九月末(初秋)

 九月末。秋終わりまで部活動を禁止されているテニス部は、自主練と称して隣町の合宿所を貸し切っていた。その日は海の近くの運動場にてバスケットボールで体を温めた帰り、花火を持って夏の終わりの海に訪れていた。

 陽は昨日、トレーニングの一環でパルクールを行った際に足首を痛めてしまっていた。全治二週間。そのトレーニングでは部員の二割が怪我をした。身体の痛みに堪えながら、活動停止中に無茶なプランを組んだ部長を全員が恨めしく思ったが、その夜のキャンプファイヤー中に燃え盛る薪の上を歩いて火傷を追った瑞海の奇行があり、それが大ごとにならなかったことに安心した部員は全員、もう誰も何も思わないし言わない。

「阿須賀と雪見はそこで花火でもやってろ。おまえたちは怪我してんだ、馬鹿な真似すんなよ」

 バーベキューの準備をするのに、他の部員たちは海端で走り回っている。その日の陽の当番は、怪我をした瑞海の見張りのようなものだった。瑞海はつまらなそうに生返事をしながら、砂辺に身体を投げ出している。足裏から膝にかけてまあまあな火傷を負っていて、歩けるが海には入れそうにない。

「瑞海、なんであんなことしたの」

 陽はとなりに腰掛け、足首をさすりながら聞いた。

「愚問だよ、雪見くん」ふざけている。「やりたかったからやった、それだけだ」

 この話は火炙りキャンプファイヤーのことではなく、昨晩瑞海が起こした枕切り裂き事件のことだ。就寝時間が過ぎた頃、瑞海が急に部屋中を走り出し、片端から部員全員の枕を切りつけて中身をぶちまけた。あまりの奇行ぶりに後輩たちは縮み上がっていたが、状況に慣れている同級生や先輩はゲラゲラ笑ってそこから枕の中身ぶちまけ大会になった。瑞海は最後に陽の枕元に立ち、寝転がる陽の顔のすぐ横にカッターを突き刺したあと、「俺がジャックだったら、お前はすでに死んでいる!」といって笑った。枕の羽舞う中、瑞海の顔を見上げた陽は、どうしようもなく楽しくなってしまった。

「奇行だよ、マジで」陽はそう言ってペットボトルの蓋をひねった。「あの時は、なんだったの?」

「ジーザス・オブ・サバービア」瑞海は気怠そうに答える。

「グリーンデイ?」陽は声が高くなった。最近の流行りだ。

「最近グリーンデイばっかり。ハマり過ぎたかなぁ」

 やばいな、と細く言って瑞海は寝返りを打った。危機を感じているとは意外である。

「キャンプファイヤーの時はアメリカン・イディオット。まずったなぁ。高揚感で痛みを感じないから、怪我もするし。誰かに怪我をさせたりしたら、それこそ本当に困る……」

 その弱々しい声を出す背中を眺めていると、正体のわからない焦燥に駆られた。それこそ、ジーザス・オブ・サブリビアのBサビを聞いている気分だった。瑞海の色の薄い髪が潮風になびく。海の音、夏の匂い、彼の首筋の汗。その瞬間を切り取ってしまいたいほど、絵になっていた。

 果たして自分は、瑞海になりたいのだろうか。それとも、彼と同一になってしまいたいのだろうか。陽が黙っていると、瑞海は身体を反転させ、陽の飲みかけのスポーツドリンクを何も言わずに口付けた。赤い唇と舌が指の近くで動き回って、そのまま彼の顔が陽に近く。身体の芯が熱くなるのを感じた。

「ありがとう」

 自分は、瑞海の世界に浸りたいのだろうか。それとも、彼の能力がほしいのだろうか。目の前で友人たちの砂音に唇を尖らせながら夏棒に火をつける彼の、いったい何に焦がれているのだろう。彼はこうしていれば等身大の自分となんら変わりないではないか。なぜ、彼の魅せる世界は、自分だけをこうして引きちぎるのだろう。どうして、鮮血なんかを見せるのだろう。否、これは焦がれなのだろうか。何とも言えない不可思議な思いは、陽の喉と腹を焼き、内臓を潰していく。瑞海が花火を手に持った。陽に見せながらくるりとその場で回り、閃光を見せびらかす。

