第4話 割礼の日

 息子が生後九日目の朝、私たち夫婦は娘を保育園に預け、息子と一緒にクリニックへ行きました。


 割礼かつれいを行うモーヘール兼医師の男性が、ニコニコと三人を迎え入れてくれます。割礼の手順や、手術のリスク、術後に気をつけないといけないことなど、一通り説明される中で「儀式の一環として、赤ちゃんにキッドゥーシュという甘いワインを飲ませます。赤ちゃんを落ち着かせる作用があります」と言われました。


「ええっと、それはアルコールがないワインなんですよね?」と、私がにこやかに質問すると、モーヘールさんと夫の呼吸が一秒ほど止まりました。キッドゥーシュ(Kiddish)はヘブライ語なので、英語と関係はないのですが、英語で「子ども」を意味する「Kid」という言葉で始まるので、なんとなく、シャンメリーのようなお子さま用ワインと思った私の、無邪気な質問です。


「はっはっは。ワインですからね、アルコールは入っております」と、その場を取り繕うように、モーヘールさんが笑いました。「まあ、そうなんですね。おほほほ」とモーヘールさんに笑顔を向けたあと、夫をチラ見します。表情筋は何一つ変えていないのに、夫には私の顔が般若の顔に見えたのでしょう。夫の笑顔も凍りました。


(生後九日の赤ちゃんにアルコールを飲ませるだとうっ?!)と私が思っているのが伝わったようで、「ええっと、生まれたばかりの赤ん坊に、アルコールを飲ませるリスクなどは……」と夫が質問しました。


 モーヘールさんはひざをポンと叩いて、「なるほど、ご両親のご心配もわかります。でも、ほんの微量ですから、大丈夫ですよ。何年もモーヘールをやっておりますが、キッドゥーシュで具合が悪くなった赤ん坊は一人もおりません。ほっほっほ」と快活に言われました。


「僕もやってもらったことだし、大丈夫だよ」と夫にはげまされ、モーヘールさんからも「極めてリスクの低い処置です。私には息子が三人いますが、三人とも割礼を受けていて、まったく問題なく成長していますよ」と念を押されます。


 うーむ。割礼の処置に関しては、事前に鬼のように検索し、医療系のちゃんとした記事などを見る限り、リスクはあまりないと納得していた私です。しかし、赤ちゃんにワインを飲ませることに関しては、初耳です。


(そういえば、昔のイギリスでは、赤ちゃんがぐずると、ブランデーをちょっとミルクに混ぜて飲ませてたって聞いたことあるな……)とロンドンのママグループで聞いた話を思い出しました。もちろん、今では絶対にダメだと言われますが、今の感覚ではありえないことをされた子どもも、案外普通の大人に育ってる例はよく見ます。


(微量だって言うし、一回だけだし、お医者さんが大丈夫って言ってるんだから、いっか)と了承しました。


 さて、儀式を始める前に、赤ん坊の健康状態を確認したいということで、診療室に通されました。


「ペニスの状態を確認しますので、オムツを取りますね」とモーヘールさんがオムツを取ると、なんと、そこにはホカホカ出したてのウンチ君が。モーヘールさんの笑顔が一瞬、う、と曇ります。ぅおおい、息子よ、タイミングが絶妙すぎる! 


「すみません。今、オムツ替えますね」とあわてて言う私を制して「いえいえ、大丈夫ですよ」と常備してあった大きめのコットンボールでお尻をぬぐうモーヘールさん。


(さすが三児の父。オムツ替えも慣れていらっしゃるんだわ)と私が感動したのも束の間、モーヘールさんの手つきがあまりにも悪い。


(息子さんたち、もう大きくなってるのかもしれないけど、『しばらくやってなかったから、やり方忘れた』てレベルじゃねぇな、コレ。オムツ替えは妻に丸投げしてきたタイプだな)と推測した私の心中に、いじわるな自分がムクムクと現れてきました。


 あなたの奥様のご苦労を、一度でも体験してみるがよい!


 新生児にしては、大きすぎるウンチ君の処理に悪戦苦闘しているモーヘールさんを、私はいかにも申し訳なさそうな顔をしつつ、内心ほくそ笑みながら見守ります。


「お尻ふき、出してあげたほうがいいんじゃないの? ていうか、やっぱりオムツ替えてあげたほうがよくない?」と夫にささやかれます。乾いたコットンボールでウンチを拭くのは至難の技なのです。知ってて黙ってたんだけどね、うはははは。


「『あの、やっぱり、オムツを替えて参りますね』とおずおずと申し出る人」の演技をしたところ、「いや、もう終わりましたから、新しいオムツをください」とさわやかに言われました。


 え? まだめっちゃウンチついてますけど? と疑問に思いつつ、新しいオムツを、差し出します。モーヘールさんは、まだきれいになっていない息子のお尻を、新しいオムツでぐるっと巻きました。私は、いまだかつてないほど大幅にズレているオムツのテープを見て、(この人信用していいのかなァ……)とにわかに不安になります。


 手術に立ち会うかどうか、事前に夫婦で話し合い、私は立ち会わないことにしていました。息子のムスコにメスが入れられるところを見て「イヤひぃぃぃ〜」なんて奇声を発して、モーヘールさんの手元を狂わせる懸念があったからです。


「じゃ、行ってくるよ」と夫に言い残され、息子は割礼の儀式用の部屋へ、モーヘールさんと一緒に連れて行かれました。もはや、割礼を受けるムスコのことよりも、ウンチくんがたっぷりのっかっているお尻のオムツかぶれのほうが心配で、居ても立ってもいられない私でしたが、手術は五分ほどで終了。こうやって、割礼の儀式はあっさりと終わりました。


 病院の中で速やかにオムツを替え、泣いている息子に授乳してから帰宅。痛がって、寝られないかもしれないと心配していましたが、まったく普段通りに昼も夜も眠ってくれました。


 それから一週間。術後の経過を見るため、息子のイチモツを写真に撮ってモーヘールさんに毎日メールするように言われておりました。ということで、息子の愛らしい寝顔や、当時二歳だった長女とのツーショットなど、きゃわいい写真あふれる私のスマホの中に、画面いっぱいに撮影された、ちんちんの写真がしばらく並びました。


 私の心配とは裏腹に、息子のちんちんはすぐに回復し、今ではもう六歳。毎日元気に走り回っています。


 私には姉がおり、姉にも息子がいるのですが、「男の子ってね、ちんちんの皮をむいてあげないといけないんだよ」と数年前に聞かされたことがあります。えー!? なんじゃそりゃ? どこをどうむくっていうんだ! といまだに想像すらできない私です。


 夫も息子も、ちんちんの皮をむかない人生を、密かに胸をはって歩んで行くのでしょう。


 

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