どしゃぶりの日

新身理玖

どしゃぶりの日

もう昼下がりだろうか。大きな窓と右手分だけ向かい合わせの机から、私は下半身を椅子に吸いつけられながら、首を伸ばし、傾け、外の景色に目をやった。カーテンのレース越しに、道路を挟んで2、3軒の家家の屋根が整然と並んでいるのが見える。それらが1階建てなのか二階建てなのか不明瞭なのは、道路によって不自然に仕切られた歴木なのか柘植なのか判別のつかない苔色が、その家々の右手からタスキをかけるように、左端まで迫り上がるように覆っていたからだ。その苔色は、日光の恩恵を最も享受できる姿勢で好き放題に繁っていたので、恐らく、そこで寝起きしている住人の庭の一部ではないのだろう。ぼんやりと思考を巡らした後、私は首を縮める様にして、焦げ茶色で少し光沢のある机へ向き直った。そして、その焦げ茶色の真ん中に無遠慮に寝そべっている数学の参考書に目を落とす。白を基調とし、表紙には飛行機が丘陵の真上の真っ青な空を駆けるイラストが描かれている。このイラストの意図と真意を、真面目に真剣に考える人間は何人いるだろう。そしてその内、友人と真面目に議論を試みる人間、ネットで意図を調べる人間は何人いるだろう。挙句の果てに、その出版社へ電話をよこす人間が何人いるだろう。


「まぁとりあえずやろう。後1問やろう。」


眉に唾を塗る思いで、口走った。私は一旦疑問を持ち始めると人の話など耳に入らない性格であった。例に漏れず今も、解くべき問題のページを開くこともなく、ただ呆然と自らの思惑の中で、間抜けにまどろんでいた。その疑問は、私の頭の中で、拳ほどの鈴を大きく鳴らしながら疾走し、普段眠っているはずの、何かそれらしい記憶や知識の断片を片っ端から起こして回り、ストライキでも勃発させる様に、度々私の思考を占拠し、妨害した。その習性を知っていたので、私は現実世界の行動によって、頭の中で繰り広げられるそれらの好奇の結束をいなした。予め左手側のコップに注いであった、少し冷めたコーヒーを口へ少量流し込みつつ、右手では所定のページを、見当つけながら開いた。問題の番号をルーズリーフの左上の隅に書き込む。そして遂に問題を解き始める。ここまでだ。ここまでが肝心で、間髪でも入れれば、さっきの暴動は愚か、新たに生じる疑問が鈴を鳴らし始め、私はこの上なく手を焼くであろう。


この頃日が長くなっている。春頃は、窓から部屋の机へ差し込む日の当たり具合や温度で、今が何時ぐらいであるのか見当がついたが、6月ともなると18時を過ぎても依然として外は明るく、現在の時刻を当てるという、自分の為だけの芸当は振るえなくなっていた。


駆込寺として使ってやろうと目論んでいた大学は中退した。地位だの世間体だのくだらないと、私なりの崇高な信仰を持っていたはずであったが、退学してみると、これから会う人間にどう切り出そうか、切り出したあとの人々の顔が一人一人自然と妄想され、私は私が思っていたよりも、大学に在籍している、ということの世間への効力に寄りかかっているらしいことが分かった。


翌年に受験を控えた私を苛んだのは、陽光であった。明け方に白く煌々として東方より昇り始め、日暮れには光沢のある朱色に熟す。その輝く朱肉は自身の周りをその油で滲ませ、自らが沈んだ後もその余韻を西方の空へ残す。私の机の右正面には、窓のレースとカーテンがついていたため、レースの影は日中、机の上へ足を下ろしていた。


太陽は自然の有り様、つまりは時間の経過を刻一刻と体現する。それは私にとって、ただの、無機質な自然の現象ではなかった。私はこの数年が無意義だったのではなかろうか、今もその月年のように、この一瞬を無為に過ごそうとしているのではないだろうかという、己に対する疑念を常に必死に押さえつけていた。時間の経過を実感する度、苦しくなった。抑え続けていても、握力は確実に弱まっていく。一度でも気を抜けば、そいつは私の両の手に収まらなくなった。私の意思だとか、希望だとかよりも膨大に膨れ上がって、再び押さえつけるのには、骨が折れた。不幸中の幸と言うが、そういった強迫観念でも、食べ続けていれば飽きることを発見した私は、何か、誰も知らない自分の哲学を発見したようで、少しだけ悦に浸ったりした。それがだ。この太陽である。物理の法則にでも従っているくせに、そ知らぬふりでもしているのだろうか。私はしばしば、窓のレースのつくる影により、自分の勉強をする傍、少しばかり机の右上に目をやると、刻一刻とその、私の「大事で貴重な時間」が消費されていく様をまざまざと見せつけられたのであった。そしてそれは、太陽の日の光に起因していた。私は時折焦燥した。とりわけ日暮はそれの具合がひどかった。


黄昏時とはよく言ったものだ。夕焼けの光が、私の勉強机を照らし始めると、私は1日の4分の3をもう失ったのかと考えた。私のベッドは部屋の西側の端から端までを、どっかりと占領し、静かに横たわったいた。少しそいつの右上の壁に目をやると、横に一尋ほどの窪みがぽっかりと開いていて、そこへ二枚の窓と一枚の網戸が嵌め込んである。今が夕暮れであることを悟ってしまった時は、机から離れ、ベッドの上でひしゃげている黒い毛布を、ベッドの足元へ追いやり、窓へにじり寄ることがあった。私はカーテンを頭上へ弾きつつ、かの太陽の色づき具合を度々覗き見た。


ここから見える夕日の真ん中には電線が横走っている。一本の紐で縛りつけられたその果実は上下から溢れるような紅柑子べにこうじ色を空に滲ませていた。


「あぁ、きれいだなぁ」


そんなこと思っていないのだ。思えないのだ。だから言霊に頼る。

私はこの数年、美しい夕日など、一度たりとも見ていなかった。


自分に失望していたが、理想はあるから、結局惰性で勝負に挑む。惰性で戦場を彷徨い、惰性で傷つく。これをひたすら繰り返した。


惰性で勝てる場所がないから


せめて感傷の深さにおいて、勝ちたくなったのかもしれない。

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どしゃぶりの日 新身理玖 @AramiRiku

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