森の歌姫
赤木フランカ(旧・赤木律夫)
森の歌姫
「そうだ。長瀬さんが興味ありそうな本買ってみたわよ?」
英語の予習を終えて図書館を出ようとしていた私を、司書の河野先生が呼び止めた。私はドアの前で立ち止まって、先生の方を振り返る。
「どんな本ですか?」
私が尋ねると、河野先生はホクホクと笑いながら二冊のハードカバーを取り出した。
タイトルは『森の歌姫』――水橋穂南の最新作だ。
「長瀬さん、水橋先生の本好きだったでしょ? 真っ先に長瀬さんに貸してあげようと思って、まだ書架には出してなかったの」
河野先生は少し首を傾げて、「借りる?」と聞いてきた。私は少し迷った後、「今読んでいる本を読み終わったらにします」と返す。
「あらそう……長瀬さんが借りないなら、明日から書架に出しちゃうわね」
「そうしてください。私よりも、水橋先生の本が読みたい人はいるでしょうから」
チラリと時計に目をやると、バスの発車時間まであと三分だった。
「じゃあ、バスが来ちゃうので」
「はい、お疲れ様」
河野先生に手を振り、私は図書館を出た。
*
結局、バスには間に合わなかった。次のバスまでは三十分ある。
誰もいないバス停のベンチに腰を下ろし、私はカバンから今借りている本を取り出す。
表紙には月から見た地球の写真と一緒に、『月面探査機「つくよみ」の挑戦』というタイトルが印字されている。ファンタジーではなく、月面探査機の開発にまつわるエピソードをまとめたノンフィクションだ。
私はファンタジーが嫌いだ。いや、嫌いになった。
河野先生が言った通り、以前の私は水橋穂南のファンタジーを愛読していた。先生は図書館に入っている本の中からおすすめの作品を紹介し、私のために新しい本をキープしてくれることもあった。
しかし、二年生の夏休みが終わる辺りから、私はファンタジーに対する興味を急速に失っていった。さっきだって、河野先生がせっかく私のために本を買ってくれたのに、微妙な態度で断ってしまった。
どうしてファンタジーが嫌いになったのか、明確な理由は解らない。ただ、ファンタジーを読んでいると頭が重くなって、息が苦しくなる気がした。
別に本を読むのが苦手になったわけではないらしい。今読んでいる本には宇宙開発に関する専門用語が出てくるが、詰まることなくスラスラと内容が入ってくる。
読むのが億劫に感じるのは、ファンタジーだけなのだ。
*
どのくらい本を読んでいただろうか? バスはまだ来ていないが、時間が気になった私は腕時計を見る。
時計は止まっていた。私が校門を出た時間から針は一ミリも動いていない。
舌打ちをしたいのを堪えて、私はブレザーのポケットからスマートフォンを取り出す。だが、こちらも電源が切れていた。まだバッテリーは充分にあったはずなのに……
通りがかった人に時間を聞こうと思って、私は辺りを見回してみる。
その時、私は異変に気付いた。バス停のすぐ側にあるアイスの自動販売機が消えている。自動販売機があった場所には苔むした石が墓碑のように佇み、辺りは太い杉の木に覆われていた。
「なにこれ……どういうこと?」
普段は独り言を言わない私も、さすがに困惑して思ったことが声に出る。バスを待っていたらいきなり杉林に転移していたなんて、普通に考えればあり得ないことだ。
困惑する私の耳に、歌声が聞こえてきた。不思議な抑揚のある、アルトの歌声だった。
いつまでもベンチに座っていても埒が明かないので、私は荷物を背負い、歌声のする方へ行ってみた。落ち葉を踏みながら杉林の奥へと入っていくと、少し開けた場所に出た。
そこで私は歌声の主の姿を見つけた。切り株に腰を下ろした少女が、長い黒髪を櫛で整えながら歌っていた。彼女の白い装束は和服とも洋服とも違う独特な様式で、神秘的な雰囲気を醸していた。
少女の視線はどこか遠くに向けられていて、私の存在に気付いていないようだ。
ふと、足元でパキッと乾いた音が鳴る。無意識のうちに踏み出していた私の右足が、墜ちた木の枝を折ったらしい。
その音を聞いた少女は、歌うのを止めてこちらを見る。
「あッ! ゴメン、邪魔するつもりはなかったの……」
私は慌てて弁解する。一方の少女は柔らかい笑みを浮かべて「気にしていませんよ」と答えた。
「私の歌を聴きに来てくれたのですか?」
少女の問いに、私は首を横に振る。
「いや、違くて……バスを待ってたんだけど、気が付いたらこんな森のど真ん中にいて……」
「ばす? どなたですか?」
少女は首を傾げる。バスという単語も、それが乗り物であることも知らないらしい。
もしかして、これが噂に聞く「異世界転移」という現象か? トラックに轢かれるでも、自殺するでもなく、バスを待っていたらいつの間にか異世界に転移してしまったのか? なんとも地味な異世界転移だ……
「事情は分かりませんが、何やらお困りのようですね?」
私が黙っていると、少女が話を継いでくれた。会話の続かない私にとって、こういうタイプの相手はすごく助かる。
「まぁ、そんなところかな。家に帰れなくなっちゃって……」
少女が知らなそうな単語を省いて、端的に状況を伝える。
「それは困りましたね。でも、安心なさってください。もうすぐ、オクリガラスがこの森を通ります」
「オクリガラス?」
聞き馴染みのない単語に、私は眉をひそめる。そんな私に、少女はゆっくりとオクリガラスのことを語る。
