第7話 嵐
先程まで晴れやかな天気だった海が、一瞬で灰色の荒れた世界に変わるのは海で生きるもの達の常識だ。だが、おそらく人間達はこの些細な変化に気づけないだろう。
エレオノーラは懸命に尾ひれを動かし、船着き場の支柱が見えた途端にざぶりと水面にあがる。──だが、遅かった。船はとっくに船着き場を離れ、その豪奢な乗り物はもうエレオノーラの目には点のようにしか見えなくなっていた。
(沖に出てはダメ!)
エレオノーラはもう一度海の中に潜り、船を目指して大急ぎで追いかけていった。だが、さすがに人魚と言えど大型の船に追い付くことは容易くない。そうこうしているうちに、いつの間にか空は厚い雲が覆いはじめ、波も次第に荒いものとなっていく。
天候の異変に気付いたのか、前を走る船の速度が目にわかるほど落ちた。息をつく暇も無いほどのスピードで泳ぎ、エレオノーラが船に追い付いた時には、空はすっかり灰色になり、高い波が船縁を殴り付けるほどになっていた。
甲板に出て険しい顔で海を見ているエドワルドと、
「エドワルド様! ギルバート! もうすぐ大きな嵐が来るわ! 今すぐに陸に戻って!」
大きな声で叫ぶ。だが、その瞬間、厚い黒雲を引き裂くように雷が落ちた。続く轟音。みるみるうちに空は真っ黒になり、バケツをひっくり返したかのような雨が天から降り注いだ。大粒の雨は横殴りに船を打ち付け、船が大きく揺れる。
「殿下! 早く船内へ!」
ギルバートの声がする。だがその瞬間に雷が轟き、大波が船を襲った。大きく弧を描いた波は船を飲み込み、船はおもちゃのように
「エドワルド様!!」
エレオノーラが悲鳴をあげ、船の近くまで駆け寄る。雷の音と共に、船員達の悲鳴や叫びが耳を
水面に叩きつけられた船は
エレオノーラの視界の端に、蜂蜜色が映った。間髪入れずにそちらに向かって泳ぐと、折れたマストに捕まりながらエドワルドを抱える護衛の姿が目に入った。
「ギルバート!」
慌ててギルバートのもとへ駆け寄る。彼の腕に抱えられているエドワルドは意識が無いのか、ぐったりとギルバートにもたれかかっていた。エレオノーラの姿を見たギルバートの瞳が大きく開く。
「エレオノーラ!」
「私が安全な場所に連れていくから、もう少し頑張って」
そう言うと、エレオノーラは尾ひれを大きく動かしながら二人が捕まっているマストを引っ張り始めた。だが、大の男二人に加え、水分を多く含んだ服の重みも相まってなかなか前へ進んでくれない。
どうしようかと戸惑っていると、逃げ遅れたのか一匹のカメが波に飲まれるようにして泳いでいるのが見えた。
「カメさんお願い、手伝ってちょうだい」
エレオノーラが話しかけると、カメは頷き、ざぶりと波をかきわけるようにしてこちらへやってくる。そのまま彼はギルバートの隣まで泳いでくると、マストに噛みついてグイと前に押した。
男二人を乗せたマストは軽々と前へ進んでいく。ギルバートが目を丸くしているうちに、エレオノーラもマストを引っ張り、陸を目指して泳ぎ始めた。
本当は他の乗組員達も助けたかったが、非力な自分では彼ら二人を助けるだけで精一杯だ。心の中で人間達に詫びると、エレオノーラはマストを引っ張りながら嵐の海の中を進んでいった。
幸い、出発して間もなかった為か、ここからでも陸地が肉眼でハッキリ見えている。だが、まだまだ陸地の建物が小さく見えるくらいには距離があった。
エレオノーラとカメ、そしてギルバートも必死で泳ぐものの、エドワルドを抱えながらである為が遅々として進まない。
そうこうしているうちに、ギルバートの腕の中にいたエドワルドの重みがズシリと増した。激しい荒波と冷たい水温が彼から体力を奪い、とうとう力尽きたのだ。
「殿下! お気を確かに!」
ギルバートが必死で呼び掛けるも、意識を手放したエドワルドはピクリともしない。歯を食い縛って冷や汗をかいているギルバートを見て、エレオノーラも彼らに時間が無いことを悟った。
「こっちに来て」
ギルバートに声をかけ、グイと左の方向に向かって泳ぎ出す。ギルバートもエレオノーラに誘われるがままに進む方向を変え、懸命に足を動かしてついていった。
数時間ほど泳ぎ続けると、やがて海から突き出たかのようにそびえ立つ岩が見えた。山のように大きな岩だ。エレオノーラは迷わず岩へ向かって泳ぎ、岩と岩の間にある大きな隙間の前で止まった。
「カメさんありがとう。もう大丈夫よ」
エレオノーラが声をかけるとカメはコクリと頷き、そのまま海中へ潜っていく。カメが消えていく様子を見届けると、エレオノーラはゆっくりとギルバートの側に寄り添った。
「とりあえずこの中に入って」
ギルバートが頷き、再び足を動かしてマストを前へ進める。そうやって三人は岩の隙間から中に入った。
