森の歌姫

赤木フランカ(旧・赤木律夫)

森の歌姫

「そうだ。長瀬さんが興味ありそうな本買ってみたわよ?」


 英語の予習を終えて図書館を出ようとしていた私を、司書の河野先生が呼び止めた。私はドアの前で立ち止まって、先生の方を振り返る。


「どんな本ですか?」


 私が尋ねると、河野先生はホクホクと笑いながら二冊のハードカバーを取り出した。


 タイトルは『森の歌姫』――水橋穂南の最新作だ。


「長瀬さん、水橋先生の本好きだったでしょ? 真っ先に長瀬さんに貸してあげようと思って、まだ書架には出してなかったの」


 河野先生は少し首を傾げて、「借りる?」と聞いてきた。私は少し迷った後、「今読んでいる本を読み終わったらにします」と返す。


「あらそう……長瀬さんが借りないなら、明日から書架に出しちゃうわね」

「そうしてください。私よりも、水橋先生の本が読みたい人はいるでしょうから」


 チラリと時計に目をやると、バスの発車時間まであと三分だった。


「じゃあ、バスが来ちゃうので」

「はい、お疲れ様」


 河野先生に手を振り、私は図書館を出た。



 結局、バスには間に合わなかった。次のバスまでは三十分ある。


 誰もいないバス停のベンチに腰を下ろし、私はカバンから今借りている本を取り出す。


 表紙には月から見た地球の写真と一緒に、『月面探査機「つくよみ」の挑戦』というタイトルが印字されている。ファンタジーではなく、月面探査機の開発にまつわるエピソードをまとめたノンフィクションだ。


 私はファンタジーが嫌いだ。いや、嫌いになった。


 河野先生が言った通り、以前の私は水橋穂南のファンタジーを愛読していた。先生は図書館に入っている本の中からおすすめの作品を紹介し、私のために新しい本をキープしてくれることもあった。


 しかし、二年生の夏休みが終わる辺りから、私はファンタジーに対する興味を急速に失っていった。さっきだって、河野先生がせっかく私のために本を買ってくれたのに、微妙な態度で断ってしまった。


 どうしてファンタジーが嫌いになったのか、明確な理由は解らない。ただ、ファンタジーを読んでいると頭が重くなって、息が苦しくなる気がした。


 別に本を読むのが苦手になったわけではないらしい。今読んでいる本には宇宙開発に関する専門用語が出てくるが、詰まることなくスラスラと内容が入ってくる。


 読むのが億劫に感じるのは、ファンタジーだけなのだ。



 どのくらい本を読んでいただろうか? バスはまだ来ていないが、時間が気になった私は腕時計を見る。


 時計は止まっていた。私が校門を出た時間から針は一ミリも動いていない。


 舌打ちをしたいのを堪えて、私はブレザーのポケットからスマートフォンを取り出す。だが、こちらも電源が切れていた。まだバッテリーは充分にあったはずなのに……


 通りがかった人に時間を聞こうと思って、私は辺りを見回してみる。


 その時、私は異変に気付いた。バス停のすぐ側にあるアイスの自動販売機が消えている。自動販売機があった場所には苔むした石が墓碑のように佇み、辺りは太い杉の木に覆われていた。


「なにこれ……どういうこと?」


 普段は独り言を言わない私も、さすがに困惑して思ったことが声に出る。バスを待っていたらいきなり杉林に転移していたなんて、普通に考えればあり得ないことだ。


 困惑する私の耳に、歌声が聞こえてきた。不思議な抑揚のある、アルトの歌声だった。


 いつまでもベンチに座っていても埒が明かないので、私は荷物を背負い、歌声のする方へ行ってみた。落ち葉を踏みながら杉林の奥へと入っていくと、少し開けた場所に出た。


 そこで私は歌声の主の姿を見つけた。切り株に腰を下ろした少女が、長い黒髪を櫛で整えながら歌っていた。彼女の白い装束は和服とも洋服とも違う独特な様式で、神秘的な雰囲気を醸していた。


 少女の視線はどこか遠くに向けられていて、私の存在に気付いていないようだ。


 ふと、足元でパキッと乾いた音が鳴る。無意識のうちに踏み出していた私の右足が、墜ちた木の枝を折ったらしい。


 その音を聞いた少女は、歌うのを止めてこちらを見る。


「あッ! ゴメン、邪魔するつもりはなかったの……」


 私は慌てて弁解する。一方の少女は柔らかい笑みを浮かべて「気にしていませんよ」と答えた。


「私の歌を聴きに来てくれたのですか?」


 少女の問いに、私は首を横に振る。


「いや、違くて……バスを待ってたんだけど、気が付いたらこんな森のど真ん中にいて……」

「ばす? どなたですか?」


 少女は首を傾げる。バスという単語も、それが乗り物であることも知らないらしい。


 もしかして、これが噂に聞く「異世界転移」という現象か? トラックに轢かれるでも、自殺するでもなく、バスを待っていたらいつの間にか異世界に転移してしまったのか? なんとも地味な異世界転移だ……


「事情は分かりませんが、何やらお困りのようですね?」


 私が黙っていると、少女が話を継いでくれた。会話の続かない私にとって、こういうタイプの相手はすごく助かる。


「まぁ、そんなところかな。家に帰れなくなっちゃって……」


 少女が知らなそうな単語を省いて、端的に状況を伝える。


「それは困りましたね。でも、安心なさってください。もうすぐ、オクリガラスがこの森を通ります」

「オクリガラス?」


 聞き馴染みのない単語に、私は眉をひそめる。そんな私に、少女はゆっくりとオクリガラスのことを語る。


「昔、神官の一族がこの森を通って、山の向こうへ行こうとしたことがありました。生い茂る杉の木に行く手を阻まれた彼等は、雲の向こうのお日様に助けを請いました。すると、お日様は一羽の大きなカラスを遣わして、神官の一族を森の外まで導いてくれたのです。以来、お日様が沈む前にはこの森にオクリガラスが現れ、道に迷った人に帰り道を教えてくれると言います」

