II
チチチッ、と小鳥がさえずる音で目を覚まします。
ベッド脇の窓から朝日が布団へ差していました。
まだ眠たい瞼をパチパチと準備運動させながら、なまくらな体を起こすと、足の間の布団の上でヨーシカが寝息をゴロゴロとたてています。
起こさぬよう上手く布団から抜け出して、テーブルに置かれた水差しからコップと小皿へ水を注ぎます。少しこぼれてしまいましたがマトリは気付いていないようです。
「……こぼれてるよ」
「え、ああ。本当だ」
目を覚ましたヨーシカに言われ、シャツの袖でこぼれた雫を拭き取ります。
「さて、今日はいい天気だ」
「どうするの?ㅤどこか向かう先は決まっているのかい」
そう言われたマトリは言葉を返す代わりに、棚の上のガイドブックを開き、ヨーシカの目の前に持っていきました。
「ふーん。"この国の歩き方。まずは何も考えずに散歩に出掛けましょう。きっと素敵な出会いがあるでしょう"……わざわざ散歩に出かけろなんておせっかいなものだね」
「まあまあ。でも、郷に入っては郷に従え、と言うものだ」
「それで面倒に巻き込まれないなら、ね」
屁理屈をいう猫にマトリはニコニコと返します。
「退屈は猫を殺すものだよ」
「好奇心は、でしょ?ㅤ僕はまだ死にたくない」
「どっちだって正解みたいなものじゃない」
ヨーシカの態度をまるで気にしないみたいに、鏡台の前でマトリは櫛を髪に通していきます。強情な寝癖は頭皮ごと引っ張られ少し痛そうです。
ヨーシカはおろしたてのまっさらな靴下の様なその前脚で、綺麗に顔を整え、ざらざらとしたその舌で黒毛を艶々に仕上げていきました。
綿のシャツを革のズボンに突っ込んでベルトで締めて完成です。
「今日は髪を結わないの?」
「女の子にはそういう日があるものなんだよ」
「へえ、初めて知ったよ。マトリが女の子だってこと」
「口のきけない猫だったらかわいいやつなのにさ」
やれやれと両手をひらひらさせて、片目を閉じてみせました。そのままマトリは椅子に掛けてあったジャケットを羽織り「お散歩の時間だよ」と水を舐めていたヨーシカに声をかけます。
ため息でもつくように首を振り、猫は後を追いかけていきました。
女主人から受け取った、朝食のサンドイッチをほお張りながら一番大きな通りを歩きます。
真っ白な石畳は国を二つに割るように真っ直ぐ伸びているようです。そこから枝葉のように何色もの石畳が蛇や川のように敷かれているようです。
昨日の穏やかな空気とは違い人通りも多く、とても活気が溢れています。
マトリはそんなこの国を楽しんでいるのか、キョロキョロと立ち並んだお店に目移りをし、ヨーシカは露店から漂う香りに鼻をひくつかせていました。
「ねえねえマトリ。どうせ目的が無いならどこか寄っていこうよ」
「うん、そうだね。これからまだ寒くなるだろうから防寒具も揃えなきゃいけないしね」
「うんうん。そうしたらあの店なんかいいんじゃない?」
ヨーシカが前足をひょいと伸ばす先には、カンテラや雨具、大小様々なバックパックなどが入り口に吊るされ、大きなワゴンには金属のカップやら食器やらがごちゃごちゃと並んでいます。マトリはおぉっ、と呟いたかと思うと早速興味を惹かれたようです。
「それじゃぼくは隣の露店でジャーキーをつまんでるから、ゆっくり見ておいでよ」
マトリは空返事をして、一人で商品だらけの狭い店内へ入っていきました。
「あの様子なら三十分は出て来ないだろうな。……おじさん、この干し肉は豚かい?」
「ほおう。どこから声がしたかと思えば猫ちゃんか。喋る猫だなんて珍しいな、本の中でしかみたこたぁ無いが器用に喋るもんだ」
「僕にとってはなんにも珍しくなんかないけどね。喋るくらいの事なんて、人間だけのものじゃないってことさ」
「確かにその通りだ、うん。……それで、ああ。干し肉ね、こいつは言う通り豚だ。少し硬いがその分日持ちはするし、味も濃い。スープやパンに挟んでも美味いよ。味付けには自信が
あるが、どうだい?ㅤ一切れ食ってみるか?」
「へえ、それなら勿論頂くよ」
ヨーシカは千切られた干し肉を、しゃくしゃくと確かめるように食べました。
「どうだい?ㅤちょっとお前さんには辛かったかな?」
「んーん。そんなことないよおじさん。これなら旅のお供にぴったりさ。このポーチの半分と一切れおくれよ」
