第8話 人間の世界へ
エレオノーラは嵐の海の中を懸命に泳いでいった。大波によって激しくかき混ぜられた海の中は、いつもの透き通るような青から泥沼のような灰色に変わっていた。エレオノーラは海底付近まで沈み、大波の影響を避けながら前へと進んでいく。
ある程度の距離まで進むと、エレオノーラはザバリと海面から顔を出した。視線の先に人間達が住む陸地が見える。その深青の瞳は、一際小高い場所にある海沿いの白い建物をしっかりと捉えていた。
――僕は海の近くの診療所にいるんだ。僕の診療所からは海がとても綺麗に見えるから、きっと君の姿もすぐに見つけられるはずさ。会いたくなったらいつでもおいで。
遥か昔に自分を助けてくれたレオード医師の言葉が甦る。あそこまでたどり着けば、あの優しい医者はきっと助けを呼んでくれるに違いない。頬を伝う涙をグイと拭うと、エレオノーラは再び海底へと潜っていった。
猛スピードで泳いだので、診療所がある丘まではすぐにたどり着いた。海面から顔を出して見上げると、海に面した建物の壁に窓が備え付けられているのが見えた。エレオノーラは丘のすぐ側まで近づき、大きく両手を振る。
「レオード先生! いらっしゃいますか!」
声を張り上げて叫ぶが、横殴りの雨と鋭い風がエレオノーラの声を容易く飲み込んでしまう。声が枯れそうになるまで叫ぶが、診療所の窓が開く気配は一向にない。エレオノーラの胸を焦燥感が支配する。
(どうしよう……このままではエドワルド様が……!)
いや、エドワルドだけではない。自分の命の危機を省みず、体を張って主君を守ろうとするギルバートの姿が脳裏に甦る。平静を装っていたものの、彼の体も氷のように冷えきっていた。下手をすると、エドワルドよりギルバートの方が命が危ないかもしれない。
エレオノーラの胸が恐怖と不安で張り裂けそうになり、思わずポロリと涙がこぼれ落ちた。ギルバートのことは嫌いなはずなのだが……それでも死んでほしいなんて思ったことは一度もない。あの二人はエレオノーラにとっては何よりも大切な友人なのだ。
エレオノーラは再度海へ潜り、今度は陸地までたどり着く。雨にぐっしょりと濡れた砂浜に体を横たえ、持ってきたギルバートのシャツを地面に置いた。
鎖のついた小瓶を首からはずし、両手でしっかりと握りしめると、まるで祈りを捧げるかのように静かに目を伏せる。そして深青の目をしっかり見開き、決意を固めるとエレオノーラは瓶の中身を一息に呷った。
液体が喉を滑り落ちる感覚がする。と同時に激しいめまいに襲われ、エレオノーラは地面に両手をついた。頭が割れそうに痛い。視界に
どれくらい気を失っていたのだろうか。突如覚醒し、エレオノーラは青い瞳をパチッと開けた。
慌てて身を起こして周りを見回すと、灰色の空と荒れた海が視界に映る。倒れていたのはそれほど長い時間ではなかったようだ。
身をよじろうとして、下半身がいつもと違う感覚であることに気づく。ハッとして視線を落とすと、見慣れた鱗の尾ひれではなく、そこには白い滑らかな肌で覆われた二本の足があった。
エレオノーラは暫し呆然としてその二本の足を眺めていた。
そっと力をいれると、エレオノーラの意思に従って足が動く。そのままゆっくりと足を地面につき、エレオノーラはフラフラと立ち上がった。
今までとは違う下半身の感覚や開けた視界に頭が追い付いていない。だが、今の自分に迷っている暇は無いのだ。
エレオノーラは持ってきたギルバートのシャツを羽織ると、丘の上にある診療所を目指して静かに歩き出した。
診療所の白い建物までたどり着くと、エレオノーラは建物の周りをぐるりと回った。
人魚やウミヘビのすみかのように、中に入る為の隙間を探すも、それらしきものは見当たらない。建物は一面白い壁に覆われていたが、一ヶ所だけ焦げ茶色の板がはまっている場所がある。後にそれは「扉」だと言うことを知るのだが、エレオノーラはわからないままその板をこんこんと叩いてみた。
「はぁい」
中から女性の声が聞こえ、かちゃりと微かな音を立てて板──建物の扉が開く。
