殺し屋は愛猫家

土御門 響

癒しの時間

 鼻につく腐臭。秋が深まりつつあっても、この臭いは全然マシにはならない。真夏に比べたら、腐敗の速度は落ちているものの、血液と臓腑の臭いが悍ましいことには何ら変わりなかった。


「……」


 携帯から掛け慣れたアドレスに発信する。ワンコールも鳴らないうちに、相手は応じた。


『向かっているところだ。待てないのか』


 運転しながらの通話に苛立つ声。容赦なく、その数倍の苛立ちを孕んだ返事を向けてやる。


「運び屋、到着が遅れているぞ。このままでは巡回の警察に見つかる。あと五分で、このエリアの定時巡回だ」


 遺体袋ボディバッグに始末した死体を詰め込んでも、路地裏には死の匂いが充満していた。国家の犬は妙なところで鼻が鋭い。嗅ぎ付けられたら厄介だった。


『今回の仕事は面倒だったようだな』

「嗚呼。ターゲットが、そこそこの著名人だったせいか、遺体の処理まで押し付けられた。……あの報酬でなければ、蹴り飛ばしていたさ」


 殺し屋は煙草を咥えながら溜息を零す。


『ははっ、それは災難だったな。遺体処理を任せられた俺も災難だが』

「お前の腕は一流だからな。それなりの信用に値する。……だから、巡回が来る前に着け」

『それについては、ご安心……を!』


 ご安心の辺りからスピーカー越しではなく、肉声が聞こえていた。

 滑り込むようにして路地裏に入って来たのは小型トラック。運転席から颯爽と降りて来たのは、腐れ縁の運び屋だ。奴は空っぽの荷台の扉を開けて、早速地面に転がっている依頼物を回収した。遺体の入った袋を、まるで宅配の段ボールでも扱うかのように、手慣れた様子で積んでいく。


「これでよし。……姐さん、この後の段取りは」


 荷台を閉めて、運び屋はのんびりと煙草をくゆらせている殺し屋を振り返る。

 殺し屋は不味そうに煙を吐き出しながら、面倒臭さを隠さずに応じた。


「事前の手筈通りに。しくじるなよ」

「了解。姐さんは」

「私は帰る。……十日振りの帰宅だ。邪魔してくれるなよ」

「そうか。わかった」


 運び屋の運転するトラックが去っていくのを見送った殺し屋は、煙草の火を靴裏で潰して、その場を後にした。


 ***


 殺し屋は女だった。見目麗しく、男は皆、その美しさに振り返るほどの美貌。

 しかし、その瞳には人の情というものが存在せず、どのような残忍な依頼でも、相応の対価さえ支払えば、必ず完遂してみせる。

 高嶺の花。孤高の美女。

 そんな異名で、裏社会では有名人であった。


「ただいま」


 独り暮らしの薄暗いマンションの一室。扉を開けても、迎える者は誰もいない……


「みゃあ」


 訳ではなかった。

 殺し屋は上着を着たまま、靴箱の上に置いてある消臭スプレーを容赦なく全身にぶっかける。煙草の臭いを嫌う愛猫のために、禁煙したいとは思うのだが、人を殺した後は吸わなければ気が高ぶって狂いそうになるのだ。それに、ただでさえ仕事が立て込んでいて、この子に会えていなかった。そのストレスも全て喫煙で紛らわせていたため、臭うのはもう仕方ないことだった。

 帰宅する前に少し歩いて臭いを落としたつもりだったのだが、リビングの辺りから顔を覗かせる愛猫は寄って来ない。どうやら、まだ臭いは健在しているようだった。


「先にシャワー浴びるか……待っててね、シオン」


 すらりとした肢体の黒猫――シオンは、主の言葉に応じるかのように


「みひゃあ」


 と鳴いて、金色の瞳を細めた。


 ***


 汚れ切った衣服を洗濯機に纏めて投げ入れ、適当に回す。その間にシャワーで自らも洗浄していく。徹底的に臭いを洗い流してから、下着だけを身に付けて浴室を後にした。

 リビングのソファに引っかけていたスキニージーンズは履いたものの、上はブラ一枚のまま、殺し屋は座り心地の良いソファにダイブする。背もたれに身体を深く預け、天井を仰ぎ、目を閉じて静かに息を吐き出した。