「昔、神官の一族がこの森を通って、山の向こうへ行こうとしたことがありました。生い茂る杉の木に行く手を阻まれた彼等は、雲の向こうのお日様に助けを請いました。すると、お日様は一羽の大きなカラスを遣わして、神官の一族を森の外まで導いてくれたのです。以来、お日様が沈む前にはこの森にオクリガラスが現れ、道に迷った人に帰り道を教えてくれると言います」
「へぇ……」
私は似たような話を知っていた。日本神話に登場する八咫烏のエピソードだ。オクリガラスと同じように、八咫烏も道に迷った神武天皇を助けて、大和国までの道案内をしたという。
日本神話風の異世界とは、随分マニアックだ。ファンタジー=ヨーロッパという風潮が強い日本において、そんな世界観で作品を書くのは水橋先生くらいだろう。
「この切り株に座っていれば、オクリガラスはやってきます。どうぞ、おかけください」
少女は少し腰をずらして、私が座るスペースを確保してくれた。私は「ありがとう」と返し、彼女の隣に腰を下ろす。土がつくのが嫌だったので、荷物は地面には置かず、膝の上に抱えた。
*
それからしばらく、私たちは赤みを増していく空を見上げていた。鳥が羽ばたく音は聴こえるが、オクリガラスが現れる気配はまだない。
隣に座る少女は、同じ歌を繰り返している。透き通ったアルトの声は美しいが、さすがに私は聞き飽きてきた。
「あなたは歌うのが好きなんだね……」
そんな言葉が私の口から零れる。「同じ歌ばかり歌って、よく飽きないね」という皮肉を込めたつもりだったが、少女には微妙に伝わらなかった。
「はい。大好きです。毎日この場所で歌うことが、私は楽しくて仕方がないのです」
「すごいね。一つの好きな事に夢中になれるなんて……」
「いえ、すごくなんかありませんよ。それに、飽きちゃうこともあります」
「そうなの?」
私が聞き返すと、少女はゆっくり頷いた。
「何となく思うように声が出せなかったり、歌の内容がつまらなく思えたりすると、歌うのが嫌になってしまうんです。どんなに好きな事でも、ずっと好きでいられる訳ではないのです」
少女は「あなただってそうでしょう?」と付け加え、私に黒い瞳を向けてきた。まるで心を読まれているような気がして、私の心臓がドクンと大きく脈打つ。
「あなたも、かつて好きだったものが、今は嫌になっているのではないですか?」
少女の言葉を私は否定しなかった。
「うん、そうだね……あなたの言う通り、私も好きなものが嫌いになってるかも……」
また一羽の鳥が飛び立った。オクリガラスではなく、ただのハトだった。
「昔はあんなに好きだったのに、あんなに心が躍ったのに、今はすごくつまらなく感じるの……何でだろうね?」
「私も解りません。ただ、それで悩むことはないと思いますよ?」
少女は再び遠くに視線を投じて、独り言のように続ける。
「お腹が満たされれば、それ以上は食べたいと思わないのは当たり前です。好きなものが嫌いになった……嫌いになったように思えるのは、心が別のものを求めているから。それが満たされれば、自然とまた好きになれますよ……」
「そうなのかな?」
答えは返ってこない。代わりに、カラスの群れが鳴く声が遠くから聞こえてきた。
「オクリガラスが来たようですよ……」
少女が私に微笑むと、辺りが急に暗くなった。空を見上げると、大人四人が手を広げて並んでも足りないくらい大きなカラスが、私たちの上に覆いかぶさるように降りてきた。
「あなたも家に帰れるといいですね……」
*
「長瀬先輩?」
名前を呼ばれて、私は目を覚ます。同じ高校の一年生が、私の肩をゆすっていた。体育祭の軍団旗製作で一緒になった、美術部の小野寺さんだ。
「あれ? 小野寺さん?」
「先輩、本開いたまま居眠りしていたんですよ?」
「そうなんだ……」
夢オチか……安心したような、少し残念なような気持ちで、私は口元のよだれを拭う。
「バスは?」
私の問いに、小野寺さんは「もうすぐ来るはずです」と答える。彼女の言葉の直後、ギシギシとフレームを軋ませるバスの音が近づいてきた。
バスに乗り込んだ私と小野寺さんは、二人掛けの席に座った。
「そう言えばさ、小野寺さんは絵が嫌いになったことってある?」
交差点をバスが曲がる時、私は小野寺さんに聞いてみた。
「へ……? まぁ、何度も、というかしょっちゅう絵が嫌いになってますけど……」
「そうなんだ。やっぱりみんなそうなんだね……」
「どうしたんですか? 急にそんなこと聞いてきて?」
私は小野寺さんに図書館で河野先生と交わしたやり取りを話す。
「そんなことがあったんですね……たしかに、最近の先輩は水橋先生の本じゃなくて、恐竜とか宇宙の本を読んでましたね」
後輩に見られていたのか……私は顔が熱くなるのを感じた。恥ずかしい気持ちを紛らわすために、私は言葉を継ぐ。
「好きなものが嫌いになっちゃった時、どうすればいいんだろう? 小野寺さんは絵が嫌いになったら、何してるの?」
「私の場合はとにかく走りますね。心が絵を描きたくないと思っている時に、無理に描こうとするともっと嫌いになっちゃいますから。他のことをして、また絵を描きたいと思えるようになるまで待つんです」
奇しくも、小野寺さんの答えは森の中で歌っていた少女と同じだった。
「私も恐竜や宇宙の本を読んでいれば、またファンタジーが読みたくなるのかな……?」
「焦る必要はありませんよ」
小野寺さんはそう言って微笑んだ。
それっきり、私と小野寺さんは言葉を交わすことなく、終点の駅で別れた。
――終わり――
森の歌姫 赤木フランカ(旧・赤木律夫) @writerakagi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます