八月末 (晩夏)

 八月の終わり、瑞海はなんの前触れもなく教室に現れた。まるでつい昨日まで皆と同じく学校へ通っていたように、「おはよう」とごく通常の調子で挨拶をした。復学日をひと月過ぎた後の突然の登校に、クラス中があっと驚いた。瑞海の肌はうっすら濃く浅焼けて見え、どこか南国へ行っていたかのような雰囲気を醸し出していた。

「留学してたんだ」

 などと言って皆を沸かせていたが、陽はそれを作り話だとわかった。彼が大勢に向けて真実や本質を言うことは滅多にない。留学経験を深堀してくるクラスメイト達に、「アメリカのメルボルンってところに行ってた」「日本から飛行機で三時間だよ」と丸きり適当を答えているのを見ると、彼らをからかっているのが良くわかった。この数か月間何をしていたのだろうか、と陽は気になったが、結局聞くことはなかった。おそらく聞いても教えてくれないのだろう。そう思うと何となく悲しくなった。

 彼は夏休み前の処分を受け止めてはいても、行動に対する反省はしていないらしく、時折部活の終わりに呼び止められて、プールに連れ出された。その後宮澤やそれ以外の誰かからの忠告や接触はなく、陽は安寧の学校生活を過ごしていた。けれど、やはり彼が「悪魔」などと呼ばれていたことについて気になる節はあった。彼の部活中の動きひとつをとっても、説明のつかない異様な上手さがあった。上達などという言葉とは無縁で、最初から「ものすごく上手い」のだ。周囲は彼のその様子を天才だからだと思っていた。テニス部の部長である高橋先輩がその一人に当たる。瑞海は幼いころからラケットを振ってきたわけでもなければ、経験を積んできたわけでもない。彼は中学へ入ってから初めてテニスに出会ったし、その事実は誰もが知っていた。入部テストのあの日、先輩が気を使って打った緩い球筋を、目の覚めるようなコースに打ち返してしまったこと。それが決して偶然ではないと、東中学のテニス部員は全員が目撃している。

 瑞海と、そのほかの一年生の力差は、それによって歴然だった。事実、瑞海は入部してすぐの練習試合を二つ上の先輩と組んで出場したが、一年では彼以外の出場者はなかった。彼はその後も何人もの先輩と組んで試合に出た。そして夏も本番になると、瑞海を一年と組ませる、という部長からのお達しが出た。候補として、テニス経験者の宮澤と、実力をつけてきた坂口とそれぞれ組んで試合をした。しかし、いざペアを選べと言われた瑞海が希望者としてあげたのが、テニスの基礎のフォームも危うい、陽だった。実力が違い過ぎる二人が組むことはできず、その話は流れ結局相澤と渋々組むことになったのだが、なぜ仲良くもない、テニスもまだ上手いとは言えない陽を選んだのか、という謎が根や葉をつけ、瑞海を嫌う先輩が「二人はできてるんじゃないか」などと囃し立てたせいで、意図もしない噂が学校中に広まってしまった。

 それが九月の初旬。そんな悩みが招いたのか、授業中に腹を痛めてしまった陽は、慌ててトイレに駆け込んで用を足した。手を洗いながら鏡に映る自分を見て、ため息をつく。素朴で青白くひょろりとした手足が精神的な弱さを醸し出している。あれ以来、瑞海と会話することはあまりなかった。美しい瑞海に並び、人前で何かをするなど、考えたこともない。瑞海はなぜ自分を指名したのだろう。そして、噂についてどう思っているのだろう。考えれば考えるほど、彼と過ごすプールでの時間は愛おしくなり、用もないのにプールの側を通りたくなる。そんな悩みを引きずりつつ、ため息交じりにトイレのドアを開けたとき、陽は頭に目が覚めるような衝撃を食らった。

 目の前の教室の窓から、瑞海が見えた。机の上に立ち、上半身のワイシャツのボタンを開け去り、ベルトに手をかけているところだった。なにかの直感が働いたのかはわからない。次の瞬間、陽は廊下の窓から大声で瑞海を呼んでいた。彼は陽を振り返ると、満面の笑みで笑って、その窓に足をかけ、廊下に降り立った。陽にとって、ここまですべてがスローモーションだった。目の前に堂々と立ち降りた瑞海はシャツをはだけ、ベルトは外れ、靴はシューズのままで、手にはプリントを何枚か握りしめていた。突然のことに声も出せず瑞海を見ていると、彼が陽の右腕を握った。「走るぞ!」瑞海のその声が聞こえた瞬間、陽の身体は非常に軽くなった。そして、何の抵抗も不思議もなく、陽はその手を取って走り出していた。笑いながら廊下を駆けていく瑞海の後姿を追うことに、陽はなんの抵抗も懸念もなかった。まるで、それは一瞬の幻で、焦がれた日の夢の中を走っているようだった。陽には瑞海の行く場所がわかっていて、彼の笑い声以外には何も聞こえない。その瞬間、これが授業に出ることより、部活で良い成績を収めることより、はるかに重要なことだとわかった。まるでそれは命の洗礼。音を立てて煌めく自由の賛美。二度とない青春への哀嘆。そして、薄い色の魔法使いが持つ本質への一本道だった。美しい顔で破いた保健体育のプリントを宙にばらまく彼は、果たして悪魔なのだろうか。それとも自分たちはいま、悪魔の巣窟から抜け出して一度、自由をこの身に授かるのだろうか。自分は連れ去られる人間なのだろうか。もしくは、悪魔の手助けをする助手かなにかなのだろうか――目の前を走る薄い少年は向日葵を見せない。陽には、舞うプリントの端々が、賞賛の手叩きの中、レッドカーペットに積もる金色の紙吹雪に見えた。自分は果たしてこの男の未来を見ているのだろうか。瞬間、瑞海は陽の手を引いて、一階への階段をかけおりた。たどり着いた先には満タンのプールがあって、そのままの勢いで二人は制服のまま、二十五メートルの真夏の中に飛び込んだ。飛び込むことに躊躇などなかった。陽はプールの中で、自分が泳げないことを思い出した。陽の意識がそぞろになる。そのとき、陽は見たのだ。ただ広い無音の水の中で、瑞海が人ならざる速さでその身を自由に翻して泳いでいる姿を。彼の足はそのとき大きな魚の足に変わり、身体には鱗が生え、美しく舞っていた。瑞海が泳ぎ近づいてきて、陽と唇を合わせた。その身をプールサイドへ持ち上げる。陽は炎天の真下に思い切り呼吸をした。同じように、瑞海がプールから上がってきた。

「瑞海って」陽は息も絶え絶えに問いかける。「人魚だったの?」

 その言葉に、瑞海は笑う。

「そう見えたんだね」

 彼の身体はもう人間のもので、その身にはズボンを纏っていた。そうして瑞海は陽の手を取り、その身体を引き上げた。

「高橋先輩はおれを鬼だと言った。人によって形容する言葉が異なるのは面白いことだね。どれも人外種なのがいただけないけど」瑞海は続ける。「実際のことを教えよう。おれは普通よりも少しだけ目がいいんだよ」

 瑞海は、自分には流れが見えるのだといった。その抽象的な表現に、死の淵まで追いやられた陽はついに怒ったが、彼はそれを理解してほしがった。そして、彼の友人の誰もが、瑞海のその能力を怖がっているのだと、そのとき同時に知った。

「血のせいなんだ」

「血?」

「母方が古い武家の分家なんだけど、その昔、家系に妖狐を取り入れたと伝わってる。隔世遺伝的に、おれの家系は、目のいい物の怪と見紛う程の美形が生まれるっていうね」

「俺を担いでる?」

「信じるか信じないかはお前次第。まぁ、当人のおれでさえ話半分に聞いてるからね。大方、呪術師とか霊媒師とかのことをそう呼んでるんじゃないかな。昔々の、まだまだ人と物の怪の境界が曖昧だった時代の話さ」

 にわかには信じがたい話だった。瑞海の話し方は上手く、それに嘘が含まれているような気配はしなかった。

「いっそ、それが事実でもいいとさえ思ってる。せっかくの能力だ、大事に使うよ。だからこそおれは、自分自身を的確に捉えられているんだし」

「悪魔だなんて呼ばれていても?」

 つい、その言葉が口をついて出てしまう。しかし瑞海は声を出して笑った。

「そんな話も知ってるのか」

「気持ちのいい話じゃなかったよ」

「やつらが間抜けだって、おれもわかってるよ」

 瑞海は笑顔だったが、そこはかとない拒絶が見えた。陽は構わず続ける。

「先生のことも、そう思う?」

 そのとき瑞海の視線がふと泳いだのを陽は見逃さなかった。

「どんな先生だったの?」

「普通のオバサンだよ」瑞海が顔を伏せる。

「若くて美人な先生だって聞いた」

「どうだっていい」

 瑞海はもう一度、どうだっていいよ、と繰り返した。

「だけどあの人、おれのこといつも綺麗だって言ってくれた」

 その言葉に、陽は感づく。

「好きだったの?」

 つい口をついて出てしまった言葉だった。陽は踏み込み過ぎた、と後悔したが、瑞海が耳まで真っ赤になったのを見て唖然とした。

「本当に?」また余計な言葉が出た。

「ぜったい、誰にも言うなよ」瑞海が口元を隠している。

「言わないよ」陽は言う。「言わない、約束する」

 瑞海は、ふん、とため息をついて黙ってしまった。彼に人間らしい部分があったことが嬉しくて、思わず笑みがこぼれてしまう陽に、なに笑ってんだよ、と真っ赤な顔のままの瑞海が言うので、ついに大笑いしてしまう。すると瑞海がこのやろう、と追いかけてくるので、陽は彼をかわして逃げる。二人で追いかけ合いをしているうちに瑞海も笑いだして、つられて陽も笑わずにいられなかった。瑞海にプールに突き落とされそうになったり、瑞海を突き落としたりしてしばらくそうしているうちに、いつの間にか日も傾きかけていた。プールの水面がオレンジに反射して、瑞海の色素の薄い髪と血を噛んだような赤い唇に馴染んでいく。重い二人のシャツが暑い風の中でばたばたと踊っている。夏だ、と陽は思った。

