繊細な少女は雨に濡れる

くるみ

天気模様

 数日前から雨の日が続いている今日この頃。日付け的に梅雨なのだろうか。夏の始まりを感じさせる日々を送っていた。

 階段を登っていると、踊り場から正面向いた少女が落ちてきた。

 茶髪ミディアムヘアーが空中に舞い散る。ほのかに香る彼女の匂いが耳に触り、細身の少女を受け止める。


「冷たい」


 そして少女の身体はまるで北極の氷山のように物凄く冷え切っていた。


 ***


 少女を抱え、保健室へやってきた。

 偶然にも俺はこの少女と知り合いだった。

 ベットの上で横になっている少女の名前は小野沢おのざわ侑芽ゆめ

 俺と同じクラスであり、簡単に言えば、面倒見の良い根っからの主婦系女子。茶髪と白い肌は彼女の体温と類似するかのようにとにかく綺麗に透き通っている。スタイルはどこを見ても飛び抜けている。だが、それ以外の部分はそこら辺にいる普通の女子高校生。

 それが小野沢という人間だ。


「これは七天神話の恩恵かもしれないわね」

「何ですかそれ」


 保健室の先生がベットで横たわっている小野沢の容態を確認し、結論付けた答えはなんとも現実味のない発言だった。


「七天神話は、日本神話で登場する天気に関する神様が人間に恩恵を授けるという言い伝えよ」


 この人本気で言ってんのか? オカルトチックな話過ぎるだろ。


「ま、あとはよろしくお願いします。俺は運びにきただけなので」

「ちょっと待ちなさい。可愛い少女を置いてどこ行くわけ?」

「帰るに決まってるじゃないですか」

「……もしかして佐伯くん私が言ったこと信じてない?」


 先生に背中を向けて保健室を去ろうとした瞬間、首筋に悪寒が走った。振り返ると、先生は異様な雰囲気を纏っている。目に見えない何かに襲わせているような、精神に訴えかけてくるような圧を感じた。


「分かりました。話だけ聞きますよ」

「よかった。……なら早速で悪いんだけど、彼女を救ってあげてほしい」

「嫌です」


 間髪入れずに解答した。


「即答ね。理由を聞いてもいいかしら?」


 予想していたかのように頭を抱える先生。


「理由も何も、そもそも何を救うんですか」

「だからさっきも言ったでしょ。七天神話の恩恵。今回に関して言えばおそらく、クラミツハでしょうね」

「水とか雨とかの神様ですか?」

「えぇ、七天神話のクラミツハの特徴は恩恵を与えている時に雨を降らす」

「雨を降らすって……」


 ふと俺の頭にある現実が過った。


「そういえばここ一週間ずっと雨降りっぱなしですね」

「そういうことよ。与えられる人間には必ず何かしらの問題がある。悩み、喜び、何でもいいけど人間の感情が不安定になると神様は取り憑く。けど、その問題は人それぞれだから直接聞いてみないと分からないけどね」


 先生はニヤリと悪心の笑みを浮かべる。

 

 ということは、彼女が抱えている問題を解決すれば治るということか。


「ちなみに拒否権はないわ。君が持ち込んだ問題は自分で解決しなさい。いいじゃない。青春の一ページに刻むにはちょうどいいイベントよ」


 果たして本当に先生を信じて良いのだろうか。まず神話の恩恵などという真偽が怪しい伝承を全て丸呑みに出来るわけがない。疑わしい呪い師のような面影を抱いてしまうのは仕方がないことだ。