「振り回すなよ」

「陽もやる?」

 陽は瑞海が足で押してよこした夏の束の中から、細くて長い一本を取り出し、ライターであぶった。まとめて三本ずつ振り回す瑞海を横目に、緑色の火花がバチバチと音を立て、陽のすぐ足元に落ちていった。瑞海は無邪気に笑いながらねずみ花火と追いかけっこをしている。ああしてると本当に普通のバカな中学生だ。数方先でバーベキューセットを運んでいる同輩たちがこちらを見て、「瑞海あぶないよ」「気を付けてねぇ」と声をかけている。陽の心臓はなにかに縛り付けられているように身動きがとれなかった。

「ねずみ花火楽しいぞ! 陽もやろうぜ」

 花火に追われていた瑞海が堰切らしながら戻ってくる。腕の包帯が緩んでいた。何故か腰に浮き輪もつけている。

「見てるだけでいいよ」

 陽がそう言って長袖を着ると、瑞海はにやりと微笑んで花火の袋をあさり始めた。

「わかったよ。陽はもっと派手な花火が見たいんだろ。仕方ないな、これは特別だぞ。本当はバーベキューの最後にやるはずだった大物だ」

 そう言って瑞海はその袋の中で最も存在感のある噴出花火を手に持ち、石と混ぜて砂の中に埋めた。陽は瑞海の腕の、風になびいて火がうつりそうな包帯が気になって無言で結びなおした。瑞海は陽の目を見てにこりと微笑んだ。陽の体温が一つ上がった気がした。

「火つけたら離れろよ。こいつ、二十メートル上がるって」

「あいつら怒んないか?」

「まあ、いいじゃん別に」

 そう言って瑞海はライターを鳴らした。風になびいてうまくつかなかった。彼は何度か「あちっ」とつぶやいた。陽は彼の手元を自分の両手で覆った。瑞海はありがと、と短く言った。すぐに火が導線へ回った。

「陽」

「なに?」

「ごめん」

 表情は伺えなかったが、その性急な一言に陽は本能的な身の危険を感じた。逃げろ、の意を含んでいたようにも聞こえた。筒花火がバチバチと音を立て始めたと同時に、陽は駆け出す。花火が大きな音を立てて噴出した。その鮮やかさに思わず声をあげる。すると、砂の向こうから友人たちの声が聞こえた。

「お前ら! それ、最後にとっておいたやつだろ!」「ふざけんなよ!」「陽、ちゃんと見てろよな!」「おい、瑞海、いい加減に……」

 口々に叫ぶ声が止まった。息をのむ音がした。陽の目にも、瑞海が噴出花火から流れ出る火花に手を伸ばしているのが見えた。その手には威力のあるであろうロケット花火が握られている。誰かの抑制を示す絶叫もむなしく、瑞海はロケットに火をつけ、破裂音を立てて火花をちらすそれを、思い切り海の家めがけて投げた。海の家は瞬時に炎に包まれた。

 青い光。爆音。海のにおい。陽は叫び声をあげる余裕もなかった。瑞海が腕を伸ばす。指先がひらりと輝いて、紫の空に溶け込まない。瑞海が振り向く。汗のかいた肌が潮風になじんでいる。陽を見つめ、少年はにこりと笑った。

「やばい、どうしよ」

 心臓が手でひねりつぶされる感覚に、陽は息もできなかった。しかしそれは正しく高揚で、その美しく凄惨な情景を的確に表す言葉を陽は知らない。目の前の狂った少年にうつる花火の残像たちが、華やかに夜の海に罪を重ねていく。煙が宙に舞う。友人たちが怒声と共に、消火に砂をかけていく。陽は瑞海の明るく潤む瞳から目が離せない。そして、その妙な高揚がじくじくと扇情に変わっていくのを必死で抑制した。逆らえない。陽は膝から崩れ落ち、砂浜に手をついた。

 なんて美しい。そして、狂っている。

 どうしようもない。自分は、心臓の奥を彼に奪われている。逃げられない。彼を客観的に見ることができない。その美しさに、行動に、魅せる世界に、自分の奥底は抒情に感動してしまうように作られている。

 絶望と高揚の間で激しく揺れ動く陽の手を取る、その少年は酷く美しく、そして狂っている。陽はつう、と右目から涙を流れるのを感じた。嘔吐してしまいそうなほど感動して絶望していた。そして、手を取り合う二人は綺羅月の映えるテトラポットにつめのぼる。