 十日振りの帰宅で、なんだか室内が埃っぽい。


「みぃ?」


 膝の上に乗ろうとしたシオンを避けるように立ち上がり、殺し屋は苦笑した。


「掃除しないとお前が鼻水垂らしそうだから、待ってね」


 ブラにジーンズという中途半端な格好のまま、コードレス掃除機で室内をざっと綺麗にしていく。そんな主の後を、シオンは健気にも追っていく。

 掃除機の吸引ノズルに、じゃれ始めるシオンを小さく叱る。


「こら。邪魔しない」


 そうは言っても、その声はとても柔らかい。

 シオンと格闘しながら掃除を終えて、掃除機を充電器に繋ぐ。ついでに、シオンのトイレも掃除してしまった。そこまで終えて、殺し屋はやっとシオンの身体を抱き上げた。


「お待たせ、シオン。ただいまぁ」


 素肌に柔らかいシオンの体毛が触れて気持ちいい。シオンも喉を鳴らして甘えてくる。この時間が至福だった。


「……さて、久々に私がご飯出そうか」


 台所の戸棚を開けるも、その中身がほぼ空であることに気付き、殺し屋は半目になった。


「……自動供給機の容量限界までぶち込んで、買って帰るのを忘れたのか」


 留守にしている日数が長くなる場合、指定された時間に自動で付属の容器に餌を排出する供給機を使っていた。今回の仕事は特に長引く予感がしていたため、供給機にセットできる限界まで餌を入れてしまったのだ。そのため、戸棚に餌が殆ど残っていない。


「……」


 足元のシオンを見下ろす。飼い主に似て察しがいいのか、どこか遠い目をしているように見える。


「買ってくるから。そんな悲しそうな顔しないの」


 殺し屋は適当にカットソーを着て財布を鷲掴みした。スニーカーを突っかけた姿は、普通のOLにしか見えない。誰が、この女が殺し屋だと思おうか。

 スーパーまでの道を小走りで進む。幸い真昼だったことから、普通に買い物は済ませられた。深夜でこの事態に陥ったら、一人と一匹で途方に暮れていたことだろう。

 この際に、様々なタイプの餌を買い揃え、ビニール袋を手に帰路を急ぐ。距離を短縮するために、裏道を使うことにした。

 民家の入り組む路地裏を自慢の身体能力で飛ぶように進む。ブロック塀や屋根の上も殺し屋にとっては歩道と同じだ。しかも、足音を一切立てず、気配も絶っているため、見咎められることもない。法も倫理も廃れてしまったこの国において、この程度の真似を咎める人間も少ないのだが。

 その時だった。


「っ!」


 銃声と共に、弾丸が顔面に迫る。殺し屋は髪を一筋犠牲にしてそれを躱す。


「っ、狙撃手スナイパーか」


 弾道から潜伏場所を一瞬で見破り、殺し屋は駆け出す。相手のスコープに移動する姿が映らないよう民家の影を縫うように駆ける。

 そして、辿り着いた小さな雑居ビルの非常階段。錆びついたそれを迷いなく駆け上がる。狙撃手が泡を食って撤退しようとしている物音が聞こえてきた。三階の部屋だ。


「この三流が」


 きっと、賞金首になっているこの身の無防備な姿を見て無邪気に発砲したのだろう。丸腰だとでも思っているのか。跳躍するように階段を上がり、窓を蹴破って突撃する。


「お、お前どうしてここに!」


 銃口をこちらに構えてすらいない時点で勝敗は決している。

 床を蹴って、対応しきれない狙撃手に肉迫。そして、靴底に鉄板を仕込んだスニーカーで思い切り側頭部を蹴り飛ばした。壁に激突し、ピクピクと痙攣している若い男を見下ろして、殺し屋は溜息を吐いた。折角シャワーを浴びたのに、また汗と血で汚れてしまったではないか。


「……はあ」


 腹の底から溜息を吐き出し、殺し屋はジーンズのポケットから携帯を取り出した。こういった事態の時に連絡する相手は一人だ。


「……警部。どうも。ちょっと襲われまして。処理お願いできますか? 私、これから急用がありますので、至急来て頂きたいんですが」


 馴染みの警察官に対応の依頼。巡回に出るような下っ端に見つかると厄介だが、殺し屋は警察とも太いパイプを持っている。このような襲撃の際に上手く協力できるよう、警察との関係性は築き上げてある。


「……はい。ええ。恩に着ます」


 さて、と。後始末を警察に任せ、殺し屋は帰り道に戻る。

 愛しのシオンが家で待っているのだから。


 ***


 殺し屋は缶詰にがっつくシオンが、喉に物を詰まらせて吐き戻さないように背中を撫でてやる。


「そんな焦って食べなくても、盗りやしないって」


 そう言うも、必死に食べる姿は何となく、生き急ぐ自分を彷彿とさせた。


「こんなところまで飼い主に似なくていいのに」


 肉親に犯され、肉親を喪い、もう人を信じることは出来ない。

 だから、この美しい殺し屋は唯一の情を、愛を、愛猫シオンに注ぐ。彼女が、人の形で在り続けるために、シオンは存在する。


「……大好きよ、シオン」


 決して他人には見せない慈愛に満ちた表情を向ければ、シオンは顔を上げて嬉しそうに鳴いた。

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