九月中旬 (残夏)
大会ではトップスリーが県大会に出場する。団体戦では、陽たちの学校は三年生の活躍もあり、準優勝に収まった。個人戦では、陽たちのペアは三回戦まで勝ち進んだ。あと一回勝てば県大会出場、というところで昨年優勝ペアに当たってしまい、一セットも取れずに負けてしまった。その時点で残っていたのは瑞海のペアと部長のペアで、どちらも四回戦を突破し、準決勝に進んだ。次の試合に勝てば県大会が決定する。勝てなかった場合は、敗者決定戦に進み、そこでまた勝った場合も県大会が決まる。瑞海がペアを組む相澤は、前の試合の興奮が収まらないのか妙に殺気立っていて、空き時間に休憩もせずにコートの外周を走り回っていた。陽が瑞海を見かけたのは、人気のない野外トイレの入り口で、フレームヘッドに詰まった砂を穿り出していた。
「瑞海」
声をかけると瑞海が顔を上げる。いつもと変わらない様子だったが、浮かない表情をしていた。
「さすがだな。次、勝ったら県大会だね」
「そうだな」
その声にも覇気がない。妙に思ったので側に寄ると、瑞海は顔を上げて明るい声で話し出す。
「試合、見てたよ。原田の前衛からショットで一点取ってたな、見事だったよ」
「負けちゃったけどね。残念だけど、留守番隊だ」
瑞海は団体戦のメンバーなので、県大会への出場が決まっている。陽は団体戦のメンバーではないし、個人戦でも出場できないため、県大会は居残りとなる。瑞海の活躍を県大会で見ることができないことを残念に思っていた。彼の実力であれば、県大会も通過し、全国だって目指せるだろう。きっと、すぐに有名になる。あっという間に、自分の手の届かないところに行ってしまうだろう。
「相澤がコート周り走ってたよ。気が立ってるみたい」
「そうか」瑞海は再び視線をフレームに落とした。
「がんばれよ」裏腹な言葉が出た。
瑞海から返事はない。するとその瞬間、瑞海が立ちあがって、ラケットを野球の素振りのような体制で構えた。そして、思い切りスイングする。ガンッ、と鋭い音が響いた。ラケットを、トイレの壁に打ち付けたのだ。長い柄のラケットはその一発でほとんど砕け、二度目でボッキリ折れてしまった。陽は声も出せず、ただ瑞海を眺めた。血の気が引くのを感じた。瑞海は振り返って、笑顔を見せる。
「これで行けないね」
にやり、と瑞海が笑ったとき、陽は全身総毛立つのを感じた。
「おれ、陽が行かないなら、どこへも行かない」
心臓が口から出そうなほどの音を立てる。
「おい、どうしたの?」
すぐ近くを通った同級生の部員が何人か、瑞海の姿と無残に飛び散ったラケットを見て引き攣った声をあげた。内一人が弾けたように踵を返して先輩達を呼ぶために走っていくのが目の端に見える。
「阿須賀、次、試合だよ」
うちの一人、隣のクラスの坂口という部員が声をかけてくる。驚きを隠せないような声だった。
「うん」瑞海の表情は変わらない。「ラケットが折れたから出ない」
「ラケットなら、オレの貸すよ」
「要らない」
瑞海は淡々と答える。陽は声を出せなかった。心臓の音がどんどん早くなる。その音は、驚きと、焦燥と、それから、これはなんだろう。
「次、勝ったら県大会だろ」坂口の声には怒りが籠っている。「何してんの。いったい、どういうこと?」
坂口は陽を見る。睨んでいるようにも感じた。
「いったい何があった。阿須賀は、いったい何を……」
坂口も青ざめて震えている陽を見てそれ以上は何も聞けないようだった。
「言ったじゃん。出る気ないよ、って」
瑞海は笑っている。バラバラになったラケットを拾い集めて、指でガットを押さえつけている。すぐそばで蝉が、鼓膜を劈くような音量で鳴いている。
「もう、飽きちゃった」
そうして、酷く整った顔で笑っている。坂口は何も言い返せず、目を見開いて立ち尽くしている。その時、大勢の足音がして先輩達がやってきた。誰もが険しい剣幕で、現場の惨状を見ている。その中から一歩、高橋部長が踏み出して、瑞海の顔を平手で叩いた。
