最終節 どこまでも広がる青空へ
第45話 旅の終わりを見つめる
じっと待っていた。なにを待っているのかは、もう自分でもよく分かっていない。
それが人なのかモノなのか、それとも時間なのか。どれでもないのか。
ただ目の前にある現実を受け入れて、自分から逃げずに立ち向かったのが、この三年間だった。三年前とはつまり、上崎新地が消滅したときから数えた年のこと。
隣で黙々とサイン会の準備をしてくれているのは、加奈さんだった。
「どうして、黙ったままにしたの」
「なんのこと?」
「あなたが優子ちゃんの姉だってこと」
「……気づいてたの」
「私にあんなことさせておいて、説明もないのはどうかと思うわけ」
訂正。全然、黙々ではなかった。
初めのうちは、優子から手紙が定期的に届いていた。けれど、ある日を境にぱったりと届かなくなってしまった。それがどういう理由だったのかは想像すらできないが、きっと優子は元気に暮らしているんだと信じている。便りがないのは良い知らせともいう。
あたしがいなくなったことで幸せになれると、信じたかった。そうでなければ、あんな三文芝居をうった意味がない。
「でも、生き別れの姉が実は生きてたなんて、信じられると思う?」
「信じるとか信じないとか、そういう話じゃないよ。それを決めるのは、あの子なんだから」
初めから知っていた。あたしの妹が、上崎新地で働いているということを。
女将さんから紫織さんと優子が仲良さそうにしていた、という話を聞いたときは、これもまた運命的ななにかなのかと思ってしまった。どこか通じるものがあったんだろう。だから、落ち着くだとか言ってしまったんだよね。
馬鹿なあたしは、それを聞いて勝手に嫉妬したけれど。
幼い頃に菜畑家の養子になった優子にとって、あたしは姉でも家族でもない。そう思うことで、心の平穏を保ち続けた。だからこそ、上崎新地へ来たあとで篠崎旅館で働く女の子が、菜畑さんが『大垣優子』であることを知ったときに、ここを離れずに済む理由ばかりを考えるようになっていた。
仕事が終わっても、用事が無くなっても、そこから離れたくなかったから。
あたしのたった一人の家族と、少しでも長く一緒にいたかったから。
どうしようもなく、気になってしまうから。
優子は、もう菜畑の父と母には会っていないらしい。
皆がバラバラになってしまったなかで、ずっと寄り添ってくれていた女将さんには、感謝してもしきれない。家族と呼べるような環境を用意してくれたのだから。
「だって、姉妹なんだから。…そもそも、編集さんのことを泣かせながら原稿の期限を延ばしてくれるように頼んだの、誰だっけか?」
「その節は大変ご迷惑をおかけしました」
「……分かればよろしい」
今日は、本のサイン会。整理券はすべてなくなってしまい、予想を上回る反響にあたしは少し戸惑いながらも嬉しい気持ちが勝っていた。サインするのはあたしが書いた本。という名の、物語り。
タイトルは『俺が女子高生になれたなら』という、安直すぎる名付けをしている。
今更ながら、あたしがしているのはライターではない。小説家のようなことをしている。
ただし、この作品はあくまでも自分が見てしまった夢の話。あとがきにはしっかりと『この作品はフィクションであり、実在する人物や地名、その他の歴史に関連するものではありません』と書き残した。夢の話なのだから、夢のままにしたほうが綺麗だろうと思ったのだ。
せめて、夢の中だけは自分から逃げてほしくないという意味で、書ききった。
「見本誌読んだけどさ、これ飛鳥の願望?」
「いや、願望というよりは……なんだろうね。願うだけではなにも変わらないってことをひたすら書いてみたって感じかな」
「だって、このヒロインの子ってまるで」
「それ以上は言っちゃだめだよ、加奈さん」
人が見る夢というのは、記憶の整理をしている途中に観る残滓を追いかけているらしい。それはつまり、この作品自体がカケラを集めたものであるということにほかならない。
「まあ、あたしは家族がほしかったんだろうね」
「そういうね、誤解を招くような発言はやめたほうがいいよ」
「どういう意味だよ」
「……分かってるくせにぃ」
「だからさ、もう過去ばかり縋るのはやめたんだ」
サイン会は静かに始まり、順番に読者さんが持ってきてくれた本にペンを入れていく。ただ自分の名前を入れているだけなのに、そんなことを思ってしまうが、嬉しそうにしているので本当なら考える必要もなさそうだ。
時折笑顔を見せながら、ペンを走らせていた。その声を聞くまでは。
