マトリとヨーシカ—本の国—
おばけ
I
深い深い森の中、一人と一匹の猫が踏みならされた獣道を歩いています。
一人は香色の髪を後ろで束ね、クリーム色のシャツの上に緑色の暖かそうなベスト、その更に上には丈夫そうなジャケットを羽織り、背負っている大きなリュックは何が入っているのかパンパンです。
猫はといえば黒いしなやかな体躯をして、でも四本の足先だけは真っ白でおろしたての靴下を履いているよう。猫も小さな鞄を背負っていました。
「ねえ、マトリ。次の国へはどれくらい?」
喋る猫はそう人間に問いかけます。
「そうだなあ。この地図によれば陽が天辺にくる頃には十分辿り着けそうだけど」
ポケットから綺麗に畳まれた羊皮紙を取り出し、両手に広げてそう言いました。更にマトリは続けます。
「だけど、鋭い私の勘どころでは陽が沈むかどうかってところかな」
「え、なんでそう思うのさ?ㅤ前の国から十日もあればって話じゃなかった?」
不思議そうな声音の猫に、マトリは含みのある顔をします。
「だって目印の大木が……ほら、昨日通った大きな木さ。あれ、実は一昨日通る予定だったんだよ」
猫はピタリと歩みを止めました。
「どうしたのヨーシカ?」
今度はマトリが不思議そうな顔をして、急に立ち止まった猫ことヨーシカへ声をかけました。
「はぁぁぁぁ」
深い深いため息。
「……急ぐよマトリ!」
垂れていた尻尾をピンと張り、猫なのに脱兎のごとく走り出しました。
「なんだってそんなにっ」
言葉とは裏腹にどこかのんびりした口調でマトリは脱兎の猫へ声をかけます。
「僕の脚を見てご覧よ!ㅤやっと今日で泥汚れとおさらば出来るって思ってたのに!!」
「そんな血統書付きみたいな事を言って」
そう言いながら一足先を走るヨーシカをマトリはのろのろと追いかけて行きました。
そうして陽がもう沈む頃。
マトリはジャケットを腰に巻き、整っていたシャツが着崩れてしまっています。
ヨーシカの靴下は草の汁やら泥やらで随分汚れ、それに顔も体も毛がボサボサです。猫の縄張り争いだってこんなにはなりません。
まるで一日中走り続けたみたいにマトリとヨーシカはクタクタで、ヨーシカに至っては朝よりとても痩せて見えるほど。
「つ……着いた、ようやく。ヨーシカ、国だ」
「……」
「はぁ……まるで干からびた雑巾だ」
地面で真っ黒な絨毯のように伸びきったヨーシカを肩に乗せ、マトリは森の中に不自然に開けた国へと向かいます。
石が積み上げられたところもあれば、木で作られたところもある高い塀が並んでいます。ちぐはぐに感じるそれは、人の手が入っているのにまるで自然と生まれたもののようで、とても森に馴染んでいました。
マトリは不思議な塀に「へえ」なんて知った風な、実は興味なんて無さそうな言葉を口にしながら入口らしき門へ向かいます。
門の両端には二人の門番がおり、マトリに気付くと片方はもじもじと落ち着かない様子、もう片方はピシャリと姿勢を正したまま視線だけを向けています。
「こ、こんにちは!ㅤ……あれ?こんばんはだったかな?ㅤどどどど、どちらでしょう?」
「焦るな新人。第一編、二百三十六ページだ」
新人門番は慌てながら、ベルトと一緒に回されたいくつものポーチから一冊の小さな本を取り出すと、ぱらぱらと紙をめくり目当てのページが見つかったのかすぐにほっとした顔になりました。
「で、では改めて……。こんにちは外の人。我が国へ入る前には、初めに簡単な書類がありますのでこちらの詰所へ」
先程とは打って変わって手慣れた様子で、でも表情だけはまだ固く見えます。
「さあ、歩け」
新人よりも一回り以上歳が上だろう門番は、言葉も態度も見た目通りだ。門番といえば彼を参考にするのが良いでしょう。それほどよく門番が似合う男です。
詰所は小綺麗な小屋で、椅子にテーブル、そして一面だけですが、床から天井までびっしり詰められた大量の本がありました。
マトリは促されるままに椅子に腰掛け、新人門番は本棚から一冊の本を取り出しページをめくります。
「滞在は何日間をお考えですか?」
「二週間ほど、ですね」
「正確にお願いします。出国時間まで」
「え?ㅤええ、そうですね……」
そんな細かなやり取りを交わしながら数時間。とても簡単とは思えない質問の群れを蹴散らす、事が出来たのは初めの三十分くらいなもので、マトリは疲労もあってうとうとしながら、のらりくらりとこなしました。
「……さて、以上で終わりです」
はあ、とため息も出るものだ。とっくに陽は沈んでいるし、昼に味の無いしけったクッキーを数枚食べただけ。腹減り虫は空っぽの胃の中で暴れ回っている。宿主がくたくたになればなるほど奴は乱暴になるのだから困ったものだ。
