 待ち望んでいるのは愛しい彼の姿。船着き場に王家の紋章がついた船が停まっている時は、彼は必ず自分に会いに来てくれるのだ。

 足音が近づくに連れて高鳴っていく胸の音を抑えながら木々の間に目を走らせる。やがてガサガサ、バキバキと枝を踏む音が聞こえ、一人の男が姿を現した。


「……どうしてあなたなのよ」


 エレオノーラは男の姿を見た途端、がっくりと肩を落とした。

 現れたのは、長身で体躯の良い男だった。湿った大地を思わせる黒茶の髪を片側だけ撫で付けており、切れ長の目の中央で光る灰色の瞳はダイヤモンドの様に鋭い。高い鼻梁と太い眉。がっちりした体格のその青年は、仕立ての良い服をきっちりと着こなしていた。腰には剣をいている。

 むぅと唇を尖らせながら、エレオノーラは青年を軽く睨み付けた。


「どうしてエドワルド様じゃなくてギルバートが来るの! エドワルド様はどこ?」


 エレオノーラが文句を言うと、ギルバートと呼ばれた青年は射るような眼差しでエレオノーラを見下ろす。


「相変わらずうるさいやつだな。殿下の居場所はむしろ俺が聞きたい。ここには来ていないのか?」

「まぁうるさいだなんて失礼な人ね! 例え来ていてもそんな意地悪なことを言う人には教えてあげないわ」

「そうか。こちらに来ていないのなら用はない」


 冷たく言い放ってギルバートが再び森の中へ足を踏み入れる。だがすぐにサクサクと草を踏みしめる音がして、木々の間から一人の男が現れた。薄い金色の髪を後ろで縛った優しい顔つきの美青年だ。複雑な意匠を凝らした服を着ており、大変身なりが良い。

 その男を見た瞬間、エレオノーラの顔がパッと輝いた。


「エドワルド様! お待ちしておりました!」 


 エレオノーラの言葉に、青年──エドワルドは微笑みで返してくれた。新緑を思わせる薄緑ペリドットの瞳が優しげに弧を描き、にこりと笑った口からは白い歯が覗く。目鼻立ちの整った端正な顔立ちに、エレオノーラの胸がとくりと鳴った。

 だがエレオノーラが岸辺に近づくよりも先にギルバートがエドワルドのもとへ歩み寄り、片膝をついているエドワルドの腕を引く。


「殿下。こんな所で時間を潰していないで、早くこちらにお戻りください」

「あっ待って! 行かないで!」


 エレオノーラが慌てて岸辺に近づき、エドワルドの腕を掴んだ。両腕を二人に取られて困ったように微笑むエドワルドをよそに、エレオノーラとギルバートは互いに睨み合う。だが、エレオノーラに勝ち目はなく。ふん、と鼻で笑った後、ギルバートがエドワルドの腕をぐいと引き寄せた。

 突如両腕から消えていく温もりに、エレオノーラはあっと声をあげた。そもそも力比べにおいて男女では敵うはずもないのだが、腹立ち紛れにエレオノーラは水面をパシャンと叩いた。弾かれた水はキラキラと光りながら、ギルバートに水しぶきとしてかかる。


「うわっ! コラ、何をするこの魚め!」

「まあ! 魚だなんて失礼な人ね! 人魚はこの世で一番美しい生き物なのよ!」


 食ってかかるように言うと、服にかかった水をはらいながらギルバートがギロリとこちらを見る。


「他の人魚はそうかもしれないがお前は別だ、エレオノーラ。こんなに型破りな人魚なぞ俺は知らん。お前は飛びうおか何かなのか?」

「どうぞそう思ってもらって結構よ。私はエドワルド様だけいてくれればいいんだもの。私、あなたみたいに眉間にしわが寄った人は嫌いだわ」

「こいつ言わせておけば……」


 口を尖らせてプイと横を向くエレオノーラと、苦虫を噛み潰したような顔をしたギルバートを見て、エドワルドが優しく微笑んだ。


「ギル。もう少しだけここにいさせてよ。僕達は明日にはまた海の上だ。彼女と会えるのはほんの少しの時間だけしかないんだから」

「殿下、あなたはもう少し自分の立場をご理解なさった方が良いかと」

「いいじゃないか。船に戻ればまた僕は第一王子殿下だ。ここでだけは、ただのエドワルドでいさせてよ」

「殿下……」


 エドワルドのお願いに、ギルバートは大きなため息をつくと腕を組みながら一歩退がった。どうやら許しをもらったらしい。こちらを向いてにこりと微笑むエドワルドに、エレオノーラは目を輝かせながら岸辺に近づく。