「瑞海」

 宵の明星に映る瑞海が戸惑った顔をしている。

「俺と行こう」

 瑞海はあっけにとられている。世界の色は金色。闇に溶けない暁のゴールド。世界の終わりを告げるオレンジと、清涼な青春を切り取る瑞色。

「この街から出ていこう」

 花火の残り香と、潮風の夏。

「自由になりたいんだろ、俺が連れていくよ」

 堕ちていく高揚感と、隆起に似た絶望。

「一緒に行こう」

 彼の見る世界が、たとえ地獄であっても構わない。

 陽は瑞海の手をとって、にこりと笑った。

 お前と一緒なら、どこだって自由だ。


 朝帰りした翌日の土曜日、家に学校から電話連絡が入り、陽は月曜から十日間の自宅謹慎処分になった。息子が真面目に育ったと思っていた両親はそれなりにショックを受けたと思う。母は朝帰りした陽に、静かな声で「なにか報告することはないの」と尋ねた。陽は素直に昨日の晩海辺に行ったこと、今まで部活の友人と一緒にいたことなどを話し、迷惑をかけてしまったことを謝罪した。母は冷静だったが、怒りもあったと思う。「青春は短い。死なない程度に楽しめ」と笑っている父の背中を見たこともない重さで殴っていた。自宅にいる十日の間は、多少の勉強のほか、まだ幼稚園に通っていた弟の送り迎えと、母の家事手伝いをした。坂口たちの中で、放火した瑞海と夜通し一緒にいた陽の処分が最も重く、ほとんどのメンバーは三日から五日で謹慎が解け、陽よりも一足早く復学した。

「あと何日残ってる?」

 五日目で復帰した坂口から電話がかかってきた日、陽は母の代わりに作ったホットケーキを丸焦げにしてしまい、弟に食べさせる部分をこげの中から掘り起こしているところだった。「お前、案外良い主夫になれるな」坂口は呆れつつ笑っていた。

「悪かったよ」陽は言った。

「お前だけのせいじゃねえよ」坂口はそう切り捨てる。「瑞海を野放しにしたのは全員の責任だ」

「野放しって……」動物じゃないんだから、と陽が言っても、電話の奥の坂口は笑わなかった。

「あいつ、どうやら処分が重いらしいんだ。誰が連絡しても出ないし、先生に聞いても教えてくれなくて。何日の謹慎処分なんだろうな」

 一年留年させられるんじゃないか、という坂口を、義務教育だからそれはあり得ない、と陽が言うと、そのタイミングで坂口が笑った。

「お前、親が驚いてないか。真面目で勤勉なお前が十日の謹慎処分だなんて、クラスメイトの何人かだって信じてないよ」

 陽だって信じられない。瑞海に出会ってからの半年、陽の人生は信じられない速さで流れていき、夢の中のような日々を見せられている。初めに出会ったときは変わったやつだと思ったが、彼の持つ独特の世界観、あの表現力、寒気のするほどのテニスのセンス。連れている音楽。すべてが新しい光をもって新鮮な匂いで過ぎていく。昨日のあの夜の花火も、燃え上がる炎も、全部瑞海の作品なのだ。そして自分たちは、少なくとも陽は、その一部になることを望んでいた。

「お前ら、結局どこに行ってたの?」随分探したんだぜ、と坂口が言う。「二人でぶっ飛んで、海にでも飛び込んじまったと思った」

「それは、別にいいだろ。生きてんだから」陽は弟の世話があるといい、電話を切った。

 昨晩、本当は、町の駅に向かった。本当にそのまま、町から出ていくつもりだったのだと思う。瑞海の自転車に乗って、十分交代でこいで、いろんな話をした。これから向かう場所の話、行ったことのない「東京」という街の話、瑞海があんまり好きでないアーティストの音楽について、陽が好きなクラシック名曲の名前あて、次に変えたいラケットのブランドとテープの色、今まで見た中で一番気味の悪かった映画の評価、グリーンデイ以上のバンドが出てこない理由、将来行きたい国、イギリス人についてどう思うか、水道水を飲めるかどうか、緩やかな自殺について、なぜXのHIDEは死んでしまったと思うか、近未来にAIロボットは出てくるかどうか、自分たちは財布をどこに忘れてきたのか。駅にたどり着くと、瑞海の予想通り、電車はとうに終わっていた。あげく二人に手持ちはなく、仕方なく薄暗い駅前通りで一晩を過ごした。瑞海は陽をどこへも連れていけなかったことを謝り、彼の頭の中で流れる音楽の話をした。その日、灰色だった陽の世界に、その視野に、淡いオレンジ色が灯った。また高揚していく気分は心臓に矢のように突き刺さり、その奥底に深く深く落ちていった。それにわずかな抵抗を感じながらも、落ちていく奥底には物理的に手も届かない。あの夜の気持ちを、なんと表現するべきなのだろう。そして次にあの瞳を見つめたら、なんと声をかけるべきなのだろう。

