第4話 大嫌いなあの人のこと
目を覚ましてからの出来事はよく覚えている。エレオノーラが目隠しを外すと、エドワルドの背後にいた中年の男が立ち上がり、エレオノーラの側に腰をおろす。
「ふむ。血は出ているが眼球に傷はついていないようだな。目の端をちょっと切っただけだろう」
カンテラを地面に置き、仄かに照らす光でエレオノーラの目を丁寧に見ていた男が言う。薄暗さを感じてぐるりと周囲を見回すと、一面を土の壁に囲まれた空間が目に入った。ゴツゴツとした岩壁の盛り上がりを見るに、どうやらここは洞窟のようだった。
正面を見ると、カンテラの灯りに照らされて男の顔が浮かび上がった。薄墨色の髪を撫で付けた、中年の男だった。眼鏡の奥の瞳は優しげに弧を描いており、目尻にある小さなしわが人の良さを伝えている。
「ここはどこ……?」
「洞窟の中さ。君みたいな綺麗な人魚は悪い人間に狙われやすい。でも、ここにいれば安全だよ」
「悪い人間……狙われる……?」
言葉を噛み締めるかのようにエレオノーラは男の言葉を繰り返した。人間を見るのは初めてではない。海から地上を見る時にたくさんの人間を目にしてきたが、皆男女で寄り添いあって幸せそうな顔をしている人達ばかりだった。
男がぐっと口を噛んで痛ましそうな顔をする。
「あまり子供には聞かせたくない話だが、君達人魚を捕まえて、見世物として売る人間がいることを覚えておいた方がいい。あまり不用意に岸には近づかないように」
「捕まえる……人魚を?」
震えながら返すと、男は無言で頷いた。口を開き、ためらいがちに目を伏せる。何か言いにくいことを言おうとしている様子だった。
「人魚の血は人間の薬になるということも教えないといけないですよ、先生」
突然、遠くから少年の声が聞こえた。男の傍らにいるエドワルドではない、別の男の子の声。今しがた声がした方に視線を向けると、男の背後にもう一つ人影が見えた。
「ギルバート」
男が振り向いて声をかける。姿を現したのは、エレオノーラやエドワルドと同じくらいの少年だった。湿った大地を思わせる黒茶の髪に、凛々しい切れ長の灰色の瞳。太めの眉はひそめられ、子供ながらに眉間にくっきりとシワが寄っている。ギルバートと呼ばれた少年は手に持っている籠を男に渡した。
「レオード先生。言われた通り、追加の薬を持ってきました」
「あ、ああ。ありがとう、ギル。さぁ、エレオノーラ。怪我の手当てをしてあげようね」
籠を受け取った男──レオードが優しく言い、籠からいくつもの瓶を取り出した。中に入っている液体を手巾に垂らし、エレオノーラの側にしゃがむと、尾ひれの近くの出血している箇所に優しく当てた。
「きゃっ」
「痛いけど、我慢して」
傷口に染みるピリピリした痛みにエレオノーラが悲鳴をあげると、男が優しく諭す。エドワルドもエレオノーラの側に座り、そっと手を握ってくれた。
「大丈夫だよ。少し我慢をすればすぐ良くなるから」
そう言ってエドワルドが柔らかく微笑む。その温かい言葉にじわりと胸が熱くなった時だった。
「知ってる? 人魚の血は薬になるらしいよ。怪我が治るとか、寿命が伸びるとか言われているらしい」
洞窟にぶっきらぼうな声が響いた。顔を上げると、ギルバートが不機嫌そうにこちらを見ている。彼の言葉にレオードがピクリと眉を動かした。
「ギルバート、彼女は弱っている。今はそんな話をしなくても良いだろう」
「ですが先生、これは知っておくべき事実です。網には
「薬……? 何の話……?」
エレオノーラが震える声で聞き返すと、ギルバートが灰色の瞳をこちらに向けた。
「お前自身の無知から来てこんなことになっているんだ。次からは気をつけろってことだよ」
「ギルバート、そんな言い方はよせ。必要以上に怖がらせることはない」
レオードが注意をするが、ギルバートはプイと顔を背けてそのまま洞窟から出ていってしまった。
「まったくあいつは……」
レオードがやれやれと首を振ってため息をつく。
「すまないね。あれでも彼は君のことを心配しているんだと思うよ。悪く思わないでやってくれ」
「あの人は私のことが嫌いなの?」
「いや、そんなんじゃないさ。ただ少し不器用なだけだよ」
そう言うと、レオードは薬の瓶を籠に片付けるとさっと立ち上がった。
「では、私達はもう行く。数日おきに様子を見に来るから。王子、あまり長居をすると他の者が心配します。ここを出ますよ」
「王子?」
驚いて聞き返すと、レオードが頷いた。
