第3話 昔話

 エレオノーラが彼らと出会ったのは、彼女がまだ幼い頃のことだった。

 この海には、エレオノーラの他に人魚はいない。ウミヘビの一族と共に暮らしているものの、彼らはエレオノーラに関心を持ってくれなかったのだ。遊び相手のいないエレオノーラは、毎日水面に上がっては日が落ちるまで人間の世界を眺めていた。

 人間の世界は不思議な場所だった。赤や黄や青の家、大木より高い建物、きらびやかな衣服を身に纏った人間達。

 海よりも遥かに色彩豊かな世界は、エレオノーラの心を惹き付けてやまない。春にはあちこちで花々が咲き誇り、冬は色を奪われたかのように雪で覆われる町並みは、海の世界では見られない光景かおをいくつも見せてくれるのだ。


 その日も幼いエレオノーラは海から顔を出して地上の世界を眺めていた。遠くに見える町並みを見ながら人間の暮らしはどんなだろうと思いを馳せていると、遠くで誰かが叫ぶ声が聞こえた。


(……誰かしら?)


 慌てて声のする方へ泳いでいく。見ると、船着き場を支える木の柱に一本の黒い縄が結んであり、その縄の先にくくりつけられている小さな網が海中にゆらゆらと漂っていた。

 中で何かがうごめいている。よく見ると、捕らわれて網の中で動いているのは、小さなタツノオトシゴだった。


「大変! なんて酷いことを!」


 エレオノーラは慌てて駆け寄り、網に両手をかける。幸い、網自体はそれほど太くない縄でできているようだ。そのまま左右に引っ張ると、ピリッと微かな音がして網に裂け目ができた。


「早く逃げて」


 タツノオトシゴへ声をかけると、彼は黒い瞳をまたたかせながら頷き、網の裂け目からスイッと外に出る。無事に仲間を救出できたことにエレオノーラがホッと胸を撫で下ろした時だった。

 突如グイと体が上へ引っ張られる感覚があり、体が海上を目指して持ち上げられる。慌てて視線を自分の体に向けると、体中に黒い網が絡み付いているのが見えた。

 先程の網より太くて頑丈な縄だ。逃げようとして激しく手を動かすと、ピリッと腕に鋭い痛みが走る。よく見ると、網には所々に鉄のとげが仕込まれていた。

 幼いエレオノーラはパニックになった。網から逃れようと必死にもがくが、動けば動くほど網は体に絡みつき、網に仕掛けられている棘が鋭い痛みと共に柔らかな肌に突き刺さる。


「助けて!」


 必死に叫ぶも声は誰にも届かず。切り裂かれた肌から流れる鮮血が細い筋となって海に溶け込むばかりだった。徐々に体力が失われ、ぐったりと網の中に倒れこんだ瞬間に、ざばりと音を立ててエレオノーラは船着き場の板に引っ張りあげられた。


「見ろ、人魚だ」


 男の声がする。虚ろな目で見上げると、複数の人間達が、網に捕らわれた自分を見下ろしていた。一人の男が網越しにエレオノーラの体に手を触れる。


「でかしたな。だが、まだ子供のようだ。血をとるには量が足りないぞ」

「それでも無いよりはマシだろ。足りない分はまた捕まえればいい」

「いいから早くこいつを網から出せ。誰かに見つかる前にずらかるぞ」


 人間達がエレオノーラを出そうと網を引っ張り、その度にまた網に仕掛けられた棘がエレオノーラを傷つけていく。もはや痛みを感じる間もないほど彼女は弱っていた。視界にもやがかかり、そのまま意識を手放しかけたその時、ふいに男達の手が止まった。


「おい見ろよ。あれは近衛騎士団の旗じゃないか?」


 誰かが叫び、同時にその場が騒然となる。


「しまった。密漁は犯罪だ。早くこいつを運べ!」

「いや、もう見つかっているかもしれん。やつらがこっちへ向かってくる!」

「こんなもんを担いでいたら捕まった時に言い逃れができんぞ。今回は諦めるしかない」


 誰かがチッと舌打ちをし、エレオノーラの体を地面に投げ捨てる。そのままバタバタと足音がして人間の男たちは足早に去っていった。

 エレオノーラはぐったりと地面に横たわっていた。騎士団の姿を見ようとするが、暴れている時に傷ついたのか、目も痛くて開けられない。おぼろげな視界の中で、誰かがこちらにやってくるのが見えた。だがそのまま力尽きたエレオノーラは、地面に横たわったまま意識を手放した。


 どれくらい経ったのかはわからない。だが頬に温かいものが触れ、エレオノーラはハッと覚醒した。慌てて飛び起きるが、そのはずみで全身に痛みが走り、思わず声が出る。


「まだ動かない方が良いよ。酷い怪我だ」


 自分のすぐ側で男の子の声が聞こえた。振り向こうとしてはじめてそこで自分の目が布のようなもので覆われていることに気がつく。目隠しを外そうと両手を目元に持っていくが、温かい手がやんわりとそれを制した。


「ダメだよ。目から血が出ていたから。もうすぐお医者が来るからそれまで待っていて」

「お医者って何? あなたは誰? 私、どこにいるの?」


 身を起こしながら震える声で聞く。目隠しをされている為に周囲の景色を確認することができない。辺りにはピチョンピチョンと水が反響する音だけで、波の音も、海鳥の鳴き声も聞こえなかった。