 陽は瑞海の個人的な連絡先を知らなかったので、連絡をしなかった。瑞海が携帯を持っているかどうかも知らなかった。次に会うまでの時間がこんなにいとおしく思えたことはない。次に会ったらどんな話をしよう。連絡先を聞くついでに共に何をしていたのか聞こうか。不自然なことに陽はできればこの謹慎期間がもう少しだけ長く続き、あの夜の輝きをもう少しだけ自分だけのものにしていたいと、眠りにつく弟の頭をなでながら、空気が半分しか入っていない脳の片隅でそんな風に考えていた。


 しかし、復学した陽が、瑞海と会うことはなかった。

「阿須賀瑞海は、転校となりました」

 瑞海の正式な処分を聞いたのは、陽の謹慎期間が明けたその日だった。謹慎処分を食らったテニス部の全員が校長室に集められ、彼の処分を知った。義務教育下での退学処分を信じられなかった陽は、何故そうなったのかと直接担任に理由を尋ねた。

「正確にいえば、退学処分ではありません。義務教育には存在しない処分だからね。阿須賀は裁判を受けることになります。その気がなくても、今回の事件は放火罪になる」

 放火罪、と聞いたとたん、陽は血の気が引いて行くのを感じた。どんなに美しく価値のあることにも、法には勝てない、と、表現できる逃げ場がとても狭いように感じた。自分たちはあまりにも無知だった。世間を、大人を、ルールを、自分たちは何も知らなかった。

 いや、知らなかったのではない。おおそれたことではないと思っていたのだ。瑞海のあまりにも美しい表現力は陽にとって善だった。あの美しく価値のあるものが禁忌なわけがない。後ろめたいものはなにもない、寒気がするくらいの魔力は、彼の自由な姿は、陽にとってすべてが善であった。甘かった。未熟だった。自分だけは、あいつを止めなかった。彼の古くからの友人たちは、この結末を知っていたのだろうか。こうなる可能性を、わかっていたのだろうか。

「それで、あいつ、どうなるんですか」

 陽は恐る恐る聞いた。犯罪をおかして退学になった中学生の末路が想像できない。担任は、ため息をついて、少し考え込んだ。真実を伝えるか迷っているようだった。

「まだ正式ではありませんが、留置後に処分が決められるでしょう。大抵は、数ヶ月から数年の再教育機関に送られます」

「というと?」

「少年院です」

 少年院。何も知らなかった中学二年生の狭い視野には、トンカチで殴られるほどの強い衝撃だった。つい、この前まで、屋上で一緒に遊んでいた友人が、試合を見ていた仲間が、犯罪を償うために、少年院へ行く。

「あの子が少年院に行った話は、すぐに広まると思う。雪見だから言うけど、阿須賀は部活の子達は無関係だってずっと言ってたわ。真意はさておき、あなたにだけでも、そのことは知っておいてほしいの」

 女の人って、なんでおしゃべりなんだろう。自分だから言うということに、なんの意味があるんだろう。案に彼女は、「誰にもいうな」の意味を込めていたのだと思うが、無理だった。陽は教室へ戻るなり、テニス部のメンバーを何人かを呼び、瑞海の本当の処分と彼に最後に守られたことを咳切りながら伝えた。みんな瑞海のことを友人として、仲間として、大事に思っていたはずだった。しかし、数秒の沈黙の後、彼らから返ってきた言葉は思いもよらないものだった。

「ああ、良かった」

 陽は耳を疑った。そして、その表情がひどく安堵であることにも異議があった。果たして、折檻されなかったことに対しての良かった、だろうか。それとも彼が牢屋にぶち込まれなかったことに対してだろうか。目の前の友人達の何人かは苦笑いしていて、そのほかの何人かは青い顔をしていた。

「ようやくか」

「普通の学校じゃ手に負えないのにな」

 そういった彼は、小学校から瑞海と一緒のやつだった。陽は驚きのあまり声も出なかった。

「怖かったよ。いつどうなるかと思ってた」

 そういったのは、謹慎中に電話をかけてきた彼だった。瑞海の処分のことを心配していたはずだった。

「いつか人とか殺しそうだった」

 人を殺す? 陽は理解出来なかった。瑞海の不和を受け止めることはあんなにも簡単だったのに、彼らの発言は何も理解出来なかった。友人が少年院に行ったのだ。それを、「良かった」?

