第5話 人間になる薬

 海の水に光が溶け込んでいる。太陽が上ったのを感じて、エレオノーラはぱっちりと目を開けた。隣を見ると、シェルはまだ横たわったまま目を閉じてスヤスヤと眠っている。エレオノーラは小さな友達を起こさないように起き上がると、スイッと泳いで大貝の外へ出た。

 水中を泳ぐ鮮やかな色をした小魚達と、絨毯のように敷き詰められた珊瑚。見慣れた、いつも通りの海の光景だ。

 シェルに二人のことを話したせいか、昔の夢を見ていた気がする。自分がまだ幼い少女であり、彼らと出会ったばかりの頃の記憶だ。海の中を泳ぐ魚達をぼんやりと眺めながら、エレオノーラは無意識のうちに自身の唇に指をあてた。

 初めてのキスの思い出は未だにエレオノーラの胸を高鳴らせる。今は自分の気持ちに答えてくれないエドワルドだが、少なくともあの時の彼はエレオノーラに好意を持っていたはずなのだ。たった一度のキスにこれほど未練がましい気持ちを抱いている自分が恥ずかしくなるが、恋心とはそういうものなのだから仕方がない。


(王子様に恋をしていた人魚姫も同じ気持ちだったのかしら)


 美しい尾ひれをくゆらせながらおとぎ話に聞く人魚姫に思いを馳せる。恋に悩むと、エレオノーラはいつも人魚姫のことを考えていた。自分と同じように人間の王子に恋をし、哀しい運命をたどった人魚姫。苦しかったであろう彼女の境遇を思うと、エレオノーラの心はぎゅうと締め付けられた。

 脳裏に、幼い自分の声が甦る。


 ──ねぇおかあさま。どうして人魚姫は泡になって消えてしまったの?


 初めて人魚姫の話を聞いた時、エレオノーラはウミヘビにすがりつくようにして質問した。優しい彼女が幸せになれなかったことが悲しくてたまらなかったのだ。王子様は自分の命を救った人魚姫ではなく、人間の女を選んだ。恋心を秘めながらも愛し合う二人の姿を見ていた彼女は、海に身を投げた時に何を思っていたのだろうか。

 だが、育ての親を含めウミヘビ達の言葉は辛辣なものだった。


 ──人魚姫はバカな女だよ。人間の男に恋をして、無駄に命を散らして。

 ──そのせいで私達が面倒なことを抱え込むことになったんだよ。私のばあさんが人魚姫の為に海の精霊と取引なんてしちまうから。

 ──今度生まれた人魚がこの子かい? 面倒だが、捨ててもまた生まれてくるんだから育てるしかないねぇ。


 エレオノーラが人魚姫のことを話すとウミヘビ達は口々に彼女をののしった。そのことが悲しくて、エレオノーラは誰にも人魚姫の話をすることができなかった。だが、それでもいつか彼女と同じように人間の姿になって地上へ行くことをずっと夢見ていた。

 海の世界は一人で生きていくには広すぎる。幼いエレオノーラはその小さな胸に小さな願いを秘めていた。

 その望みが大きなものに変わったのは、エドワルドに恋をしてからだ。大人になった今、エレオノーラは人間になることができる。だがその決心がつかなかったのは、ひとえにエドワルドが一向に自分の気持ちに答えてくれる素振りを見せてくれなかったからだ。


(エドワルド様……私のことをどう思っているのかしら)


 ぼんやりと水中にたゆたいながら優しげな顔を思い浮かべる。彼がいつも煮え切らない態度をとるのはやはり種族の壁があるからだろう。だが、彼と同じく人間の体を手に入れられればどうだろうか。

 自身の唇に手をやり、そっと目を伏せてそのまま記憶の海に沈む。脳裏に浮かぶ優しげな少年が、凛々しい顔をした美青年の姿に変わった。

 エレオノーラはしばしの間海中にたゆたっていたが、やがてパッチリとした深青の瞳を開き、意を決したように尾ひれをなびかせて海の中を進んでいった。


 明るい色をした海の中を泳いでいくと、視線の先に岩で出来た塔のようなものが見えてきた。山のように高く、ここら一体では最も巨大な建造物だ。所々に大きな穴が開いており、そこから何匹ものウミヘビが出たり入ったりしている。エレオノーラは最上階まで泳いでいき、てっぺん付近の穴から中へ入った。

 中は簡素な部屋になっていた。海草が敷き詰められた寝台と、岩でできた机と椅子がちょこんと置いてあり、その椅子にウミヘビが腰かけていた。

 上半身は人間の体をしているが、下半身はヘビのようになっており、その体は黒と白の斑模様で彩られている。背中まである艶やかな黒髪を水中にふんわりと広げ、は虫類を思わせる細い瞳孔と金色の瞳はどこを見ているのかぼんやりと水中をさ迷っていた。まだら模様の体をとぐろを巻くように折りたたみ、尾の先を水中にくゆらせている。


「おかあさま」


 エレオノーラが呼び掛けると、ウミヘビはゆっくりとこちらを向いた。見た目は若い女の姿だが、何百年もの歴史を見てきたその金色の老獪な目が真っ直ぐにエレオノーラを捉える。


「なんだ」


 少し低めの、しゃがれた声だった。育ての親と言えど、エレオノーラは未だに彼女とうまくしゃべることができない。エレオノーラはきゅっと両手を胸の前で握ると、彼女の金色の瞳をしっかりと見つめた。