 けれどきっと選択肢は一つに限られている。


「解決しなくても俺のせいにはしないでくださいね」

「心配しなくても大丈夫よ。君は普通の男の子だから」

「それ褒めてます?」

「優しいっていう意味よ」


 呆れた色に染まった息を漏らす俺に、先生は母性心を擽る綻びを見せながらクスリと目を細めた。


 ***


 少女が目覚めたのはそれから数分経った後の事。


「佐伯くんごめんなさい」


 人生で初めて自分に対するお辞儀を目にした。


「全然大丈夫。小野沢が怪我しなくてよかったよ」

「小野沢侑芽さんでいいのよね?」


 容態に異常がないか確認し終わった先生は、小野沢に記憶の混在がないかも念のため確かめた。


「はい。心配かけてすいませんでした」

「ううん。何かあったら佐伯くんのせいにしてたから」


 先生としての威厳はないのだろうか。


「まぁそれはさておき、小野沢さん、自分の身体に何が起きてるのか自覚してる?」


 先生の言葉に小野沢はドキッと自分に矢が飛んできたかのように驚き、右手を左手で握る。


「それって私の体温のことですか?」


 その後、先生は俺の時と同じように七天神話の恩恵について語った。


「……私の身にそんなことが」

「大体いつ頃からか分かる?」

「えーっと、確か一週間くらい前だったかと思います。風呂場で自分の身体を触った時に気付きました」


 小野沢は何かを企む小悪魔の表情をしながら俺を見る。


「なんだよ」

「佐伯くん、もしかして今エッチな想像してた?」

「するわけねぇーだろ。真面目に話聞け」

「つまんないの」


 適当にあしらうと頬を可愛らしく膨らませ、口を尖らせた。

 彼女はいつもこんな感じである。俺を煽り、手の上で遊び、羞恥心を弄ぶ。

 そして彼女がこういう態度を取る時は──大抵自分を偽って隠そうとしている時なのだ。


「何か心当たりはある? 悩んでること、嬉しかったこと。なんでもいいわ」

「そんなのないですよ。多分疲れてるんです。その神話の恩恵もそのせいだと思いますよ」


 笑って誤魔化しながら対応する小野沢に先生は叱りつけるかの如く強い言葉を放った。


「小野沢さん、これは大事なことなの。実は私もね、過去に恩恵を受けた経験があるのよ。そしてその時、私の友人が命を落とした。要するに私が友人を殺してしまったの」


 過去を悔いるような深刻さを噛み合わせた表情は、俺たちの喉の時間を止める。

 先生の発言は七天神話の信憑性と奇禍性を高めるのに十分過ぎるほどの内容だった。

 そんな俺たちの反応を目にし、先生は本能的に明るく振る舞った。


「あ、ごめんなさい。私の時は運が悪かっただけ。今回もそうなるとは限らないから気にしないで。……でももし何かあった時には手遅れ。だから私たちに何があったのか教えてくれないかな」


 先生は優しく寄り添い、小野沢の返答を待つ。


「俺からも頼む。お前には世話になってるからな。出来ることがあれば何でもやるぞ」

「佐伯くん……」


 結ばれていた彼女の両手が膝上に戻り、冷静を装いながら小野沢は自分の身に起きた出来事をゆっくり話し始めた。


 ***


 典型なお見合い話だった。

 小野沢の家はいわゆる金持ち。大企業の社長を親に持つ──いわゆるお嬢様。

 そしてそんな彼女に突然両親から縁談話を持ち込まれたとのことらしい。相手は父の会社と交友な関係を結んでいる会社の社長息子。名前も顔も性格も、何もかも知らない五歳上の男性。

 小野沢の心の中では持ち込まれた時からずっと反対の意見があった。

 しかし彼女は両親に未だ何も伝えられていない。

 親の命令で今まで生きていたからだと彼女は言った。

 反抗したらどんな対応をされるのか、想像が出来ない。

 怒られるのか、それとも聞き入れてくれるのか。

 どちらにせよ、逆らうことが怖かったのだ。


 ***


「いつ話を持ち掛けられたんだ?」


 保健室から退出し、教室へ戻る最中、彼女の足を言葉で止めた。まだ止まぬ雨を横目に廊下で振り返る小野沢はどこか切ない色を醸し出す。


「ほんの数日前だよ。だから佐伯くんが知らなくて当然だと思う」

「両親に自分から言えないなら、俺が伝えてやろうか? そのくらいなら力になれる」

「やっぱり佐伯くんは優しいね。私とはまるで違う」

「何だいきなり? お前らしくない」


 小野沢は儚げに雫が粘りつく窓に手を添えて、遠い空に見る雨と雲に視線を移した。


「だって私は今まで両親の言われた通りに生きてきた。実際それなりに楽しい人生だったけど、それでもどこか他人とは見てる世界が違うかなって。……佐伯くん、あなたは私だから何でもしてくれるの?」

