腹黒

ヤチヨリコ

腹黒

 ある日、私の腹に底の見えない穴が開いた。彼氏は「百合ちゃん、腹黒だったんだなあ」と笑っていたけれど、私にとってそれは冗談でも腹が立った。

「なんでそういうこと言うの」

「だって、百合ちゃんが可愛いから」

 そう答えた彼氏は、私の頭を撫でると、私の財布から五千円を抜き取って、「今月、厳しいんだ」と言った。ま、こういうものか、と思う。

 彼氏がお腹の黒いところを触ると、手が黒いところにずぶずぶと入っていって、「百合ちゃんのお腹は底なし沼だあ」と彼氏は盛大に笑った。


 彼と出会ったのは、赤ちょうちんだらけのくっさい飲み屋街。

 次に会ったのは、昼間の駅前の居酒屋。そのとき、私が「じゃあね」と言ったら、私の六畳一間のボロアパートの一室に、「ただいま」と言って帰ってきた。

 彼は小さい頃から脱走名人で、学校から、家から、会社から、いろんな場所から抜け出すのが得意だったそうだ。私の部屋に来てからも、北海道、東京、沖縄、東西南北、西へ行ったと思えば東に行って、北を訪れ、南へ行った。何故か、最後には私の部屋に、「ただいま」って、たくさんのお土産話を両手いっぱいに抱えて帰ってくる。

「あんたはホント帰ってくるねえ」って、呆れて言ったら、

「帰ってくるよ。だって、オレ、百合ちゃんとこの部屋が大好きだもん」

と、笑った。なんの意味が無くても、頬にえくぼを作って、子供っぽく、くしゃっと笑う、そんな彼が好きだ。


 穴が出来てから、どうにも気分が悪くなることが増えた。

 まず、胃の中にぎっしり綿でも詰まっているんじゃないかとも思うような不快感に、内臓を押されるような違和感から始まった。

 数週間経ったら、お隣の夕飯のカレーの匂いを嗅いだだけで、すぐさっき食べた遅めのお昼ごはんをゲーゲー吐いたことがあった。食べ物の匂いや車の排気ガスの臭い、彼がまとった安居酒屋の臭いが鼻をかすめると、胃液が喉のちょっと先まで押し寄せてくる。

 ある日、彼がキスをしようと顔を寄せた瞬間、むせ返るような大吟醸の香りが鼻を突いた。こいつ、昼間から酒を飲んで……など思う間もなく、朝ごはんを吐き戻した。喉にへばりつくわかめに、塊のまま残ったご飯粒。塩分が、舌や喉に染みて痛い。

 「ごめん、無理」と断っても、無理やり唇をくっつけたくせに、舌も入れて、そのくせ、「ゲロの味だ」と顔をしかめた彼を、何度殴れば黙らせられるだろうなんて物騒な考えがよぎったので、忘れることにした。


 彼が穴を覗き込んだ。彼が「小さい猿みたいなのがいた」と言ったので、私の中に何がいるのだろうと言いようのない不安に襲われた。

 病院に行っても病気ではないと言われるばかりで、穴の正体ははっきりしなかった。

 医者でもない一般人にこんな穴の知識なんてあるわけないし、そもそもがこんなものが自分の腹に開くとは思ってもいない。情報を集めようにも、人の噂も不確かで、数日前にこうしろと言われたことが今日になってやるなとも言われるようになる。それが私の胸の不安を増長させた。

 腹の中を泳ぐような動きをする穴の中の猿に文句でもつけてやりたかった。言ったところで私の一人芝居になることは目に見えていたので、心の内で苦情を訴えるだけに留めておいた。こんな穴など消えてしまえ、とも思った。

 猿が憎らしかった。猿こそ全ての元凶だと思いたかった。猿が死ねば、この穴が無くなる。そう思って、布団の中で部屋の天井のシミを数えた。


 穴が出来てからというもの、体調も不安定で仕事になんか行けない。彼氏は、今の私にとって幸か不幸か、平日昼間でも家にいて、こたつに入ってパソコンで何やら文章を書いている。が、この男というものは使えないことこの上ない。

 体を起こせないで、タオルケット一枚かけて、一日中寝ていた日があった。彼には自分で食事を用意してくれと回らない頭で必死に頼み込んだが、その日に限って友人と飲みに行き、帰ってきたのは、午前三時。午前二時頃、私がようやく浅い眠りに入ったとき、終電を逃したと完全に酔っ払った声で電話をかけてきたと思えば、「終電逃しちゃった。迎えに来て」とのたまった。睡眠不足と疲労と体調不良の三重苦の状態で車を運転して迎えに行ったら、へらへら笑いながら、彼は「俺のメシはいいから」と言った。この時間に私に運転させることについて、彼が謝ることは無かった。そんな彼の酒臭い吐息の満ちた車内で二人きり。このときばかりは、猿への殺意よりも彼への殺意のほうが上回った。この車があのコンビニに突っ込んだら、彼が死んで、猿が消えて、私もこの苦しみから開放されるのだ。そう考えると、このアクセルを強く踏み込むことも容易いように思えた。しかし、そんな考えが浮かぶと共に私の両親の顔が浮かんで、だから、彼を殺すのを止めた。


 愛はとうに冷めきり、捨てきれない少しの情で、彼を部屋に置いてやっている。彼は家賃なんか払ったこともないし、生活費も私に渡したことはない。出すものといったら排泄物と吐瀉物くらいか。この男に金を渡すくらいなら、ドブに捨てたほうがどっぷんと音がするからマシだ。そのことに気づいたのは、お腹からプチっと音がして、穴から大量の水があふれ出てからだった。何やら腹痛もする。これはいかん。そう思って、彼に病院に連れて行ってもらおうとしたら、彼は真っ赤な顔で泥酔していた。これはしょうがないと、自分で車を運転して病院に向かった。役立たずの彼もついてきて、私に十分ごとに襲ってくる腹痛を、彼は笑った。腹痛がするたびに停車するものだから、彼はゲラゲラ笑いながら、後部座席から運転席を蹴り続けた。

 運転している最中、穴からぽんと何か出た。市松人形の頭ほどの大きさで、どうやら湿っている。それを抑えながら、ハンドルを握った。腹痛は増すばかりだった。

 ようやく緊急で病院に到着したら、当直の先生に叱られた。その内容は理解できなかった。とにかく、その声が嫌に嫌味っぽくて嫌いだった。

 速攻で手術室に入れられて、分娩台らしいものに乗せられた。そうしたら、しゅぽんと何か出た。それは、エイリアンだった。

「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」

 緑の服を着た女に渡されたそれは、毛無しの猿のようで、酷くブサイクだった。ぬめぬめしていて、赤黒くて生々しかった。

 その後、滅茶苦茶な痛みが襲ってきて、そこから先は覚えていない。


 目が覚めたら、ベッドの上だった。ナース服を着た女に彼はどうしたのかとたずねると、酔いがさめたから帰ると行って帰ったと言った。

 あの男が嫌いになった瞬間だった。いつか刺す、そう決心した。

 腹の穴は糸で縫い付けられて、皮膚が引っ張られて、傷口なんだなと思った。実際の痛みより視界に入ったときの痛みのほうが酷かったので、見ないことにした。

 エイリアンを連れて部屋に帰ると、彼がヘラヘラ笑いながら、「俺のメシは?」と言った。彼のえくぼが憎らしかった。

 死ねばいいのに。はっきり彼に対して思ったのは、これが何度目だったか。もう覚えていない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

腹黒 ヤチヨリコ @ricoyachiyo0

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

同じコレクションの次の小説