第3話 ユダヤ人のちんちんとプライド

 長女がお腹にいるときに、夫が言いました。


「生まれてくる子どもが男の子だったら、割礼かつれいしたい」


 ここで夫が言っている割礼とは、男児のペニスの包皮を切る、ユダヤの風習のことです。(注:このエッセイでは、女性器の割礼について言及していません)


私「割礼ってどうやんの?」

夫「ちんちんの先っちょの皮を、ちょっと切るだけだよ」

私「……痛くないの?」

夫「皮だけだもん。痛くないよ」

私「そうなんだ。じゃ、別にいいよ〜」


 てな感じで、あっさりと承諾していた私です。だって、夫の文化を尊重したいし。ちょっと皮切るだけで痛くないっていうし。  


 私たち夫婦は、妊娠中に赤ちゃんの性別を教えてもらわないことにしました。そして、最初に生まれたのは女の子。なので割礼の話は忘れ去られました。二人目を妊娠し、臨月も間近なころ。


「生まれてくる子どもが男の子だったら、割礼するんだよね」と、確認してくる夫。

「もちろん、いいに決まってるじゃん」と快諾する私。


 果たして、二人目は男の子でした。


 ユダヤ男子の割礼は、生後八日目にすることになっています。ユダヤの家庭では、割礼の儀式は親戚を呼んでお祝いするのが習わしです。日本でも、生後七日目は「お七夜」、生後一ヶ月目に「お宮参り」、生後百日目は「お食い初め」など、赤ちゃんの誕生と成長を、家族や親戚でお祝いしますよね。


 ま、そんなノリだと思います。シナゴーグというユダヤ教の会堂で行うこともあれば、自宅や実家で行うこともあります。皮を切る作業は、モーヘールという、割礼の訓練を受けた専門家がやります。モーヘールは専業でやっている人もいますが、たいていはユダヤ教の指導者であるラビや、医師や看護師や助産師などが兼業でやっているそうです。


 私たち夫婦は、息子の出産時、実家から遠く離れたロンドンに住んでいました(夫の実家はオーストラリア、私の実家は日本です)。さらに、私がユダヤ人じゃなく、ユダヤ人の親戚も近くにいなかったため、ユダヤの風習はいろいろと「なんちゃって」で済ましてきました。


 ということで、息子の割礼は、モーヘール兼・医師がやっているクリニックに行き、親子三人だけでちょちょいと済ませることになりました。


「生後八日目は空いてないっていうから、九日目に予約しといたよ」と夫。


 え? そこ、こだわんないの? 八日目じゃなくていいの? と夫の「なんちゃって」ぶりに驚きつつ、まあ、そんなもんかなと了承。


「モーヘールからのメール読んどいてね」と言われて、メールについていた資料などを読んだ私は驚愕しました。


 局部麻酔のクリームが使用されること。

 出血があること。

 感染症を防ぐために、手術後は二日ほどお風呂に入れられないこと。

 手術後、三日〜一週間は痛がる可能性があること。


 などなど「これ、めっちゃ手術じゃないですか?!」という情報が盛りだくさん。「ちょっと皮を切るだけ」と言われて、私は爪の甘皮をピッと切る感じを想像しており、メスを使うという発想がまったくなかったのです。


 自分の阿呆さにあきれつつ、私はそのときになって初めて、割礼についてパソコンで検索しまくりました。母親としては、生まれたばかりの我が子に痛い思いをさせるなんて、考えられません。痛いのはどのくらい痛いのか、どんなリスクがあるのか、そもそも、なんでこんな儀式があるのか、調べているうちに、インターネットでこんな一文を発見しました。


「ユダヤ人の男児は割礼を受けるべき、という伝統に反対の声もあり、最近では割礼を受けさせないユダヤ人も増えている」


 おお。やっぱり、赤ちゃんに痛い思いさせたくない親って私だけじゃないよね? そう心強く思い、夫に相談してみました。


「最近では、割礼をやらないで、赤ちゃんのお披露目だけするユダヤ人も増えてきてるって書いてあったよ。そういうのも検討してみない?」


 それを聞いた夫の顔色が変わりました。


「そんな中途半端なのはイヤだよ。ずっと前から確認してたのに、いまさら止めるとか言われても困るよ」と一気に険悪な雰囲気に。


 私は私で、「えー? だって、『ちょっと皮切るだけで痛くない』って言うから承諾してたけど、こんなちゃんとした手術だと知ってたら、あんなに軽く考えてなかったよ!」と怒り心頭です。


 この会話を皮切りに(割礼だけに)、大げんかに発展。私は「ユダヤの伝統や文化はできるだけ尊重したいけど、生まれたばかりの赤ちゃんに痛い思いをさせたくない。そもそも、敬虔なユダヤ教徒というわけでもないのに、割礼だけそこまでこだわる意味がわからない」という趣旨の主張を繰り返しました。それに対して夫は「痛いといっても、大した痛みではないし、赤ちゃんの時に受けさせるほうが、割礼の手術は圧倒的にリスクが少ない。むしろ、大きくなったとき、包茎や感染症になるリスクが下がるから、ユダヤ人じゃなくても、生まれてすぐに割礼を受けさせる人もいる」と応戦。


 そして何より「割礼してないちんちんなんて、僕の息子のちんちんとは認められない!」と熱弁。結局、大事なのはそれか〜い。


 後から考えてみれば、夫はどうしても割礼を受けさせたくて、私に反対される恐怖から、感情的になってしまったんだなと理解できます。一方、私のほうは、我が子を心配する母親としての自分の気持ちを、夫がまったく取り合ってくれないことに、猛烈に怒りを覚えました。


 で、やってしまいました……。頭にきて、いてもたってもいられなくなった私は、たまたま手に持っていたマヨネーズを、夫の顔に、ぶっちゅう〜っとぶちまけました。


 売りことばに買いことば、とありますが、売りマヨネーズには、やはり買いマヨネーズであります。マヨネーズを顔にかけられた夫は、私の手からマヨネーズを奪うと、私の顔にも、ぶちゅ〜っとマヨネーズをかけました。


 ちなみに、夫はキュー○ーマヨネーズの大ファンで、海外でも手に入ると知ってからは、我が家のマヨネーズは常にキュー○ーです。


 マヨネーズをかけられた私は、上着も持たずに家を飛び出しました。寒い中、近所を歩いていると、道行く人が、マヨネーズが髪の毛からセーターにまでついている私を、チラ見していきます。すーっと頭が冷え、「わたしら、なんてアホなんだろう……」と脱力し、自分の愚行に白目をきました。


 五分もたたないうちに、私は家に帰りました。


「いいよ。割礼、やろう」帰って早々に私が言うと、夫が叱られた犬のような表情になり、「マヨネーズ、かけてごめんね」と謝りました。

「ううん。私のほうこそごめん……」


 謝ってほしいポイント、そこじゃないんだけど……。でも、申し訳ないと思っている気持ちは伝わってきました。そして、一番伝わったのは、夫は、自分のちんちんを誇りに思っていて、息子にも同じちんちんを持ってほしい、と心から望んでいたことです。


 男性と、ちんちんと、プライドの関係、なかなか深いなと身に染みたのでした。


 次は、実際に割礼した日の話です。

 



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