ドンとグリ(ノベルバー2021)
伴美砂都
ドンとグリ
改札の向こうで大きく手を振る妹は、ショートボブの金髪になっていた。改札といっても二つしかないし、相変わらず無人駅だ。私がこの駅を使っていたころは、ワンマン電車の運転手さんがわざわざ一度電車を降りて検札していた。いま改札があるところには、「不要切符入れ」と時代がかったフォントで書かれた金属の箱が柱にくっついていて、ときどき地元のヤンキーが煙草の吸殻をそこへ入れた。
「
「え?ボルダリングのジム、楽しいよ」
「……、そっか」
この小さな町にボルダリングのジムなんてものがあるんだと思ったら小さな驚きで、けれど自分の身体ひとつで高い壁をのぼって行くボルダリングは、希月に似合っていると思った。
「なんで?」
「いや……すっごい金髪だから」
「なにそれ、なんかお姉らしいね」
「そう?」
「お姉も髪染めたら?無職のうちに」
「無職って言わないでよ」
「いいじゃん、自由だよ」
「……、そうだけど、さ」
希月の隣には古びたカーキ色の軽自動車があって、そうか、希月は車を運転できるんだと思った。それはそうだ。この町で暮らすなら、必要だろう。助手席には巨大なペンギンのぬいぐるみが鎮座していた。律儀にシートベルトまでしている。
「ごめん、それ後ろにどかして座って」
「ベルトもしてるの」
「なんか座ってる認識されるらしくて、ベルトしないとへんな音鳴るんだよね」
シートベルトの警告音はちゃんと搭載されているのに、中古で買ったのだという車はシートがぺたんこで、エンジンをかけるとボボボとけたたましい音を鳴らした。
「どっか寄るとこある?」
「……、」
まあたらしく塗り替えられた郵便ポスト、変わらない、色褪せた屋根の自転車置き場。道を挟んですぐ向かいに一軒だけあった喫茶店の扉に、はっきりとは見えないけれど、おそらく閉店の貼紙が貼られているのを横目で見て過ぎる。ゆるやかなのぼり坂。向こうのほうへ行けば、子どものころよく通った歯科医院が、まだあるだろうか。
図書館行きたいな、と言うと希月は、ええ、と大袈裟にびっくりしたような声を上げた。
「寄るってそういうこと?……いいよ、行こっか図書館」
「や、いいよ、べつにそれこそ今日じゃなくても」
「えー、いいよ、あたしもずっと行ってないし、行こうよ図書館」
国道へ出るとき希月が左にウインカーを出したのを見て、あ、そうだよな、と思った。ここで右へ折れて、実家と反対側へ十五分ほども行けば、市立図書館の本館がある。でも私たちにとって図書館といったら、家から車で数分の、坂の上の細い道のところにある小さな分館なのだ。幼いころ母の運転する車で、よく連れて行ってもらった。言わなくてもわかるって、知っていた。
国道沿いはむかしよく行ったスーパーがもう無くて、ニトリとマクドナルドと家電量販店が並んでいる。うるさいなあと思いながら前を通っていたパチンコ屋さんは、まだある。
図書館へ行く道は本当に細くて、私がもし車に乗るようになったとしても、ひとりでは来られないかもしれないな、と思った。何年も必死で仕事だけしてきて、できるようになったことは、なんだろう。少し窓を開けて、息を吸って瞬きをした。
土地が狭いからか駐車場は二つに分かれていて、図書館の入り口に近いところはいっぱいだった。裏手の少し離れた場所にある、第二駐車場の看板があるところへ希月はスムーズに車を入れる。ペーパードライバーの私は、下手に声を上げたら駐車し損ねるんじゃないかと思ってしまって、必要以上に息を詰めた。
第二駐車場から図書館までは、両脇に街路樹が植わっている、赤っぽい色の遊歩道だ。赤っぽい、というのは相対的なもので、本当は、色あせたれんがに霞がかった、みたいな色味なんだけど。子どものころは、もっと鮮やかだったかもしれない。細かいところまでおぼえているわけではないのに、懐かしさは鮮明で、胸がどきどきする。隣を歩く希月は、私よりもはしゃいでいるようだった。
「えーやばい、すっごい懐かしい、この風景」
「そうだね」
「図書館さ、よく来たよね、お母さんと」
「うん」
「お父さんと行くときは本館だった」
「たしかに……お母さん、昔から運転苦手っていうわりに、この坂よくのぼってきたよね」
「言われてみれば本館のほうが運転して行きやすそうだもんね」
晴れている。秋の空だ。ひんやりとした風が時折吹くけれど、まだ日が高いからか、寒くはない。ぽおんと高い空に、うろこ雲が薄く、向こうのほうまで続いている。樹はずっとこの大きさだったろうか、いや、私たちも大きくなったのだろう。木漏れ日に、振り返った希月の髪がきらっと光る。
「ね、あの本とかまだあるのかな、なんだっけ、えっと……ドンとグリみたいな」
希月のあっけらかんと笑う顔は、幼かったころと変わらない。そうだ、あのころも、こうやって一緒に歩いた。
「いや、……どう考えても『ぐりとぐら』でしょ」
おなかの中から可笑しさがこみ上げてきて、私は遊歩道の真ん中に立ち止まって大きな声で笑った。笑って笑って、涙が出ても、まだ笑った。つられたように希月も笑い出す。
「ドンじゃなかったっけ」
「ちがう、絶対ちがう、なにその無駄に強そうなの」
ふたりでひとしきり笑ってから、あ、どんぐり、とふいに希月が言った。街路樹は、どんぐりの成る樹のようだ。よく見ると歩道のそこここに、まるいどんぐりが点々と落ちている。
「すっごい、めっちゃ落ちてる」
「帽子かぶってる、かわいい」
「ほんとだ」
「これがドン、こっちがグリ」
「やめてよ、笑わさないで」
「ドンだドン」
「もう」
持って帰りはしないとわかっていたけれど、いくつもどんぐりを拾った。根元にそっと並べておく。新しい芽が出るには、ここは少し狭いような気もするけれど。でも、できるなら、どこかで芽吹いてくれたらいいと思った。あ、これ双子だ、くっついてる、と言ってしゃがみ込んでいた希月が、ふっとこちらを振り返った。
「お姉」
「うん?」
「お姉、さ、大丈夫だよ」
「え、……、うん」
遊歩道を抜け、スロープをのぼる。第一駐車場からは階段のほうが早いけど、こちらから回ってくるときは、スロープのほうが近いのだった。
図書館の入り口は、おぼえているのと同じ佇まいだ。ひとつだけ手のひらに握ってきてしまったどんぐりを、すぐ横の植え込みのなかに、そっと置く。鼻の奥が少しつんとして、
ドンとグリ(ノベルバー2021) 伴美砂都 @misatovan
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