巨大な岩の中は洞窟になっていた。かつてエレオノーラが彼らに助けてもらった洞窟よりは小さいが、雨風を凌ぐには十分すぎる空間だ。
エレオノーラは洞窟の中にある一際大きな岩までたどり着くとマストから手を離した。
嵐で海面が上昇している為か、岩と水面が同じくらいの高さになっている。
ギルバートが岩に両手をつき、ザバリと音を立ててその上にあがる。そのままマストにぐったりともたれかかるエドワルドの腕を掴むと一気に岩の上に引き上げた。
ギルバートがエドワルドの体を地面に横たえ、胸に耳をあてる。規則正しく動く心臓の音に安堵し、ギルバートは大きく息を吐いた。だが固く閉じられた瞼は開かず、手足も氷のように冷たい。
ギルバートは迷うことなく自分の上着を脱ぎ捨て、シャツ一枚の姿になると、その上着をエドワルドの体にかけた。
「何をしているの?」
「体が冷えすぎている。このまま体温が下がれば殿下の命が危ない」
「そんな……!」
エレオノーラも慌てて岩の上にあがり、這うようにしてエドワルドのもとへ寄り添う。
蜂蜜色の金髪は水に濡れて肌に張り付き、顔は真っ青で血の気がない。そっと手を握ると、体温を奪われたそれは氷のように冷たかった。
「とっても冷たい……ギルバート、エドワルド様を助けるにはどうしたら良いの?」
「まずは救援を呼んでもらうしかないな。だがすぐには無理だ。おそらく船が到着しないことに気付いた先方の国の者がこちらに連絡をやり、そこで初めて我が国の王は船が難破したことに気付く。事態が判明するのは一ヶ月後か……二ヶ月後か……下手をすると数ヵ月はこのままかもしれない」
「そんなに遅かったらエドワルド様が死んでしまうわ!」
エレオノーラが悲鳴をあげると、ギルバートが痛ましそうな顔でギリッと歯噛みする。
「ひとまず、体力を温存することが先だな」
そう言うとギルバートはエドワルドの側に膝をつき、「失礼します」と一言述べてエドワルドの体から一枚ずつ丁寧に衣服を脱がしていった。
脱がせた衣服を畳んで両腕でねじると、大量の水分を吸った衣服から水がザバザバと滴り落ちる。何度か絞り続け、水が出なくなると同時に、また彼はエドワルドに服を着せていった。
「濡れた衣服は体温を奪う。あまり効果はないかもしれないが、せめてもの気休めだな」
再びエドワルドに服を着せ終わったギルバートが青い顔でため息をつく。
だが、やはり湿った衣服は弱った体からどんどんと熱を奪っていくようだ。地面に横たわったエドワルドは、微かに呼吸はしているものの、ピクリとも動かない。人間のことはよくわからないエレオノーラにとっても、この状況が絶望的であることは理解できた。
「ギルバート、エドワルド様の手は冷たいままだわ。彼はどうなってしまうの? このまま死んでしまうの?」
「そんなことは俺がさせない」
エレオノーラの言葉に、ギルバートが力強く言い切る。彼は意を決したようにエレオノーラを見据えると、着ていたシャツを脱ぎ捨てた。鍛え上げられた半身が露わになる。
エレオノーラが成り行きを見守っていると、ギルバートがまだ濡れた上着を肩に羽織り、エドワルドのシャツのボタンを急いで外していく。そのまま彼の体を抱き寄せると、肌を合わせるようにしっかりと両腕で抱いた。
「何をしているの?」
「殿下は弱りきっている。少しでも熱を逃がさないようにするには人肌で温めるのが一番だ」
「でも、そんなことをしてギルバートは平気なの?」
涙混じりの声で絞り出すように吐き出す。いつの間にかボロボロと泣いていた。
ギルバートの近くに寄り添い、エドワルドを抱く逞しい腕に手を添えると、その体は冷えきっていて一切の熱を感じられなかった。
「ギルバートだって冷たいじゃないの! こんな無茶をしていたら、あなただって危険よ」
「俺は鍛えているから大丈夫だ」
「嘘よ! そんなことをしたら今度はギルバートが死んじゃうわ」
真珠のような涙をこぼしながらギルバートの腕をぎゅっと掴むと、彼がエレオノーラを見てふっと微笑んだ。
「お前は俺のことが嫌いなんじゃなかったのか?」
「今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょ! ばか!」
目尻の涙をぬぐって、ギルバートの灰色の瞳をキッと睨み付ける。次の瞬間には地面に脱ぎ捨ててあるギルバートのシャツを掴むと、エレオノーラは海に飛び込んだ。
「私が助けを呼んでくるわ」
「何だと!? この嵐の中を進むのはお前といえど危険だ、エレオノーラ。戻れ!」
「だってそうしないと二人とも死んじゃうもの。そんなの私は嫌!」
そう叫ぶと、ギルバートの引き留める声を後に、エレオノーラは水の中へと姿を消した。
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