第2話 人魚の話

 彼らが去った後も、エレオノーラは二人が消えていった方向をずっと眺めていた。辺りは静寂に包まれており、鳥の鳴き声ひとつしない。深い森の奥にあるこの場所は滅多に人が立ち寄らないのだ。

 エドワルドとギルバート、そしてエレオノーラの三人だけしか知らない秘密の場所。人魚は美しいが為に拐われて売られることも多く、人魚であるエレオノーラが安心して過ごせるように、昔から二人と会うときはこの場所だった。彼らとの付き合いも、もう何年になるだろうか。

 はぁ、と小さくため息をつき、水の中へと戻る。想い人に会えたのは僅かな時間だけだった。本当はもっと一緒にいたかったし、話したいこともいっぱいあったのに。王子の護衛を勤める以上仕方のないことなのだが、まるでギルバートがエドワルドとの仲を邪魔しに来たようで面白くなかった。

 あの不機嫌そうな顔を思い出し、エレオノーラはむぅと頬を膨らませた。怒りっぽくて、冷たくて、意地悪な昔馴染み。今度会ったら嫌味の一つでも言ってやるわ! とエレオノーラは内心で拳を握るが、やがてその深青の瞳を悲しそうに伏せた。


「寂しいな……」


 ポツリと吐いた言葉は泡となって消えていく。この海にエレオノーラ以外の人魚はいない。果てしなく広大なこの海の世界をひとりぼっちで生きるエレオノーラにとって、彼らとの時間は何よりも楽しくて大切なものだった。大好きなエドワルドと言葉を交わしたことはもちろんだが、あのギルバートと軽口を叩き合うのさえ今は恋しい。

 特にやることもなく、尾ひれを揺らしながらぼんやりと水中にたゆたっていたその時だった。


「またここにいるの?」


 幼子のような可愛らしい声がして、エレオノーラは声がした方へ視線を向けた。見ると、小さなタツノオトシゴがぷくぷくと小さな泡を吐きながらこちらを見ている。


「シェル」


 エレオノーラが呼び掛けると、タツノオトシゴは返事の代わりにぷくぷくと泡を吐いた。思いがけない友人の登場に、エレオノーラはパッと破顔した。人魚は人と魚の二つの性質を持つがゆえに、海中の生物と意思を疎通することができるのだ。

 スイッと彼の方に泳いでいき、両手を広げてその小さな体を包み込む。体長十五センチほどの友人は、つぶらな瞳でエレオノーラを見上げた。


「やっぱりここにいると思った。あそこに船があると、君はいつもここに来るんだもの」

「そうよ。だって船が停まっているということは、エドワルド様が近くに来ているという意味なんだもの。好きな人に会いたい気持ちは、シェルもわかってくれるでしょ?」


 クスクスと笑いながら、ちょんとタツノオトシゴのくちばしをつつくと、彼は同意するかのように水中でくるりと一回転した。


「ふふ、君は本当に彼らが好きなんだね。彼らが来ると、君はとっても嬉しそうだ」

「あら、勘違いしないでちょうだい。私が好きなのはエドワルド様だけで、あの怒りんぼのことは嫌いだわ」

「でもギルバートだって旧知の仲だろう? 君にとっては特別な人間じゃないか」

「ダメよシェル。あの人とエドワルド様を一緒にしないで。エドワルド様はね、とっても優しいの。怪我をした私を助けてくれて、ずっと側にいてくれた人なのよ。いつも笑いかけてくれて、お話もしてくれて、私あの方とお話をしていると、とっても心が温かくなるの」


 そう言ってエレオノーラはうっとりと目を閉じた。まぶたの裏に浮かぶのは、優しく微笑む彼の姿。太陽の様に明るい金色の髪に、森林のような新緑の瞳。天使に愛されたかのような笑顔のなんと美しいことか。と同時にいつも彼の傍らにいる凍てつく氷のような顔を思いだし、エレオノーラはむぅと唇を尖らせた。


「反対にギルバートはちっとも優しくないの。いつも怖い顔をしているし、不機嫌そうな顔ばっかり。昔からそうなのよ、私に意地悪なことばかり言うの! 冷たくて、怒りっぽくて、私あの人のことは大嫌いだわ!」


 言っているうちに、先程の小バカにしたように自分を見つめる視線を思いだし、ふつふつと怒りが沸きあがる。


「特に私が人間の世界のことを聞こうとすると、彼はとっても怒るの。お前は知らなくて良いことだって。エドワルド様のことだってもっと知りたいのに、今日みたいにすぐ連れ戻してしまうし、なんだか私とエドワルド様が一緒にいてほしくなくて意地悪をしているみたい。多分、ギルは私のことが嫌いなのよ。だから私もあの人のことは嫌いだわ!」


 そう。昔からギルバートはエレオノーラに冷たかった。二人との付き合いはエレオノーラがまだ幼い時から始まったのだが、初めから優しくに寄り添ってくれたエドワルドと違って、ギルバートは突き放すような態度ばかりだった。護衛という立場上、王子に近寄る者を警戒する気持ちはわかるが、一介の人魚に彼をどうこうできる力なんてあるはずがないのに。

