第44話 さよならの約束

 ガラス窓のある扉の向こう側で、俺が書き続けていた日記が赤く燃えていた。煙突を通って上っていく黒い煙が、風に乗って流れていく。

 これでいい。俺には、もう過去を振り返る必要はないはずだから。忘れることができないように、手元からそれがなくなれば、視界に入ることがなくなる。だからこそ、灰になるまで焼くことにした。


「すっきりした顔してるな、兄ちゃん」

「おじさん、おはようございます」


 ゴミ焼きをしている俺に話しかけてきたのは、日課となっていた上崎神社へのお参りもとい朝散歩で、よくすれ違うおじさんだった。いわゆる、顔馴染みというやつだろうか。お互いに住んでいるところも名前も知らないけれど、朝のこの時間に神社へ来ることだけは知っていた。


「俺、今日でここを離れることにしたんです」

「……そうか。じゃあ、もう朝にこうして会うことはないんだな」

「そうですね」


 扉の向こうで燃えている火を見ていると、なぜか気持ちが落ち着くような気がした。ずっとそれを見ていたかったが、燃え尽きるのを見るのが怖く、俺は神社へ向かうことにした。俺についてくるようにして、おじさんは横で歩いていた。


 おじさんと二人で歩く境内も、なかなか風情がある。日が昇り始めるくらいの早朝だが、ここに来る人たちは朝が早い。いったい、何時に起きてここまで来ているのだろう。


「優子ちゃんも東桜から出るらしいし、寂しくなるなあ」

「あれ、おじさんと優子ちゃんって知り合いだったんですか」

「ああ。うちによく買い物に来てくれてるよ」


 世間は、意外と狭いものである。まったく接点がないと思っていた俺とおじさんのあいだに、優子ちゃんが関わっていたとは想像すらしていなかった。

 いつも通りに神社の境内を進み、帰るために旅館へ向かっていると、近ごろは毎日見ていたはずの景色に、なぜか寂しさを感じた。それはまるで、誰かが帰るなと言っているかのようだった。実際にそんなことがあったわけではないはずなのに、こうするのが初めてじゃないような、既視感があった。

 きっと、毎日のように見ていたから、当たり前に感じていたのだろう。朝に見る風景が変わることはないと、心のどこかで信じたかった。そう想っていたのだろう。


 日常のどんなに些細なことであっても、永遠や当たり前がないことを、ようやく思い知らされた瞬間だった。



 女将さんに準備してもらった服で身なりを整えて、俺は朝に行った上崎神社へと向かっていた。神社の鳥居をくぐり抜けると先ほどまでとは違い、本殿の周りには神主さんや巫女さんたちが集まって準備をしているようだった。

 ここまできてようやく、俺は実感した。二人は結ばれるのだと。結びの儀式が、これから始まるのだと。


 神前式が始まると、そこからはあまり頭が回っていなかった。ただ目の前に広がる風景を、優子ちゃんのことを見つめるだけで精一杯だった。

 慣れないことをしているせいもあるのだろう。白無垢を着ている優子ちゃんは、とても大人びて見えた。けれど、時々ふと幼い表情に戻るときがあった。きっと緊張で上手く体が動いていないのだと思う。

 やがて中盤にさしかかると三々九度さんさんくどはいが始まり、二人が夫婦として永遠の契りを結んだ。思うことがないといえば噓になるが、儀式が進んでいく毎に心がどこかへ飛んでいきそうな気分になっていた。


 しばらく無心を装って座っていたが、巫女の舞が始まったところで、俺は本殿から出た。なぜ最後まで見たくなかったのかは、上手く理解することができなかった。いや、したくなかっただけなのだろう。



 どれくらい時間が経ったのだろう。本殿近くにある休憩所のような場所で座っていると、目の前に和服姿の女性が立っていることに気がついた。


「もしかして、飛鳥さん?」


 この声は、間違えようがなかった。上崎新地へ来て初めての晩から、何度も聞いた声。もうすぐ見送らなければいけない、声。


「優子ちゃんか」

「どうしたんですか、その格好」

「なにその言い方。どっかおかしなところ、あるかな」

「ありますよ! その、どうして今日は“女の人”なんですか」

「一応、女やってるからな」


 さすがに家から持ってくることはできなかったので、女将さんの協力のもとで色留袖を準備してもらっていた。久しぶりに和服を着たけれど、普段着ではない和装はやはり苦手だった。


「それじゃあ、女装ってわけでもないんですね」

「そうだな。もう式は終わったの?」

「はい。これから集まって食事会をしようって話になってて。もしよかったら、飛鳥さんも来ませんか?」

「……申し訳ないけど、もうそろそろ行かないと電車の時間が迫っててね」


 時間を遅らせることはいくらだってできるけれど、それはやってはいけない。今の俺に、それは禁じ手なのだ。優子ちゃんを見送って、ここを離れる。それだけのために、今日まで東桜の町にいたのだから。

 東桜の町のが点くまでに離れないと、自分に嘘をつくことになるから。


 なんとなく想像していたのかもしれない、と思った。優子ちゃんはなにもそれに対しては言わず、今までの感謝を俺に向けて伝えるだけだった。


「私は、飛鳥さんに出会えて幸せでした。もし飛鳥さんがいなかったら、きっと私はずっとここを出られないままでした。東桜の外に出る勇気を、もらえました」

「もとから優子ちゃんは強かったよ。ちょっと背中を押しただけ。むしろ、感謝するのはあたしのほうだ。前を向くことの大切さを、教えてもらった。おかげで、大事なことを想い出せたよ」


 俺自身が、本当にしないといけなかったこと。それは、忘れるのではなく事実を受け入れること。そして、優子ちゃんから離れること。

 そのために、もうここへ帰ってこないという約束をしよう。ここではないどこかで巡り合うなら、それは偶然ではなく運命だと思うから。


「じゃあ、さ……」

「さよならは、言いません。私と飛鳥さんのあいだに縁があるのなら、またどこかできっと逢えますから」

「それもそうだなぁ」


 気持ちを読まれているようで、少し不気味でかなり嬉しかった。同じことを想ってくれているのかもしれないと思えるだけで、十分満足だった。きっと同じ方向ではなく、別々の道を歩いていくと信じることができたから。

 そう思いたかったから、優子の行動を理解したくなかった。俺が着ていた留袖の端をつまんで、弱い力で引っ張っていることに気づいてしまったから。気づいてしまったことを、気づかないふりをして。そうしていると優子は、そっと手を離した。


「飛鳥さん、また今度」

「……うん。じゃあ、またね。優子」


 走るわけではなく、ゆっくりと歩くわけでもなく。優子は、少しだけ早歩きで俺の前から姿を消した。お互いに『また』も『今度』もないと分かっているからこそ、これ以上は東桜の町へのこだわりをもつ意味がなかった。

 本来交わるはずのなかった線を繋げた張本人は、すでにここを去っている。


 もう、その扉を開くことはない。物語りを終わらせるために、俺はここを離れるのだから。

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