「いい加減にしろ。お前の気紛れで大会を台無しにするんじゃない」
静かな怒声が響いた。瑞海の目は部長を見ていた。高橋部長は陽を見た。
「雪見、ラケットを。瑞海と同じものだろう、使い勝手もマシなはずだ」
差し出された高橋の手に、陽はラケットを渡せなかった。自分でも驚いた。ここで渡すべきなのかを迷った。渡すべきではない、とさえ思っていた。
「雪見」
部長が顔をしかめる。ほかの先輩達の視線も陽へ移った。自分のラケットが打ち砕かれることを懸念したわけでも、策があったわけでもない。陽はただ、自分のラケットを抱えたきり、それ以上動けなかった。
「どうした」
高橋部長の声に、心臓が高鳴る。部員全員の目線が陽に注がれている、その事実に背中から汗が伝った、瞬間。ずぐっ、と深く嫌な音がすぐそばで聞こえた。何人か声を上げる。瑞海が砕けたラケットの破損部で、自身の手のひらを貫いていた。真っ赤な鮮血が、瑞海の腕から見たこともない早さで流れ落ちていく。陽は息が止まったと思った。駆け込んできた相澤が血を見て倒れ、何人かがざわつく。瑞海がラケットを手から引き抜き、もう片方の手に突き立てようと振りかぶった瞬間、怒号が飛び、部長と何人かが瑞海を押さえつけにかかった。先輩たちに思い切り抵抗する瑞海は顔まで血まみれで、その目は獣のように爛々と輝いていた。陽は、自分の心臓を高鳴らせるそれはもう緊張や驚き、焦燥ではなく、一種感動に近い興奮である事実に、陽はラケットをかかえたまま、その場にへたり込んでしまった。
この騒動により、双葉高校は残りの試合含み、県大会出場も辞退となった。夏の大会を最後に引退する不完全燃焼の先輩達が瑞海を殆恨み、彼の除名退部を顧問に申し付けたが、部長の最後の温情でそれは果たされなかった。瑞海の一件は公共の場での治乱騒ぎと名を変え、それ以降約三ヶ月、テニス部は活動の許可を得られなかった。当然その話は母の耳にまで入り、すぐに彼について尋問を受けた。
「阿須賀くんのこと聞いたわよ。あんた、一枚噛んでるそうじゃない」
部活から帰ってすぐ、部屋に戻る前に母に呼び止められた。陽が自分の本心を隠すことに長けていたのは誰かの過干渉から自分自身の気持ちや感情を守るためだった。けれど、瑞海の騒動を経てからそれも難しくなっていた。特にその日、瑞海の名前を出されたとき、いつもの笑顔をできなかった。陽は数秒黙った後、言葉を選ぶ余裕もなく話をした。
「なんでなにも言わないのよ」
「俺は暴れまわってる瑞海を見ていただけ。そりゃ、ちょっとびっくりはしたけどさ、特に報告するようなことでもないでしょ」
母のきつい言葉に、陽はいつものように態度を取り繕うことができず、早口でまくし立てるように話す。その様子に母も異変を感じたのか厳しい言葉を続ける。
「そのせいで中体連も出場取り消しになったそうじゃない。あんた、一生懸命練習してたんじゃないの?」
母が言葉を詰めてくる。陽は張り付いた笑みを浮かべながら懸命に取り繕う言葉を出す。
「元々俺は団体戦も出ないから、県大会には行けなかったよ。それにまだ一年生だし、これからもいくらだってチャンスが……」
「あんた、なんか変よ」
「なにが?」
「瑞海、って名前で呼んでた」
しまった、と思った。慌てて顔を背ける。瑞海のことを、これ以上指摘されたくない。たとえ母や周りにとって気に入らない相手であっても、自分にとっては大切な存在だから。
「部活のメンバーはみんな名前で呼ぶよ。そいつだけじゃない」
「とにかく、阿須賀くんとは距離を置いて生活しなさい」
なぜそこまで踏み込んでくる。陽は怒りに冷静さを失ってしまった。
「クラスメイトで同じ部活だよ。近しくなるのも無理はないでしょ」
「世の中には関わらない方がいいことだってあるの」