「テニス部にとっちゃ多大な戦力だったけど。まぁ、これからレギュラー枠があくから、チャンスだ」

 何人かが同意する。後ろで青ざめた顔をしていたやつと目が合う。陽は縋るようにそいつを見た。

「雪見、それ、危なかったよ。瑞海が下手なこと言ってたら、お前も少年院行きだったかもしれないんだぞ」

「確かにそうだ。陽は中体連の時といい、今回といい、時折巻き込まれていたからな。言い逃れも難しかっただろう」

「陽だってそう思うだろ。これでよかったんだよ」

 彼らの言葉に、陽は閉口することしかできなかった。悪心がどんどん強くなった。クラスメイトたち、部活で同じ場所で汗を流した人たちがすべて悪魔に見えた。陽は耐えられずに学校を早退し、家へ戻ってきた。

「陽、学校どうしたの」

 部屋に辿り着く前に、母に声を掛けられる。陽はゆっくりと振り返った。

「母さんは、喜ぶかもしれないけどね。もう、いないよ」

「いない?」

「瑞海が少年院に行った。放火罪だって」

 母の顔が、みるみる歪んでいく。目の前の人がすべて悪魔に見える。

「ねぇ、言わないの?『良かったわね』って」

「言わないわ」母の声がする。「言わないわよ。全然、良くないもの」

 陽は押し黙った。母と話し合う気分ではない。

「あんたね、あんただって、危なかったんだから。そんな友達と一緒にいたのよ。怖くないの? 言ったじゃない、今までだって……」

「説教するなら後にしてくれる? 今は聞く気分じゃないんだ」

「陽!」

 母の声に立ち止まる。陽は胸の奥がぐう、と締まるのを感じた。

「あんた、悲しいの。悲しいのね」

「当たり前だよ! 友達だ!」

 生きてきた中で、一番大きな声が出た。火ぶたを切ると、もう止まらなかった。

「みんな言うんだ、あいつがいなくなって良かった、って。俺がおかしいの? 良かったって思えないおれが悪いの?」

 ばらばらと、抱えてきた思いが飛び出してくる。瑞海の顔。声。表情。変なふりをして、本当は年相応の悩みがあるところ。陽にとってはすべて愛おしかった。

「なんだよ。どいつもこいつも。知ったふりをしやがって。瑞海のことを、わかったように言うんだ。何も知らないくせに。あいつのことを、何も知らないのに」

 誰かに理解されなくてもよかった。けれど、自分の思いを否定されたことに、彼への気持ちを踏みにじられたことに、もっと早く声を上げたら良かった。後悔するが、もう遅い。

「みんなは阿須賀くんを、友達だと思えなかったのね」

 涙の止まらない陽に、母がゆっくりと近づいて、静かな声で言う。

「母さんが最初そう言ったんだ」

 陽はその手を払いのけて叫ぶ。

「友達のふりをしていろって。みんな、そうだったんだよ。誰一人瑞海の友達なんかじゃない。瑞海だってわかってた。あいつは、なにもかもわかってた」

 すると母は言った。

「あなた、悲しいのね。ようやく、気持ちがわかったわ」

 その言葉を聞いて、陽は自分を許せないと思った。誰にも疑われたくないばかりに、踏み込まれたくないばかりに気持ちを隠していた自分を、奥歯ですりつぶした。しかし言葉にはならない。周りから異常と思われたくない自分はただのクソムシだった。いっそのこと、自分を共犯にして一緒に連れて行ってほしいとさえ思った。一緒に町を出ようと言ったじゃないか。心の奥で本心を振り絞っても、もう、決して、瑞海には届かない。

 母がカーテンを閉める間、陽は渡されたタオルに顔をうずめてひっそりと泣き続けた。鼻を衝くさびた洗濯機のにおいで、目頭の熱が上がった。嗚咽しか出ない自分を情けなく思った。母の優しい声色が惨めに刺さった。そうだ、自分は、悲しいのだ。クラスメイトたちと分かり合えなかったこと、そんな友人たちになにも反論できなかった自分、瑞海を失ったこと、彼に関わるすべて。

「おれはこの世界で一番自由になる」

 翌日陽は、テニス部に退部届けを出した。もうこれまでと同じようにはやっていけないと思った。同級生や先輩の何人かが陽を説得に来た時は強制退部だと嘘をついた。顧問の先生たちは嘘を察してくれたようで、先輩が本来の理由を尋ねてくることは二度となかった。陽も、誰にも本音を言うつもりはなかった。

 その日あたりから、陽の見える視界には色がなくなった。全ては灰色で、音はよく聞こえなくなった。まるで水中のようだった。クラスメイトの魚たちは、みんな青春という名の水槽で楽しそうに泳いでいる。自分も、彼らと同じふりをして泳ぐ。あの儚い衝動の思い出に、ふり回されることが二度とないように。何もかも、奥底に沈めて。

(了)

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