「もちろんそれは小野沢だか──」


 そう言いかけたところで、小野沢は堂々の構えで左手を腰に置き、右手の人差し指を俺の方向に突き刺した。


「はい嘘。佐伯くんは十中八九私じゃなかったとしても助けてあげちゃう。それが佐伯くんだから。なので気にしないでください。私なりに頑張ってみるから」


 明らかな愛想笑いに何も言い返せなかった。言葉が上手いこと見つからず、見つかったとしても喉から先に出ていかない。

 小野沢のスマホにメールが入る。メールの相手は父親だった。


「ごめん、私もう行くね。これから相手と会う約束してるみたいだから」


 俺は離れていく小野沢の背中をただ見届けることしか出来なかった。

 

 ***

 

 雨は人の感情を重くする。

 まさに見ていてその通りだなと実感した。

 正直、小野沢を問題をどうにかしてやりたいとは思う。

 けれど果たして俺が彼女に問題に首を突っ込んでいいのだろうか。

 先生には彼女を救ってほしいと言われたものの、当の本人には逆にこれ以上関わらないでほしいと遠回しに言われたみたいものだ。これは彼女と彼女の家の問題だ。本当に彼女がそう思っているのなら、何もしないのが一番正しい。

 いや、これは言い訳だ。

 もし彼女の問題を解決したとしよう。その場合、俺はその責任を取れるのか。彼女の両親、婚約の相手やその両親、そして小野沢自身にも俺は誰もが喜べる未来を作れるのか。

 だってこれが彼女の人生で最も幸せになれる世界なのかもしれないのだから。

 ふと頭の中に、彼女の悲しい表情が思い浮かぶ。

 いいや、違う。


(そもそも俺はなんであいつの気持ちに気づいてやれなかったんだ。いつも隣にいたじゃねーかよ)


 心の底から溢れ出す悔しみに、思わず両手を強く握り締めた。

 小野沢が自分の感情を押し殺してる時点で、彼女にとってそれは幸せじゃない。

 その思考に行き着いた時には既に俺は雨の中、正門で車を待つ小野沢の元に到着していた。


「小野沢!」

「佐伯くん⁉︎」


 呼吸を乱し、全身ずぶ濡れな俺に小野沢は迷わず一本しかない傘を急いで差した。


「どうしたの⁉︎ 傘くらい差してきなさいよ!」

「小野沢、お前さっき自分の口で言ったよな。ほんとは婚約したくないって」

「え? 確かにそう言ったけど……。そんなことより風邪引くわよ!」

「そんなことじゃねぇーんだよ!」


 柄にもなく大声を張り、彼女と距離を取って雨の下に身を投じた。


「本当にお前はそのままでいいのか?」


 話の根端に気づいた小野沢は途端に視線を下に落とす。


「もう、どうしようも出来ないのよ」

「俺が知ってる小野沢は自身家で見栄っ張りで鈍臭くて、自由奔放な人間だ。素直に助けて欲しいってどうして言わねーんだよ」

「無理よ。私には両親がいないと。誰かに支えてもらえないと生きていけない」

「……だったら俺がその役目をやる」

「なにをいきなり──」

「これから先、何十年何百年。俺がお前の生きる意味になってるやる。だから俺に小野沢を救わせる権利をくれ。……絶対、後悔はさせない」


 婚約の話を耳にした時から胸の内で何かが引っかかっていた。

 おそらくこれが『恋』という感情なのだろう。

 すると偶然か必然か、徐々に雨の勢いが収まってくる。


「私なんかでいいのかな?」

「あぁ、あとは小野沢の気持ち次第だ」


 小野沢は微かに瞳から雨を零し、小さく頷いた。

 そしてすっかり雨が途絶え、一週間ぶりの太陽が地上に差し込んだ。

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