「それが瑞海ってこと? 言ったでしょ、あいつは普通なんだよ」
「ラケットで手のひらを串刺しにするような子が普通だっていうの? あんた、どうかしてるわ!」
母の空を切るような怒号が飛ぶ。陽は押し黙った。その騒ぎに、リビングから滅多に口をはさんでこない父が顔を出した。幼い弟も一緒に、不安げな顔をのぞかせている。
「どうした?」
「俺の友達が変だって話。けど、彼が変だからって、俺には何にも影響がない。だからこの話はこれで終わり。もういいよね?」
母の呼び止める声も押しのけて、陽は家の外に飛び出した。瑞海のことを理解しない人がいるのはわかっていたが、それが肉親ともなると話はべつだ。なぜ自分以外の誰かに、自分が最も愛する友人と付き合うことを阻害されなければならないのだろうか。確かに彼は変わっているけれど、その内面を知っている自分からすれば両親の心配は杞憂なのだ。陽は悔しかった。瑞海の派手な行動は噂を作りやすく、噂は事実があまり重要視されないので誤解を生みやすい。まだ中学生の陽に、その絶対なる世間の認識に打ち勝つすべを思いつくことはできない。それでも陽は、自分の意思に基づき瑞海と距離を置くことはしなかった。瑞海と陽の誓い合った、自分の気持ちに嘘をつかないという自由に基づいていた。
夏の風が秋の雰囲気を連れて来る頃に、瑞海と高橋部長が懇意であるという噂が漏れた。原因となった理由は見て取れた。引退した高橋部長の、瑞海に対する入れ込みが尋常でないことを、陽を含めテニス部全員がわかっていた。
「高橋先輩だ。塾の帰りかな」
窓辺に頭を預けながら、風に髪を遊ばせている瑞海を、陽は眺めている。するとすぐに目が合って、にやりと微笑み返される。その噂を聞いてからはさすがに部活にも顔出しできなかったようで、らしくもなく明らかに沈んでいる瑞海の襟首を引っ張って屋上に連れ出してきた。
「陽も噂聞いた?」
「ウン」
「残念だな」瑞海は悪びれる様子もない。「隠してたのに」
陽は、飄々とした態度の瑞海に少しだけ不安を感じている。高橋部長が彼を好きなことくらい、とうの昔にみんなが知っていたことだ。それなのになぜ、今になって噂が流れたのだろうか。
「なにかあったの? 高橋部長と」
「知りたいの? エッチだなぁ陽は」
「言いたくないなら無理には聞かないよ」
こうして茶化してくるときは何かを隠しているときだ。陽にはわかっていた。瑞海は諦めたようにため息をついて、膝を組んで頭を垂れていた。
「思い出にキスって言われたんだよ」
瑞海の寄りかかるフェンスには差し込む夕陽に校庭の部活動生の声が反射して、それが絵になっていた。美しいのは罪ではないが、反省の色は薄れて見える。
「そんなに本気だったの?」
陽がいうと、瑞海は声を立てて笑った。その声色に少しだけ憂いがある気がして、陽は彼に釘付けになる。
「本気だったんじゃないよ。陽は純粋だなぁ」
「だけど、俺なら好きな人に言うよ、そういうの。高橋部長は瑞海が好きだったんでしょう」
「そうかもね。あの人は、それ以上を望まなかった」
瑞海は陽から目をそらして微笑んだ。陽はなにも言わなかった。彼の大切な部分に踏み込んでしまった気がして、かすかに羞恥も覚えた。高橋先輩と瑞海の間にあった何かの存在は確かだったが、それが一体なんなのか、陽には想像もつかない。
「あの人ね、おれの裸を見て謝ったんだよ」
そして瑞海は言った。
「おれを女だと思ってたわけ? って煽っても、謝るだけ」
瑞海は顔を見せずに言った。
「ねぇ陽。おれ、なんていえばよかったの?」
揺れる言葉の語尾が、風にとけていく。触れた指先から融けいる熱が少しでも彼の傷心を癒すように、と祈る陽は、それ以上何も言えないでいた。
<続く>
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