 頬を膨らませながらシェルに愚痴を言うと、彼はぷくぷくと泡を吐きながらこてんと首を傾げた。


「それでもエレオノーラ。人魚は人間と結婚できないじゃないか。もしエドワルドが君の気持ちに答えてくれた時はどうするんだい?」

「その時はおかあさまに相談するわ。人魚はね、人間の体になれるのよ」

「人間の体に? 本当かい?」


 シェルが驚きの声をあげる。エレオノーラは彼を手のひらに乗せながらゆっくりと頷いた。


「そうよ。人魚の世界にはね、昔から伝わるおとぎ話があるの。王子様に恋をした人魚姫が、声と引き換えに人間の体をもらって海の上へ行くお話よ」


 そう言うと、エレオノーラが静かな声で語り始めた。


 それは海の悲しい、恋の物語。


 王子に恋をして陸にあがった人魚姫は王子に恋人ができたことを知って嘆き悲しむが、最終的には彼に思いを告げることなく泡となって散ってしまう遠い昔のお話だ。

 エレオノーラの話を聞いたシェルが、切なそうにその黒い目を瞬かせる。


「とても悲しいお話だね」

「そうね。それでも、ひとときでも好きな人と一緒に生活できたのは羨ましいわ」


 エレオノーラが静かに目を伏せる。目を閉じると長い睫毛が白い肌に影を落とし、再び開かれた深青の瞳は憂いを帯びていた。


「シェルがいてくれるけど、やっぱり他に人魚のお友達がいないのは寂しいもの」

「そう言えば、君以外にあまり人魚の姿を見ないね」

「ええ。ここは荒れやすくてすぐに大渦ができる海だから、人魚は住みにくいんですって。たまに他所よその海から来た人魚を見ることがあるけど、皆すぐどこかへ行ってしまうみたいね」

「エレオノーラは別の海には行かないの?」


 シェルがぷくっと息を吐きながら問う。エレオノーラは目を伏せてふるふると首を振った。


「おかあさまが言っていたけど、私は他の海では生きられないんですって。他の海に行くと、すぐに死んでしまうらしいの。魂がこの海に縛り付けられているらしいわ」

「ふうん? よくわからないけど、なぜ君だけそんなことになっているんだい?」

「私もわからないけど、大貝の中から生まれた子は皆そうらしいわ。おかあさまがそう言っていたの」

「君のおかあさまはウミヘビの一族だろう? 海の精霊と取引ができる一族と聞いたことがあるよ。彼女に頼んでみてもダメなのかい?」

「そうね。もう何百年も続く出来事だから、今さら変えることはできないんですって」


 シェルの言葉にエレオノーラは弱々しく微笑みながら答えた。


 エレオノーラが住んでいる海には薄桃色をした大きな貝がある。海の生き物しかたどり着けない、深い海の底。太陽の光が僅かにしか届かないその場所には薄赤色の輝きを放つ珊瑚が群生し、珊瑚の森に守られるように大貝が鎮座している。

 その大貝がいつからそこにあるかはわからない。だが数百年に一度だけその貝から人魚が生まれ、生まれた人魚はこの海を支配しているウミヘビの一族が必ず育てあげることになっていた。彼らの先祖が人魚姫の為に海の精霊と取引をしたことが理由で、ウミヘビの一族がその役目を担うことになっているらしい。

 ここまで育ててくれたウミヘビには感謝しかないが、それでも彼女に肉親としての愛があるとは思えなかった。貝から生まれた人魚は自分達の一族が育てる。そう決まっているから面倒を見ているだけ、というだけの関心しか持たれなかった。

 エレオノーラは生まれてからいつもひとりぼっちだった。ゆえに、地上の世界に憧れた。岸の向こうに見えるのは煌びやかで美しい町並み。色とりどりの家が行儀よく建ち並び、レンガでできた大きな橋や、天まで届きそうな大きな建造物は見る度にエレオノーラの心を踊らせる。

 中でも時折海辺に出て逢瀬を重ねる恋人達の姿は、エレオノーラの憧れだった。互いに見つめ合い、愛を語らい合う男女のなんと幸せそうなことか。お互いに愛し合い、必要とし合う関係は、生まれてから一人で生きてきたエレオノーラにとってはとても眩しく見えた。


「私、いつか人間の世界に行きたい。人間として生きてみたいの。そして叶うならずっとエドワルド様の側にいたいわ」

「君がいなくなってしまったら、僕が悲しいよ」

「でも私はもうひとりぼっちは嫌なの。その時はシェル、あなたもついてきてくれる?」

「もちろんだよ、エレオノーラ」


 シェルがスイッと泳いで近づき、まるで慰めるかのようにエレオノーラに寄り添った。エレオノーラは小さな友人を優しく手のひらで包み込むと、その額にそっとキスをする。


「ありがとう、シェル。なんだか寂しくなっちゃったわ。今日は一緒にいてくれる?」

「もちろん君の言うとおりにするよ、僕のエレオノーラ」

「ふふ、ありがとう。それじゃあお家に戻りましょう」


 シェルを大事そうに抱えたまま、美しい尾ひれを動かして宝石のように色鮮やかな海の中を進んでいく。

 いくつもの岩穴を通り抜けて海の底までいくと、珊瑚の森に守られるかのように巨大な二枚貝が口を開けていた。大貝から生み出される真珠が開いた貝の口から溢れだし、暗い海底の中に夜空の星を思わせるように散らばっている。

 エレオノーラは大貝の中に入ると、手のひらに包んでいたシェルを優しく横に置いた。


「エレオノーラ、君が彼らと出会った頃のことを聞きたいな」

「エドワルド様とギルバートのこと? ええ、良いわよ」


 シェルの言葉にエレオノーラもにこりと笑う。彼の隣で横になり、エレオノーラは昔の思い出を語り始めた。

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