「おかあさま……私、人間になりたい」


 意を決して放ったエレオノーラの言葉を、ウミヘビはじっと聞いていた。その射るような鋭い視線からは何の感情も読み取れない。叱られることを見越してエレオノーラはぎゅっと目を瞑るが、ウミヘビは何も答えなかった。

 もう一度彼女を仰ぎ見ると、ウミヘビは何かを考え込むように顎に手を当てていたが、やがてとぐろをほどき、部屋の後ろに備え付けられている飾り棚の方へと泳いでいった。

 飾り棚に手を伸ばし、手の中に収まってしまいそうな程に小さな瓶を取ると、エレオノーラのもとへスイと泳いでくる。小瓶を手渡されたエレオノーラはしげしげとその瓶を眺めた。

 何の変哲もない、空っぽの瓶だ。彼女の意図がわからず、困ったようにウミヘビを見上げると、ウミヘビは無表情で瓶を指差した。


「今から海の精霊と契約をするんだ。お前が人間になりたいと願うなら、精霊に向かって祈りをこめろ。なぜ人間になりたいのか、その理由をしっかりと祈りにのせるんだ。そうすれば、海の精霊はお前に力を与えてくれる」

「本当ですか?」


 驚いて聞き返すと、ウミヘビは無言で頷いた。あまりにもアッサリと希望を聞いてもらえたことに戸惑っていると、ウミヘビが射るような目でエレオノーラを見る。


「どうした。やらないのか」

「いえ……その、叱られると思ったものですから」


 おずおずと答えると、またもや椅子の上にとぐろを巻いて座ったウミヘビがプカリと泡を吐く。


「大貝から生まれる人魚は、皆人間になりたがる。私のおばあさまが初めて人魚を育てたその日からもうずっとそう決まっていることだ。だからお前にもこの日が来るというのはわかっていた」

「そうなんですか? 私、望んではいけないことなのだとばかり……」

「詳しいことは知らぬ。だがそういうものなのだ。私はおばあさまに言われた通り、大貝から生まれた人魚を育て、人間の世界へ送る。そこで私の役目は終わりだ」


 ウミヘビが抑揚のない声で言葉を紡ぐ。やっと面倒ごとから解放されたと言わんばかりの態度に少しの切なさを覚えたが、もとより彼女から肉親の情を受けたことはない。エレオノーラは瓶をしっかりと両手で握りしめると、静かに目を伏せた。

 頭の中で想い人の姿を思い浮かべる。蜂蜜色の金髪と優しそうな新緑の瞳。彼の隣にずっといたいと願いを祈りにこめると、ほんの一瞬だけだが、あの冷たい灰色の瞳を持つ彼の顔も脳裏によぎった。

 祈りを終え、静かに目を開ける。手の中の瓶は何も変わっていなかった。

 否、次の瞬間には目の前にふわっと真珠色の光が現れ、海の水に溶けるかのように左右に光を散らす。あっと声をあげる前にその温かい光は螺旋を描き始め、まるで小さな竜巻のように瓶の中にしゅるりと収まった。

 いつの間にか手の中の小瓶には、真珠色の液体が入っており、揺らすと微かにちゃぷんと水音がする。驚いてウミヘビを見ると、彼女は鷹揚に頷いた。


「その薬を飲めばお前は人間になれる。ただし、薬の期限はお前がそれを飲んでから一年だ。冷たい海の氷が溶け、海に花の匂いが混じるようになるまでにお前が想い人と結ばれなければ、お前は泡になって消える」

「……昔おかあさまから聞いたお話と一緒ですね」


 エレオノーラは瓶に視線を落とし、真珠色の液体をしっかりと見据える。それは、幼い頃から聞かされていた人魚姫のお話と同じだった。

 人間の王子に恋をし、声と引き換えに人間になった人魚姫。愛ゆえにその身を海に投げ入れ、泡となって消えた哀しい哀しい乙女の物語。

 ウミヘビがエレオノーラの手から瓶を取り上げ、瓶の上についている小さな輪に細い鎖を通す。再度それをエレオノーラに手渡しながら、ウミヘビは口を開いた。


「お前がもし想い人と結ばれないと悟ったのなら、そいつを殺せ。そうすればお前は人魚に戻れる」

「……それもわかっています」


 ウミヘビの言葉に、エレオノーラは静かに返した。

 想い人と結ばれなければ泡になって消える。人魚に戻りたければ想い人を殺す。一度この薬を飲めば、愛する人と結ばれるか殺すかの二択を迫られるのだ。使う時期は慎重に見分けなければならない。

 鎖を首にかけ、瓶を喉元にくるように調節していると、横でウミヘビが大きなため息をついた。


「一体いつからこんなことになったのかわからないけど、面倒なことだ。私はこれを人魚姫の呪いだと思っているよ」

「呪い?」

「ああそうさ。王子を人間の女に取られ、嫉妬に狂ったまま海に身投げした人魚姫の無念がこの現象を生み出したに違いない。大貝から生まれる人魚に、自分と同じ道をたどらせる為にね」

「彼女がそんな悲しいことを願うのでしょうか」

「さあ知らないね。だが、これだけは言わせてもらうよ。その薬を飲んだ人魚は、誰一人として二度とこの海には戻ってこなかった。皆泡になって消えちまったよ。お前も死にたくなければ、軽々しくその薬を口にするんじゃないよ」


 ウミヘビの言葉に、エレオノーラはゆっくりと頷いた。そしてウミヘビに礼を言うと、尾ひれをくゆらしながら静かに部屋を出ていった。

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