 何も見えない漆黒の世界に怯え、エレオノーラは自身を守るかのように両手で体を抱き締めた。体を動かす度に全身に鋭い痛みが走り、思わず涙がこぼれ落ちる。得体のしれない恐怖を感じてすすり泣くと、突然体がふわりと温かいものに包み込まれた。


「大丈夫?」


 男の子の声がすぐ側で聞こえる。手を伸ばすと、指先に厚い布の手触りを感じた。ゆっくりと全身を包み込まれる感覚に、そこで自分が男の子に抱き締められていることに気がつく。彼の体温が自分の冷えきった体を温め、エレオノーラは少しだけ落ち着きを取り戻した。


「……怖い?」


 エレオノーラを両腕で抱き締めながら、男の子がおそるおそる声を出す。とても優しい声だった。


「うん……うん、怖い。体も痛い。私の体はずっと痛いままなの? 私の目はどうなっちゃうの?」


 何も見えない恐怖、体が痛いことへの苦しみ、そしてこの目がもう美しい世界を映さなくなるかもしれないことへの絶望がエレオノーラの心を真っ暗にしていく。不安に押し潰されそうになり、エレオノーラはすすり泣いた。だが、まるで恐怖から守ろうとしてくれているかのように男の子がエレオノーラをぎゅっと優しく抱き締め、胸元に引き寄せる。


「大丈夫。僕が側にいるから」


 自分を気遣う声は、エレオノーラの耳に優しく響いた。そのまま男の子の胸にすがりつくように顔を埋めてホロホロと泣くと、男の子がエレオノーラの背中をゆっくりとさすってくれた。

 優しくて安心感のある温もり。抱き締められているうちに、真っ黒だったエレオノーラの胸にポウと小さな火がともる。

 胸に宿った温かい気持ちはじんわりと光を広げていき、エレオノーラの胸中を優しく照らした。彼と一緒にいれば、暗闇の世界はもう彼女にとって怖いだけものではなかった。


「ありがとう……あなたは優しい人ね」


 身を起こして軽く微笑む。目隠しをされたままで顔は見えないだろうけど、精一杯の感謝の気持ちをこめて伝えると、ハッと息を飲む音が聞こえ、自分を抱き締める腕に力がこもったのがわかった。

 男の子が腕を離し、ゆっくりとエレオノーラの顎に手を添える。そのまま顎を優しく持ち上げられる感覚と共に、唇に温かくて柔らかいものを感じた。

 本当に触れるだけの、微かな感触。

 キスをされたことに気づいたのは、男の子の唇が離れた時だった。


「あっ……今……」


 顔を真っ赤にしながら慌てて両手で唇を押さえると、男の子がガバッとエレオノーラの体をかき抱いた。男の子の胸に顔を押し付けられ、心臓が大きく弾む。男の子はエレオノーラの肩に顔を埋めながらぐっと腕に力をこめた。


「……ごめん」


 照れ隠しをするかのようにエレオノーラを胸に抱き、男の子が掠れた声を出す。エレオノーラも彼の胸に体を預けながら深呼吸をして高鳴る胸を静めた。


 大きな心臓の音がする。


 それが自分の音なのか、彼の音なのかはわからない。けれども、もう怖い気持ちはどこかにいってしまっていた。早鐘のように胸を打つ心臓の音と共に、エレオノーラも男の子の背中に腕を回してその心地よい感覚を享受する。まるで男の子にすべてを預けたように安心しきった顔で、エレオノーラは静かに目を伏せた。


 次に気がついた時には、エレオノーラは地面に寝かされていた。頬に固い地面の感触があり、先程とは違って複数の人間が話す声が聞こえる。地面に両手をついてゆっくり体を起こすと話し声がピタリとやんだ。


「気がついたかい? どれ、少し具合を見てみようか。この子の目隠しをとってやってくれ」


 大人の声がする。誰かが立ち上がり、こちらに向かって歩いてくる音がした。


「ごめんね、はずすよ」


 少年特有の、少し甲高い、優しい声が聞こえた。頭の後ろに手が回され、しゅるりと微かな衣擦れの音と共に目隠しが外される。

 急に開ける視界に、エレオノーラは顔をしかめた。ぼんやりした視界がはっきりするにつれ、世界に色が戻ってくる。


「お医者が来たから、もう大丈夫だよ」


 視界に映るのは、蜂蜜色の細くて綺麗な金髪と優しそうな新緑の瞳。美しい顔立ちの男の子が慈しむような瞳でこちらを見ていた。


「僕はエドワルド。君の名前を教えてくれるかい」

「エレオ……ノーラ……」

「エレオノーラか。素敵な名前だね」


 そう言って微笑む彼の顔を見て、エレオノーラの胸がきゅうと締め付けられた。上目使いに彼の顔を見上げると、形の良い唇が弧を描き、白い歯が覗く。


(キスをしてくれたのは、あなた──?)


 先程の出来事を思い出した途端に顔が熱くなる。心臓がうるさいくらいに胸を叩いていた。


 エレオノーラが彼に恋をしたのは、この時だった。

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