「この方は第一王子殿下であるエドワルド様だ。私は王宮侍医のレオード。先程いたギルバートはゆくゆくは王子の従者になる子だ。たまたま私達が視察でここを通りかかった時で良かった」
「僕とギルバートが君を見つけたんだ。人魚がお金になる話はよく聞くから、近衛騎士団とは言え、他の大人にも見つからないようにこっそり君を洞窟に運んだんだよ」
レオードの言葉を受けてエドワルドが微笑む。新緑色の瞳が細められ、その思いやりに溢れた優しい顔はエレオノーラには輝いて見えた。
「ありがとう……ございます」
胸の前で両手を組み、ペコリと頭を下げる。二人はにこやかに笑うと、そのまま連れだって洞窟を後にした。
彼らが去った後、エレオノーラは一人で地面に横たわった。しっとりと水に濡れた地面がエレオノーラの尾ひれを乾燥から守ってくれる。十分に水分を含んだ、ひんやりした空気が心地よい。ずきずきと痛む体を労りながら、エレオノーラは先程までの出来事を思い出していた。
網にかかり、怪我を負った時はもちろん怖かった。だが、それ以上にエレオノーラの心を締めるのは先程のキスのことだった。
ふわりと押し付けられるような、優しい口付け。未だに思い出す度に胸と顔が熱くなって落ち着かない気持ちになる。唇に手を触れ、指先で軽く押して先程の感触を
──また、会えるかな。
太陽を反射するかのような金色の髪と優しい微笑みを思いだし、口許に笑みをたたえながらエレオノーラはそっと目を伏せた。
だが、次の日からやってくるのはエドワルドではなくギルバートの方だった。エドワルドは王子という身分である為か、なかなか王宮の外に出られないらしい。洞窟にやってくるのは、レオードとギルバートだけ。彼らの足音が聞こえる度にパッと顔を輝かせ、エドワルドの姿が見えないと、しょんぼりと肩を落とす日々が続いた。
ギルバートはついてくるだけであって洞窟の中には入らなかった。レオードがエレオノーラの手当てをする間中、ずっと外で治療が終わるのを待っているだけだ。たまにレオードに呼ばれて治療の手伝いもするが、エレオノーラが見上げると、フイと目を反らしてしまう。エレオノーラには、彼の気持ちがよくわからなかった。
レオード達が洞窟に通うようになって数日経った。エレオノーラの怪我も少しずつ良くなり、やがて海に帰る日がやってきた。
「じゃあ、元気でね。エレオノーラ。僕は海の近くの診療所にいるんだ。僕の診療所からは海がとても綺麗に見えるから、きっと君の姿もすぐに見つけられるはずさ。会いたくなったらいつでもおいで」
レオードが笑ってエレオノーラの髪を優しく撫でる。エレオノーラはペコリと頭を下げて、レオードの隣にいるギルバートを見た。
「ギルバートもありがとう。ここにはいないけど、エドワルド様にもお礼を言っておいてくれる?」
「……ああ、わかったよ」
エレオノーラの言葉に、ギルバートは素っ気なく返事をしただけだった。そのままくるりと背を向け、洞窟から出ようとする。その後ろ姿を見た途端、エレオノーラの胸がきゅっと締め付けられた。
──折角友達になれると思ったのに。
胸中にわくのは一抹の寂しさ。と同時に、微かな怒りの気持ちもわいてきた。こちらは一生懸命歩み寄ろうとしているのに、一向に振り向いてくれない彼に業を煮やし、エレオノーラはびたんと尾ひれで地面を叩いた。
「もうっ! どうしてあなたはいつもそんな態度なの! 私のことが嫌いならここに来なければいいじゃないのっ!」
エレオノーラの大声に、ギルバートが驚いた顔で振り向き、その灰色の瞳を大きくする。
「はぁ!? 別にお前に会いたいから来てるわけじゃなくて、レオード先生の手伝いに来てるんだよ! うぬぼれんな!」
「でも、あなたは別にそんなにお手伝いしてないじゃないの! いつもお外で治療が終わるのを待ってるだけだわ!」
「なんだと! 魚のくせに、お前生意気だな!」
「魚!? 人魚は魚じゃないわ! あなたとっても失礼ね! ちゃんとごめんなさいして!」
「まぁまぁ、君達落ち着いて」
ぎゃあぎゃあと言い争いをする二人に、レオードが優しく諭す。だが、二人の口論は止まらない。
「私、あなたのこと嫌いだわっ!」
「俺だってお前みたいなやかましい女は嫌いだよ!」
二人の声が洞窟に響き渡る。ひとしきりぎゃあぎゃあと言い合った後、二人揃ってプイと横を向く。
この後数年に亘って交流の続く二人の最初の出会いは、最悪なものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます