九月初旬 (夏融)

「ねぇ、阿須賀くんっているじゃない?」

 そんなある日、宿題をしているところに母が来て、そう言った。陽は母の顔を見て、何を言いたいのかをわかってしまった。陽は良心の前では勤勉で真面目な息子を演じているので、彼のような存在が関わっているのか懸念しているのだ。

「ああ、幾世橋の」

 努めて無関心なふりをするため、教科書をめくる手をとめないままそういう。

「お隣さんからね、随分変わった子だって聞いたのよ。プールの栓を引き抜いちゃったんでしょ」

「ああね」

「A組のテニス部だっていうから、あんたと一緒でしょう」

「そうだね」

 相槌だけで、質問も返さないようにした。話を早く終わらせたかった。

「授業中に窓から飛び降りて桜の木に登ってだなんていうじゃない。あんた、そんな話しないけど、大丈夫なの?」

「うん、平気だよ」

「あんた、仲がいいの?」

「ふつう」事実だ。

 母は陽に疑うような目を向けて、最後に釘をさすように言った。

「そういう病気の子がなにをするかわからないんだから、気をつけなさいよ」

「うん」陽は母を見ずに言った。「わかってる」

 背中越しにもわかるような視線を向け、母が去っていくのを背中で感じ取っていた。


 翌日、瑞海に珍しく校舎の中で呼び止められた。昼明け、午後の授業のために体育館へ向かう途中だった。陽は一瞬こたえることを躊躇った。声の主が保健室横の階段下にうつぶせで横たわっていたからだ。

「本日はお日柄もよろしく……」

「どういうこと」

 陽は驚いた。黒い学ランで背景に同化しているが、側を通ると人が寝ているとわかる。

「陽を待ってたのさ」

 瑞海はゆっくりと起き上がって言った。その日瑞海を朝から見かけなかったし、彼の気配もしなかったので陽は不思議に思った。

「俺を?」

「課外授業を受けてもらう」

「課外授業?」陽はただの阿呆のように繰り返した。

「今日は僕の日常を、雪見君に体験してもらおうと思います」

 瑞海に言われるがまま、連れられた場所は屋上だった。なぜ彼がここへ侵入できるかは聞かないでおいた。屋上には、生徒用の壊れた椅子と机が煩雑に並べられており、給水タンクとフェンスをカラフルなテープたちが繋いでいる。瑞海を見ると、彼はその手に赤い横長の小さなスピーカーと消火器を持ち、頭には緑色のガスマスクを持っていた。

「いいね、見てて」

 そう言って瑞海はスピーカーを置き、ボタンを押した。音楽が流れる。女性ボーカルの明るいスマッシュロックだった。瑞海は音楽の中で、陽の目の前に並んだ机や椅子の上に、脚の折れた椅子や机を乱暴に重ねていく。パーティのように飾られたカラーテープやマスキングテープが風になびいている。美しかった。瑞海は机を満足のいく高さに積み上げられたのか、陽の手を引き机たちの山の前に連れてきた。ライブ会場というよりはBGMのような音楽の大きさだった。

「俺が手を上げたら、これをつけて」瑞海はそう言って、片手を高くあげた。これが合図なのだろう。戸惑う陽に、瑞海はヘッドホンを手渡した。ずしりと重い、純正のボーズだった。音楽に乗っている瑞海は、頭につけていたガスマスクを顔につけ、消火器を手に持った。真っ白な字で「NUMB」と書かれている。高く積みあがった机たちは、だんだん音を立てて崩れ始める。瑞海がここで片手をあげた。陽はあわててヘッドホンをつけた。

 今まで自分が知っていた日常なんて、なんて想像に乏しいか。

 色とりどりのカラーテープが舞うなか、消化器から生み出される白に染まっていく、壊れた椅子や机たち。この世にこれ以上の美しい情景があるだろうか。ガスマスクを付け、消化器を持って積み上げられた過去の学校の思い出たちを白で汚していく瑞海。脳の奥底まで美しい爆音に支配される。陽はあっという間に、その支配的な美しさ以外を考えられなくなる。これが瑞海の見ている世界。これが彼の、理性を吹き飛ばす世界。

「良い感性だね、陽」

 陽は気づけば涙を流していた。その隣にマスクをつけたままの瑞海が立ち、背後からヘッドホンを外される。

「作品の創り甲斐があるってもんだ」

「これが瑞海の頭の中?」

「そう。これが作品だよ」

 瑞海はそう言って笑った。瑞海の目の奥は輝いていた。瑞海は頭の中の音楽に逆らえないといった。彼にとって人生の一瞬一瞬はミュージックビデオの欠片で、美しい曲には美しい風景を、描写をしようと身体が勝手に動くらしいのだ。

「最初は小さい感情なんだ。それが、音楽を含んで情景を想像していくたび、だんだん音が大きくなって、しまいには抑制できない。支配されるんだ。この想像を叶えない限り止まらない」

 それが彼の行動を制御できない理由。陽は固唾をのんで話を聞いていた。瑞海が更に続ける。

「お前、おれがスポーツを得意なの、妙に感じていただろ。あれは手本の体現だ。正しくは、見たものや想像したものを、頭で再現して、具現化するのが得意なんだ。頭の中で流れる音楽と、この想像がぴったり合うと、そこからは自分の力で制御できなくなる。最も重視していることは、想像の具現化なんだ」

 その話を聞いたときから、ごく平凡な中学生である陽にとって、彼の破天荒で突拍子もない行動やその思考は、興味を多大に惹かれる対象になった。そしてひとつ、陽の心の奥に鉛のような感情が重くのしかかった。彼を理解すること、彼が社会に迎合することは、恐ろしく難しいことなのではないか、という事実。

「おれは意識が飛んでいる間、自分を上から見ている。客観的な視点というのかな。カメラワークのように視界が動くこともある」

 陽は瑞海の話すことの半分も理解できなかった。しかし、きっと誰にも話していないであろうことを彼が自分にだけ話してくれる事実を嬉しく思った。

「景色や、場面、それから人に会ったときにも変わるんだよ」

 陽を見つめる瑞海の目の光がプールの反射に照らされてきらめいていた。

「おれはこの世界で一番自由になる」瑞海はそう言って両手を大きく広げた。「なんだって作れるし、なんにだってなれる」

 瑞海はいつも王様だった。この世界の創造主。統制された学校という規律の中で唯一自由な王様。はやく世界に出たくて、ここでそのときを待っている。陽はそれを眺めているだけだ。彼と同一になることを望んでも、それはできない。心が離れていきそうな事実に気づく。

「陽からも、色んな種類の音楽や情景を感じたよ」

 王様はそう言って振り返る。陽は感情の機微に気づかれたような感じがしたが、何でもないように取り繕って笑顔を返す。

「誰からも感じる?」

 すると瑞海は声のトーンを変えて、少しだけ笑いながら言った。

「陽だけだ」

「本当に?」

「だから声をかけたんだ。その世界を、作りたかったから」

 陽はその綺麗な横顔を見つめながら、彼のいうとおりそれが自分だけであるように願った。


 学校の外で瑞海に会うことはなかった。休日に遊ぶ約束をしたことはなく、狭い街とはいえど、学校の外で会うことも一度だってなかった。陽は学校の中で瑞海に会うことに固執した。そして、瑞海は学校の中にしかいないとすら言い聞かせた。陽の中で瑞海の存在は、いつの間にか自身にさえ気付かれざるほど大きくなっていて、すべてを――例えば、家族の人数とか、住んでいる場所とか――お互いに教えあうことは、怖く思えた。そんな陽の想いを知っていたのか否か、瑞海は陽のプライベートを聞かなかった。二人の間にそう言った会話は無いに等しかった。よって陽は、瑞海の家族構成を今も知らない。


「明日楽しみにしてるよ」

 試合の前日、練習を終えた部員達は、立派な成長をとげた陽に期待のあいさつをし、それぞれ帰路についていった。陽は瑞海と二人、部室に寄ってラケットの手入れをしてから帰る予定だった。

「ソフトテニスでもラケットが折れることって、結構あることらしい」

 瑞海は何の脈絡もなく、いつも突然話し始める。

「俺、相棒は一つしか持ってないし、折れたら棄権するしかないのかな」

 彼のラケットは、現在二本目。昔はよくあるカタの共通のラケットを使っていたけれど、今は前衛用の首が長い紫のYONEXを愛用している。同じ部で、このラケットを使っている人はほかにいない。

「ペアに関してもそうだ。あまり、ころころ変えるのは好きじゃない。相澤なんて、相性最悪だ」

 最適の急所を狙って、最善の時を見計らうタチの瑞海と今現在ペアを組む相澤は、後衛のくせにがむしゃらにどこへでも打ち込むため、よく二人は意見が食い違っている。あのノーコンめ、と悪態を吐きながら、阿須賀はグリップテープを新しい色に張り替えた。タオル地の赤だった。

「信次はどう?」陽のペアの名前だった。

「上手いよ。俺に合わせてつなげてくれるから」

 瑞海は笑うことなく、そう、と言ってガットをはじいた。外は燃えるような夕日に包まれている。陽は黙ってラケットを手入れする瑞海を眺めた。彼はフレームヘッドに詰まった石を指でほじくり返しながら、また新たなカバーリングテープを貼り直そうと手を早めた。

「陽。おれはどこへも行かないよ」

 陽は手先をぴたりと止め、目を向いた。危うく手持ちの大切なラケットをコンクリートの床に落としそうになった。瑞海の眼は伏せたままだった。窓辺から入った夕陽に映えた阿須賀の表情は、閑散とした不気味さを伴っていた。そんな気がした。陽はその身に、絶望的な恐怖感と、それと同等な幸福感を覚えた。

「なんの話。もう帰るよ」

 陽がラケットをカバーケースに入れて肩から下げると、瑞海の誘い笑いが目に入った。彼の言動は冗談だったようだ。陽は足もとに落ちていた白いボールを瑞海に投げつけた。それをラケットでかわして彼は笑った。いつもの侮蔑の言葉を並べて先に部室を出ると、後から瑞海がカギを閉めて追ってきた。

 芝生の揃った世間的には珍しい校庭を横断する。沈みかけた夕陽を背に、野球部や陸上部が用具の片づけをしている。ソフトボール部のクラスメイトに手を振り、二人は校舎の裏を通って帰路を歩いた。

「もしもだよ、明日試合中にラケットを折ったらどうする?」

 道端に転がる小石を蹴りながら、陽は言った。瑞海はラケットとカバンと手さげ袋を、どんな風に持とうか試行錯誤している様子だった。

 瑞海はふざけて、そして急に真面目な顔で言った。

「棄権すると思う」

「なんで?」

「おれにはこのラケットだけだから」

「でも、セットポイントだったりしたら?」

「自分の以外のラケットじゃあどうにもならない」

 なるほどそうか、と陽は思った。一つのものに長くこだわる彼は、それに対する愛情も生半可なものではない。結果よりその過程や、得てきたものの方を大事にする彼ならではの意見だ。それなら自分はどうだろう、と思った。自分はラケットが折れたとき、棄権する勇気があるだろうか。ほかのラケットを使う勇気があるだろうか。答えは出なかった。簡単に決められそうになかった。

「アイス喰ってかない?」

「行こうぜ」

 悩む必要のないことに、思いを馳せてしまうことは、陽の悪い癖だった。それをよく知っていて、瑞海はたびたび話題を変えてくれた。無口だと不愛想に見えてしまう陽にとっては、有難かった。

 九月中旬、ほどなく夏は終わりだった。部活後のアイスが、田舎の学生にとって唯一の贅沢品だった。陽は腹が頗る弱く、アイスをひとつ食べ切れなかったので、二人でアイスとジュースを一つずつ買った。学校から少し離れた小さな神社に二人は向かった。同じく小さな公園と併設されていて、ベンチやブランコがあるのだが、表通りからは全く見えず、まさに地元によく根付いた絶好の休憩地があった。昼の部活帰りは、そこのベンチに二人腰かけて、隣の民家から流れてくるラジオの音に、よく耳をそばだてていた。その日も二人はそこへ腰かけ、暮れゆく空を眺めながら、アイスとジュースを交互に口につけた。

「明日、楽しみだなぁ」

 モナカアイスを頬張りながら、瑞海は言った。秋の大会の地区大会予選が近づいてきていた。瑞海も陽も、小さな大会では県予選止まりの成績が多かった。しかし実質、それで十分だった。県予選に出場できれば二人は上々に満足していた。瑞海はシングルスをあまり好まず、今秋の大会にもダブルスでしか出場しない。

「県大会まで行けるかな」

 陽は言った。部の他のメンバーの成績も、通常の実績は県大会での入賞がせいぜいだった。部長ペアが二年生のときにいちどだけ、東北大会まで出場した。ペアが優秀ならば全国大会へ行けたとさえ言われていて、彼はこのたびその相手に瑞海を指名した。瑞海は部活を楽しむことだけを考えており、その誘いには乗らなかった。それ以降度々同じ話をされても、瑞海は理由をつけて申し出を断った。「成績には興味ないんです」、決まって彼はそういった。

「おれは楽しければ、それでいいや」

 そう言った瑞海の横顔は、どこか憂いを帯びているように感じた。

「どうでもいいんだよね、勝負とか」

「瑞海が言ったら嫌味だよ、それ」

 彼は部の中でも、三年生の先輩を差し置いて練習試合にも参加するほどの腕前なのだ。誰もが彼をペアに選びたいだろう。

「まぁね」

 陽にとっては、瑞海の根拠のないふらつきが少し怖かった。そのふらつき自体が、いつか誰かをずたずたにしてしまうのではないかという心配があった。陽はその脳裏で、ずたずたに傷ついてしまう誰かが、自分であればいいと思っていた。それが狂気じみた考えてあることはよくわかっている。陽は自分自身がときどき恐ろしくなる。それでもその恐怖は、彼にとって心地よく、それすらも静かな狂気をまとっていた。結局自分は、瑞海とどうなりたいのだろうと考えた。冷静なふりをしていながら、内に秘めている情熱が異常であると自分でも思う。不思議ながら、普段の瑞海と一緒にいるとき、自分がなんでもできる存在だと思える。まるで陽にとって瑞海は、宗教の様な存在だった。

「勝ち進んで当たったら面白いな」

 自転車を引いて歩いている帰り際、瑞海が微笑みながら言った。陽はその答えを笑って切り返す。

「俺たちがそこまで勝ち進めるとは思えないけど。そしたら、相澤に仕返しするいい機会かもしれない」

 陽が言うと、瑞海は笑って、おれはいつもチャンスを待ってるんだ、いつか、相澤のド頭に本気のサーブをぶつけてやりたいって、そう言ってまた笑った。それには陽も笑った。瑞海は、そしたらアイツとは終わりだと言った。笑っていなかった。陽の心が高揚感で満ちていく。瑞海が相澤をそんな風に言うのは、陽とのいざこざが元になっていると知っているからだ。しかしそんなことは口に出さない。過去は戻らないのだ。

「おれ、毎日楽しんでるよ」

 瑞海は言った。部活動は楽しい。みんなでふざけて、先輩や後輩がいて、みんなでいろんなところに行ったりしたのを楽しいと思う、と。面倒なことも、腹が立つこともあるが、そんなことは二の次で、その瞬間さえ楽しければそれでいい、と続けた。

「陽」

 物思いに耽っている陽を、瑞海が呼ぶ。振り返ると彼の笑顔は、西から来た夕日に染められていた。邪心なく綺麗だと感じたが言わなかった。彼の手が陽の右耳に触れ、頬を撫でられる。

「また明日」

 そう言って瑞海は、自分の行く方向と逆へ背を向け歩き始めた。陽は返事だけして、その夕日に染まる背中を見送った。一度も振り返ることはなく、時に背負ったラケットが脛に当たるのを気にしながら、どんどん小さくなっていった。

 陽は、瑞海がどこに住んでいるのか知らない。海端なのか、山側なのか、通り沿いなのか、家族構成だって知らない。瑞海は自分から話さないし、陽も自分から聞かない。その背中が見えなくなった頃に、陽も瑞海と逆の道を進みだした。そして、今後、瑞海の家を訪れることなんてあるのだろうかと、練習で疲れた頭の奥で考えた。自分と瑞海が、兄弟のようにひとつ同じ部屋でゲームをしたり話をしたりすることなんてあるのだろうかと考えた。本来なら、それほどまでに仲良くなっているはずなのに、お互いへの強い思いが、関係を崩壊させないために、一定の関係性以上を築かない。今後も彼について知ることはないだろう、と陽は思った。いうなればその考えも、陽にとっては狂気だった。


 <続く>

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