「へぇ……」


 私は似たような話を知っていた。日本神話に登場する八咫烏のエピソードだ。オクリガラスと同じように、八咫烏も道に迷った神武天皇を助けて、大和国までの道案内をしたという。


 日本神話風の異世界とは、随分マニアックだ。ファンタジー=ヨーロッパという風潮が強い日本において、そんな世界観で作品を書くのは水橋先生くらいだろう。


「この切り株に座っていれば、オクリガラスはやってきます。どうぞ、おかけください」


 少女は少し腰をずらして、私が座るスペースを確保してくれた。私は「ありがとう」と返し、彼女の隣に腰を下ろす。土がつくのが嫌だったので、荷物は地面には置かず、膝の上に抱えた。



 それからしばらく、私たちは赤みを増していく空を見上げていた。鳥が羽ばたく音は聴こえるが、オクリガラスが現れる気配はまだない。


 隣に座る少女は、同じ歌を繰り返している。透き通ったアルトの声は美しいが、さすがに私は聞き飽きてきた。


「あなたは歌うのが好きなんだね……」


 そんな言葉が私の口から零れる。「同じ歌ばかり歌って、よく飽きないね」という皮肉を込めたつもりだったが、少女には微妙に伝わらなかった。


「はい。大好きです。毎日この場所で歌うことが、私は楽しくて仕方がないのです」

「すごいね。一つの好きな事に夢中になれるなんて……」

「いえ、すごくなんかありませんよ。それに、飽きちゃうこともあります」

「そうなの?」


 私が聞き返すと、少女はゆっくり頷いた。


「何となく思うように声が出せなかったり、歌の内容がつまらなく思えたりすると、歌うのが嫌になってしまうんです。どんなに好きな事でも、ずっと好きでいられる訳ではないのです」


 少女は「あなただってそうでしょう?」と付け加え、私に黒い瞳を向けてきた。まるで心を読まれているような気がして、私の心臓がドクンと大きく脈打つ。


「あなたも、かつて好きだったものが、今は嫌になっているのではないですか?」


 少女の言葉を私は否定しなかった。


「うん、そうだね……あなたの言う通り、私も好きなものが嫌いになってるかも……」


 また一羽の鳥が飛び立った。オクリガラスではなく、ただのハトだった。


「昔はあんなに好きだったのに、あんなに心が躍ったのに、今はすごくつまらなく感じるの……何でだろうね?」

「私も解りません。ただ、それで悩むことはないと思いますよ?」


 少女は再び遠くに視線を投じて、独り言のように続ける。


「お腹が満たされれば、それ以上は食べたいと思わないのは当たり前です。好きなものが嫌いになった……嫌いになったように思えるのは、心が別のものを求めているから。それが満たされれば、自然とまた好きになれますよ……」

「そうなのかな?」


 答えは返ってこない。代わりに、カラスの群れが鳴く声が遠くから聞こえてきた。


「オクリガラスが来たようですよ……」


 少女が私に微笑むと、辺りが急に暗くなった。空を見上げると、大人四人が手を広げて並んでも足りないくらい大きなカラスが、私たちの上に覆いかぶさるように降りてきた。


「あなたも家に帰れるといいですね……」



「長瀬先輩?」


 名前を呼ばれて、私は目を覚ます。同じ高校の一年生が、私の肩をゆすっていた。体育祭の軍団旗製作で一緒になった、美術部の小野寺さんだ。


「あれ? 小野寺さん?」

「先輩、本開いたまま居眠りしていたんですよ?」

「そうなんだ……」


 夢オチか……安心したような、少し残念なような気持ちで、私は口元のよだれを拭う。


「バスは?」


 私の問いに、小野寺さんは「もうすぐ来るはずです」と答える。彼女の言葉の直後、ギシギシとフレームを軋ませるバスの音が近づいてきた。


 バスに乗り込んだ私と小野寺さんは、二人掛けの席に座った。


「そう言えばさ、小野寺さんは絵が嫌いになったことってある?」


 交差点をバスが曲がる時、私は小野寺さんに聞いてみた。


「へ……? まぁ、何度も、というかしょっちゅう絵が嫌いになってますけど……」

「そうなんだ。やっぱりみんなそうなんだね……」

「どうしたんですか? 急にそんなこと聞いてきて?」


 私は小野寺さんに図書館で河野先生と交わしたやり取りを話す。


「そんなことがあったんですね……たしかに、最近の先輩は水橋先生の本じゃなくて、恐竜とか宇宙の本を読んでましたね」


 後輩に見られていたのか……私は顔が熱くなるのを感じた。恥ずかしい気持ちを紛らわすために、私は言葉を継ぐ。


「好きなものが嫌いになっちゃった時、どうすればいいんだろう? 小野寺さんは絵が嫌いになったら、何してるの?」

「私の場合はとにかく走りますね。心が絵を描きたくないと思っている時に、無理に描こうとするともっと嫌いになっちゃいますから。他のことをして、また絵を描きたいと思えるようになるまで待つんです」


 奇しくも、小野寺さんの答えは森の中で歌っていた少女と同じだった。


「私も恐竜や宇宙の本を読んでいれば、またファンタジーが読みたくなるのかな……?」

「焦る必要はありませんよ」


 小野寺さんはそう言って微笑んだ。


 それっきり、私と小野寺さんは言葉を交わすことなく、終点の駅で別れた。


――終わり――

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