「雪見君も気を付けるんだね」

 遊び疲れた瑞海が、プールに浮きながら言う。

「悪魔に魅入られないように」

 陽はトイレで、かつての会話を思い出す。彼は、自分自身が悪魔などと裏で呼ばれている事実を受け入れていて、気にも留めていないことが、手に取るようにわかった。

「もう遅いんじゃないの」軽口を叩く。

「お前が泳げないこと忘れてたよ、ごめんね」

 瑞海がそういって笑う横で、意識をはっきりと取り戻してきた陽は、彼に問いかける。

「なんでさっき、服脱いでたの」

 保健体育の時間に机の上で制服を脱ぎ捨てるなど、本来義務教育機関ではあってはならない非道徳だろう。瑞海のシャツは胸下まではだけていた。女子生徒と合同ではないとはいえ、たとえ悪ふざけであろうと、日本の田舎の学校では決して受け入れられる行動ではない。しかも、彼はついこの間停学をあけたばかりだ。考えなしにもほどがある。

「脱ぎたいと思ったから」

 瑞海はそう言ってうつむいた。果たしてこの男、どこまで正気なんだろうか。聞き返さなかった陽に、ベルトを直しながら笑いかける。

「瑞海は本当に、自由なの?」

 思っていたよりも強い声が出た。いつもと違う様子の陽に気づいたのか、瑞海はにこにこ笑うのをやめた。

「本当は怖かったりして」出した声が震えているのが自分でもわかる。「一瞬で周りが見えなくなって、最終的に、コントロールできなかった自分自身を、その行動を、怖いと思わないの」

 言葉に熱が入る。目頭が熱くなった。瑞海は笑っていた。同時に陽の強い言葉に、驚いているようにも見えた。そして彼は言った。

「怖いに決まってる」

 陽の目に映る瑞海は誰より純粋な輝きを持っている。その口調はどんどん早口になって、大きな声になって、制御できない感情が瑞海の身体から漏れ聞こえてくる。

「自分の意識が消えるんだぞ。だけど表現しないときの恐怖の方が大きいんだ。どんどん感情が大きくなる。そのうち周りが一切見えなくなる。長い時間、自分の意識が消える。そっちの方が、断然怖いんだ」

 瑞海の目は爛々と輝き、でてくる言葉が普段よりも興奮していることを感じる。

「お前が言うように、なにも感じないふりをする方が楽だ。説明したところでわかっちゃくれないし、気狂いってことにしちまえば、かわいそうなやつだと同情してそれ以上詮索されない」

 瑞海がいつもと違うくだけた言葉を使う。これが本質なのだろうと思った。

「誰もおれを人間だと思ってない。しゃべる動物かなんかだと思ってる。おれが人外であろうがなかろうが関係ない」

 もう慣れたけど、と瑞海は息をつく。陽はその言葉を一切聞き漏らさないようにしっかりと耳を傾ける。

「誰もおれのことをわからない。誰も知らない。いや、知ろうともしない。おれはみんなにとって、人間じゃないんだ」

 瑞海の言葉は止まらなかった。

「お前、いつだか言ったね。おれの思う自由が、誰かの自由とは限らないって。その通りだと思ったよ。みんなの思う自由がひとつなら、こんなふうに誰もおれを持て余したりしないんだから」

 そこまで言って瑞海は、言葉を切った。陽を見つめている。陽も瑞海を見ていた。

「おれが何者かって? そんなこと、おれが知りたいよ。おれは何だ? 教えてくれよ。おれは悪魔なのか?」

 陽は瑞海に一歩近づいた。その肩に両腕を回す。瑞海の体温は冷たく、身体は震えていて、自分と違いがあった。

「なんだっていい」そして続ける。「俺はお前のことをもっと知りたい」

 瑞海は目の前で固まっていた。陽は息せき切る思いを打ち明ける。

「小学生の頃、カラーテープを纏って走る姿を見た。それ以降、お前が表現する世界に、お前自身に惹かれてる。お前は、お前の見ている世界は美しいよ」

 瑞海の瞳から涙が溢れるのを、陽は見た。それからその姿を隠すように、陽の身体が瑞海に抱きとめられる。

「泣いたの初めてだ、おれ」瑞海の声が掠れている。

「泣き虫だなぁ」陽が問いかける。

「見るなよ」

 瑞海が普通の中学生らしい仕草で顔を隠すので、陽はまた笑ってしまった。


 <続く>

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