店主は「まいどあり!」と元気よくこたえ、紙袋を一つと二切れの干し肉を渡しました。
ヨーシカはそれをポーチに入れ、銀色の硬貨と交換に二切れを口に噛みました。
「一枚はサービスするよ。小腹が空いたらまたおいで」
「なーお」
うまく喋ることができないのか、猫の声で返事を返したのでした。
暫く干し肉を堪能し、もう一枚は残して夜のスープに入れようか考えていると、ようやくマトリが店から出てきました。ですが、手にはなにも持っていないようです。
「……どーしたのさ?ㅤくだらないものが好きな君が手ぶらなんて珍しい」
マトリはどこかむすっとしています。
「それがさ、聞いてよヨーシカ。とても綺麗な文鳥がデザインされた髪留めがあったんだよ。これは素敵な逸品だってすぐに思ったね」
「それがどうして手ぶらなわけ?」
「店主がさ、買う時私に言ったんだ。『これは、ある美しい文鳥が死んでしまって、その亡骸をモチーフにしたんです』よって。そしたら途端にその髪留めを持っているのが悲しくなっちゃってさあ」
「ふうん。でもその髪留めの文鳥は元々生きても死んでもいないけど」
「わかってないなヨーシカは。ああいうものはね、意味が大事なんだよ。自分にとってや送る相手にとってもね。縁起が良いものと言ってもいい」
「送る相手なんかいたのかい?ㅤそっちの方がオドロキだね」
「人生経験の短い猫はこれだからよくない。あと十年もすれば君にもわかるさ」
そんな言い合いをしていると、一人の少女が近づいてきました。
「あの、すみません」
どこか潤んだ目をしている少女は、まだ五つくらいに見えます。栗色の髪は走り回ったのか少し乱れ、可愛らしいフリルのついたオレンジ色のワンピースも端に汚れがついていました。
「どうしたのかな、お嬢さん」
マトリが優しげに声をかけました。ヨーシカは目をやるだけでもう一枚の干し肉に手を出しています。
「マリーがいないの。知りませんか?」
「マリー?ㅤそれは君の妹さん?」
「違うの。マリーはわたしが飼ってるおっきな犬」
「なるほど。でも私たちは犬は見てないかなあ。ヨーシカはどう?」
ヨーシカはふい、と首を振ります。
すると、少女はみるみる内に潤んでいた瞳からぽたぽたと涙をこぼしはじめてしまいました。唇を震えながらつぐんでいても抑えきれないようです。
「あらら。泣いてしまうほど見つからないみたいだね。でも君は随分強い子みたいだ」
よしよし、と乱れた髪を撫でてなだめようとします。
「しゃべる猫さんなら、もしかしたらしってる。かと、おもって」
少女はひっく、と漏らしながら言います。ですがその希望も叶わないと知り、とても悲しくなってしまったようです。
「そうだったんだね。……うん、よし!ㅤ私たちが君のそのマリーを一緒に探してあげよう」
マトリは少女も同じ顔の位置で笑って言いました。ヨーシカは苦虫でも噛んだ顔をしています。
「……ほんと?ㅤみつかる、かな」
「大丈夫。私は旅人なんだ、色んなものを探すお仕事をしていると言ってもいい。だから、探すのはとっても得意なんだよ」
「そう、なの?」
「そうさ。情けは人の為ならず。方舟に乗ったつもりで任せてよ」
「方舟って洪水でもくるのかい?ㅤというか本当に手伝うの?」
「勿論!ㅤヨーシカ、君の働きにも期待してるよ」
ヨーシカはため息まじりにやれやれといった態度で、ごくりと干し肉を飲みほしました。
「ありがとう、おねえちゃん。しゃべる猫さん」
「ふん。ヨーシカでいいよ、しゃべる猫ってのは気に入らないし。それとこっちもマトリでいいよ。僕より役に立つかはわからないけどね」
「口は悪いけどヨーシカはこれでいいやつなんだ。よろしくね。……えーと」
「君の名前はなんていうのさ」
少女は両袖で涙を拭いて、ワンピースの汚れをぱんと払うと、裾を軽く持ち上げ片膝を曲げて答えました。
「はじめまして、ランタナです」
まるでお人形のようにも見える美しい所作に、マトリはおぉ、とうめくほどでヨーシカの尻尾もくね、とゆれたのでした。
マトリとヨーシカ—本の国— おばけ @hitoe
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