 岸辺に両手をかけて力を入れると、ざばりという音と共にエレオノーラの全身が現れた。きめの細かい白肌に、ほっそりした肩と腰。身につけているものは、ふっくらした柔らかそうな胸元を覆う薄布だけだ。そして下半身は宝石のように煌めく鱗に覆われた美しい尾ひれ。エドワルドはエレオノーラの姿を見て眩しそうに目を細めた。


 人魚。


 海の宝石とも言われる美しい生き物で、その妖艶な姿であまたの人間達を魅了してきたと言われている。エレオノーラも噂に違わず美しい人魚だった。

 透き通るような真珠色の体は尾ひれにかけてうっすらと桜貝の色になっており、それだけでも宝石のような輝きがある。明るい海の色をした緩やかな長い髪と、深海を思わせるサファイアブルーの瞳。薔薇色の頬とサクランボ色の唇は艶かしく、人魚を捕まえて闇の市場で売る人間がいるという話が後を絶たないのも頷ける美貌だ。

 今、人魚──エレオノーラは、自分の美しさにまるで気がついていないかのようにうっとりと目を輝かせながらエドワルドを見つめていた。


「エドワルド様、僭越せんえつながら私、エドワルド様に贈り物があるのです」


 エレオノーラが上目使いでエドワルドを見上げ、そわそわした様子で胸元に手を置く。そのまま少しだけ躊躇ためらいの表情を見せた後、ぎゅっと目を詰むって両手に握った何かを差し出した。そっと両手を開けると、その小さな手のひらには海を思わせる青い石のついたペンダントが乗っていた。


「とても綺麗だね。これはなんだい?」

「これはアクアマリンです。通称『人魚の涙』と呼ばれる石で、私達人魚が航海の無事を祈って船乗りに渡すものです。総じて、女性が恋した男性の安全を祈る時に渡すお守りとも言われています」

「これを僕に?」


 エドワルドが青い宝石を陽の光に煌めかせながら嬉しそうに微笑む。その優しい笑顔を見て、エレオノーラの胸が高鳴った。


「はい、どうぞ受け取ってください! 私、エドワルド様のことをお慕いしているんです!」

「はは。嬉しいなぁ。僕も君のことが好きだよ、エレオノーラ」


 太陽のように輝く笑顔でエドワルドが返す。その返事を聞いて、エレオノーラは内心でがっくりと項垂れた。もう前々からずっと彼に気持ちを伝えているのに、彼は一向に気付いてくれない。いや、気付いているのかもしれないが、種族の壁があるからか、いつもこうやってアッサリとかわされてしまうのだ。

 しょんぼりと肩を落とすエレオノーラの背後でふん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。見ると、泉の近くの木にもたれかかりながら腕組みをしているギルバートがしたり顔でこちらを見ている。一連のやり取りを見守っていた彼は、ゆっくりと身を起こすと再度こちらに近づいてきた。


「さ、殿下。戯れはこれくらいにして、そろそろ行きましょう。みな待ちくたびれています」

「あ、ああ。そうだね。じゃあ、また来るよ、エレオノーラ」


 ギルバートの言葉に、エドワルドが土を払いながら立ち上がる。名残惜しいが、今度こそ別れの時間だろう。エドワルドを見ると、彼は少しだけ申し訳なさそうに微笑んでおり、反対にギルバートはやっと解放されたというような顔をしていた。


「ペンダント、ありがとう。大切にするよ。君も元気で」

「はい……」


 今日も想いは通じなかったが、やはり優しい彼の笑顔は自分の心を癒してくれる。彼の言葉に温かい気持ちになっていると、横で不機嫌そうな顔がこちらを向いた。


「用件はそれだけか。ならば行くぞ」


 そう言って彼はくるりと背を向け、エドワルドの背に手を添えながら森の奥へと消えていく。名残惜しそうに何度もこちらを振り向くエドワルドと違って、彼は一度も振り向かなかった。そのそっけない振る舞いに、ムカムカと怒りが沸いてくる。


 ──もうもうもう! 私、本当にあの人のことは嫌いだわ!


 エレオノーラは森の奥へ消えていく大きな背中に向かってべっと大きく舌を出した。

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