中から出てきたのは若い女性だった。栗毛の髪を肩で切り揃えており、垂れた目尻が柔らかい雰囲気を醸し出している。女性はエレオノーラの姿を見て一瞬その美貌に見とれるも、あられのない格好をしている女の姿を見てハッと目を見開いた。
「どうしたの! 何か酷い目に遭ったのね? 怪我はない?」
「いえ……大丈夫です。あの、私はレオード先生に用事があって来たのですが、いらっしゃいませんか?」
「レオード先生?」
女性が首を傾げる。どうやら間違った場所に来てしまったようだ。だが青ざめたエレオノーラが踵を返そうとしたその時、女性の背後で足音が聞こえた。
「父は三年前に死んだよ」
男の声が響いた。声がした方に目を向けると、眼鏡をかけた男が腕組みをしながら別の部屋から出てきた所だった。騎士のように鍛えあげられた体付きではないが、それなりに引き締まっており、背も高い。短く切られた薄墨色の髪と黒色の細縁眼鏡に見覚えがあるものの、記憶の中の彼とは違うようだ。
エレオノーラの青い瞳が青年の姿を捉える。
「あなたは……?」
「僕はレオードの息子のキース・ユリベルクだ。父に何か用でも?」
「レオード先生は亡くなったのですか?」
一縷の望みを絶たれたエレオノーラは顔を覆って泣き始めた。友を失うかもしれない恐怖と彼らが無事でいるかわからない不安が胸中を満たし、エレオノーラの心を締め付ける。
「どうしよう……このままじゃエドワルド様が……ギルバートが死んじゃう……」
「エドワルド様? ギルバート?」
キースの鋭い声が飛んだ。厳しい視線でエレオノーラを見ていたキースが、腕をほどいて近づいてくる。
「エドワルドというのは第一王子殿下のことか!? 何があった!」
キースの紫の瞳が鋭く光る。エレオノーラは涙ぐみながらも、彼にすべてを話した。
王子殿下が乗った船が嵐に巻き込まれて転覆したこと。
なんとか海の真ん中の洞窟までたどり着き、そこに二人がいること。
エドワルドが気絶しており、彼を死なせない為に護衛の男が命がけで王子に寄り添っていること。
エレオノーラが話をしている間、彼は値踏みするかのようにエレオノーラを見ていた。なんとか話し終わると、キースがゆっくりと口を開く。
「なるほど、事情はわかった。いくつか疑問に思うところはあるが、今はそんなことを言っている場合ではないな。マリー、今から僕は王宮に行く。兄さんに話して救援を出してもらうように要請するよ」
「ええ、わかったわ。仕度をしましょう」
「この子を見ていてやってくれ。ひどく疲れている顔だ」
マリーと呼ばれた女性が頷き、エレオノーラを部屋の奥へ連れていく。すぐさまキースも外套を羽織り、雨の中へ飛び出していった。
マリーは部屋の一室にエレオノーラを案内し、ソファに座らせるとシャツを脱がせて新しい青色の衣服を着せてくれた。下にいくにつれてふんわりと広がっており、裾が床に届くくらいに長い丈の服だ。初めて見る人間の洋服に見とれていると、マリーが温かい茶色い液体をいれたカップを差し出す。
「心配しないで。あの人は王宮につてがあるから。あの人のお兄様が王宮侍医なのよ」
「王宮……侍医」
それはかつてレオードの口から聞いた言葉だ。マリーの目を見ながらポツリと呟くと、マリーが優しく微笑んだ。
「王様に仕えるお医者さんということよ。ユリベルクの家は代々その役を担っているらしいの。その役目はお兄様が継いだけど、あの人も腕は確かなお医者さんよ。少しだけ変わり者だけど」
そう言ってマリーがクスクスと笑う。おっとりとした雰囲気だが、思いやりのある優しい女性だ。
カップに何度か口をつけている間に、エレオノーラの心も少しずつ落ち着いてきた。と同時に、体が氷のように冷えきっていることに気がついた。人魚の時は気にならなかったが、人間の体は些細なことでも簡単に熱を失うのだ。
カップで両手を温めながら、エレオノーラは窓から見える陰鬱とした灰色の世界をずっと眺めていた。
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