「サイン。お願いします」
「ありがとうございます…え?」
「飛鳥……さん」
その顔を見なくても分かった。どれほど待っていたか、どれほど追いかけたのか。
どれだけ、繰り返したのか。
また会える日を待ち望んでいながらも、どこかすでに諦めている自分がいた。もう、きっと逢えないと。
そしてその顔を見た瞬間、あたしは戸惑いの渦の中にいた。ぐるぐると回るそれに、飲み込まれていくような感覚だった。
「優子……ちゃん、か」
「お久しぶりです。飛鳥さん」
女の子ってのは恐ろしいもので、一年もあれば見た目が別人みたいに変わってしまう。それが三回あったのだから、こういうふうに美人になることだって、想像できていたはずだった。
もとから声は紫織さんと似ていたから、そうなるかもしれないとは思っていた。けれど、想像するのと実際に体験するのとはなにもかもが違う。
少女のようなあどけなさが残っていた彼女は、すっかり大人びて綺麗だった。そして、大事なものを守るようにお腹のあたりを撫でていた。
「もしかして、お腹にいるの?」
「はい。今も少し動いてますよ」
「そっかぁ。……おめでとう」
「ありがとうございます」
いろいろと聞きたいことがあった。けれど、今この場で引き留めることはできないだろう。
なにより、優子ちゃんの後ろで待っている人からの視線が痛い。
「あの…このあと時間ある? もしよければ」
「いいですよ。待ってます」
それから約一時間。撤収作業をほとんど加奈さん達に任せて飛び出してきたが、心のどこかでもう帰っているかもしれないなというふうに考えていた。
ひとまず、待ち合わせの場所まで行ってみようと思い向かってみると、公園内にあるベンチでぼうっとしている彼女の姿が見えた。気がついたときには、足が勝手に動いて走っていた。
「ごめん。ものすごく待ったよね」
「大丈夫です。それが飛鳥さんの仕事なんですから」
やがて、どの流れからかあたしに気があるんじゃないかと思っていた疑惑の話を、当事者である彼女自身が口にしていた。
「それじゃあ、わたしがあのとき飛鳥さんに対してもっていた感情は、家族としての意味だったんですかね」
「言われても困る質問はやめようね」
「つまんないなぁ」
「……だって、そんなの聞かなくてもあたしが姉で優子ちゃんは妹、なんだから」
「お姉ちゃん…?」
「はぁい。どうしたの、優子ちゃん」
「…恥ずかしいから、やっぱりやめましょう?」
喫茶店を出ると、道の脇に青の紫陽花があった。今日の朝まで降っていた雨のおかげか、水滴がついているところに太陽の光が反射して輝いていた。
「そういえば、名付けはもうしてるの?」
「はい。女の子が生まれる予定なので『夏菜子』にしようかと思ってるんです」
「自分の漢字を一文字混ぜる感じか、いいね。そういえば、あたし車で来てるから、送って行こうか?」
「ありがとうございます、大丈夫です。迎えに来てくれるみたいなので」
「そっか」
「……じゃあね、飛鳥お姉ちゃん。また手紙、送りますね」
「分かった、待ってるよ。またね、優子ちゃん」
俺は駐車場に。優子ちゃんは近くのロータリーに。それぞれ反対方向だったので、このまま別れる……はずだった。しかし、物事はそんなに段取り良く進むわけもなく。
「あの! 優子!」
そう言って優子のほうを向いて叫ぶと、驚いた顔をして優子ちゃんはこちらを見ていた。なにごとかと、そう言いたげな顔だった。
「なんですか! 急に叫んで!」
「言い忘れたことがあった!」
居ても立っても居られず、あたしはまだそんなに足を進められていない優子のところへ駆け寄ると、彼女の頭の上に手を置いてこう続けた。
「あたしは優子の姉だからな。いつでも頼ってきていいぞ。家族だから」
「……お姉ちゃん」
「あと、あたしが寂しいから優子の写真を撮りたい」
「もうなにそれ。いいけど」
「よし! それじゃ、撮りますよ。はい、チーズ」
カシャという機械的な音が響いた。
「ありがとう。現像終わったら、手紙と一緒に送る」
「うん。飛鳥お姉ちゃんのは撮らないの?」
「ほしいのか」
「その聞き方はずるい」
きっとその瞬間、あたしと優子は本当の姉妹になれた。だからこの先、なにがあっても乗り越えていけるだろう。きっとあの、どこまでも広がる青空のように。
あなたはわたしが好きだけど 六条菜々子 @minamocya
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