「ふぅ。……ひ、一つ伺いたいのですが」
マトリは少しだけびびりながら質問をします。
「なんでしょう?」
「宿はどこでしょうか、出来ればご飯が美味しいところ」
新人門番は慌てて一度閉じた本を開き目を走らせていましたが、それをもう片方の門番が遮りました。
「それなら『食べかけのチーズ亭』がいいだろう」
門番らしさに満ちた男は、門番らしく少ない言葉で正確に道を教えてくれました。
「ではどうか隅々までこの国ををお楽しみ下さい」
二人の対称的な門番に見送られ、ようやく詰所から解放されました。
「にゃお」
「なんだ、起きてたんだ」
「うたた寝は得意だからね、それに本当に話が長いんだもの」
いつの間にか起きていたヨーシカと共に、晩御飯の話で空腹を膨らませながら『本の国』の中へと向かいました。
木製の巨大な門、マトリが縦に三人並んでようやく足りそうな程に高く分厚そうな門。
さてどう開くものかとマトリは考えたけれど、ヨーシカが尻尾で示した所に小さな扉がありました。
そこをくぐると色分けされた石畳が道を示すように幾つも伸びています。
詰所で貰ったガイドブックを開くとどうやら黄色い道を進むと直ぐに宿屋へは着きそうです。
「それにしても良くできた本だ。この国へ辿り着くまでの地図とは大違い」
「……僕には押し花に丁度いいってことしかわからないけどね」
「うん。眠れない時にぴったりかも。これ貰えないのかな」
「まだ荷物を増やすのかい?ㅤそんな重そうな本、僕に背負わせないのならお好きにどーぞ」
マトリは少しだけ残念そうに本を閉じると、黄色い石畳の上を歩き始めました。
もう欠けた月が暗い夜空に浮かんでおり、建物の先から吊るされたランプが夜道を照らしています。
住人たちは仕事を終えた後なのでしょう、人通りはまばらで活気があるというよりかはどこか穏やかな雰囲気がただよっています。
『食べかけのチーズ亭』は本の通りすぐに見つかりました。木製の看板には『食べかけのチー』と、確かにかじられたように欠けています。
気の良さそうな女主人に手際よく手続きを済ませ。久しぶりのベッドに二人は倒れこんでしまいます。
「……おっと!ㅤだめだよヨーシカ」
「なんだよ人がゴロゴロしてるっていうのに」
「折角の布団が汚れちまうじゃないか」
「……んにゃお?」
「猫の真似なんかしても駄目だね。君は湯浴みしてからじゃなきゃ、この布団で横になる事は許せないよ!」
「……」
「でも、その前にご飯を頂こう。どうやらパンケーキが絶品らしい」
「やれやれ、それは仕方ないね」
尻尾をくねらせ上機嫌なヨーシカとマトリは食堂へ向かいました。
それはそれは大変美味でした。三段も積まれたパンケーキの上に、焦げ目のついたカリカリのベーコン。さらにスライストマトにポーチドエッグがとろりと乗っているのです。
ヨーシカは大きめに切り分けてもらったそれを、口いっぱいに詰め込みながら食べています。きっとリスだって同類かと思うでしょう。
マトリは口の中を火傷してしまわないように、小さく切り分けながら何度もふぅふぅとフォークの上で冷ましています。
「猫舌のお嬢ちゃんと熱いのが平気な猫なんて、変わっているんだかぴったりなんだか、おかしな旅人さんだねえ」
「僕は猫であって猫ではないんだよ、おかみさん」
「熱いけど、どこか懐かしい味がして美味しいです。このパンケーキ」
「探偵のパンケーキって言うんだ。変な名前だろう?ㅤずっと前に来た旅人が名前をつけてったんだよ。勝手にね」
「へえ。推理小説にでも同じものが出てきたんでしょうか」
「さあね。でも喜んで貰えたみたいでよかったよ。あまり凝ったものは作れないからね」
まだ湯気の止まらないパンケーキを観察しながら、マトリはヨーシカの方をみると、既にペロリと平らげ満足気に顔を洗っていました。
「ところであんた達はどうしてこの国に?」
「一度、この国を訪れた友人がいるんです。その人がいうには、落ち着く事は出来ないが飽きる事だけはない、と言うんです。そんな言い方されたら、気になるでしょう?」
「ふふ。まるでなぞなぞみたいにいうね。でもまあ確かにそうかも知れないね。この国は旅人さんが訪れてくれるのをとても喜ぶ国だ。その人の言う通り飽きさせやしないだろうさ」
女主人はそう言って厨房の奥へと消えていきました。
マトリはコップに入った水を飲み干し、ヨーシカは重たそうな腹を持ち上げます。
「じゃあ、今日だけはゆっくり休もうか。……っと、その前にお湯を借りて綺麗にしようか」
「にぃあお」
どうみてもヨーシカは嫌そうな顔をするのでした。
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