八月初旬(真夏)

 クラスでのグループが違う瑞海とは、普段二人きりで深い会話をする機会はあまりなかった。彼は普段の発作に加え、不可解な行動をよくした。野球の時間にバレーボールを抱えていたり、書道の時間に体育着に着替えたり、スケートボードで登校したり、晴れの日に雨合羽を着て傘をさしたりもしていた。そういった、状況とズレた行動を、クラスメイトのほとんどは一種の発作だと思っていたが、彼をよく観察していた陽は、それが所謂「ボケ」であることにすぐ気づいた。渾身の「ボケ」を放って置かれているのだ。陽は、彼の難解な性格で雑なボケをするあたり、笑いの仕組みを理解できていない人間らしい部分だと微笑ましく思っていた。

 八月初旬のある日、隣町の中学との練習試合で部長ペアに負けてしまった瑞海は、コートの鍵をかける時間になっても座り込んだままだった。その日の鍵当番だった陽は、困り果てた同級生や顧問に、新球の整理をすることを引き合いに、瑞海が納得するまで付き合う旨を示した。瑞海が顔を上げて声を発したのは、彼を心配して陽と居残りをしていた部長が、塾の時間だとコートを離れてからすぐのことだった。

「あれ、陽」如何にも、たった今陽の存在に気づいたような第一声だった。「みんなは?」

「もう帰ったよ。俺は施錠当番」

「ありがとう、待っててくれたのか」

 陽が鍵を揺らして見せると、瑞海はにこやかに言った。球を見るのに飽きがきていたので嫌味の一つでも言ってやろうと思ったが、その弾けるような笑顔を前にしては何も出なかった。志願して残ったのは大体自分だ。

「今日も遊んでく?」

 コートの真ん中から立ち上がった瑞海が、コートを慣らすブラシを引きずりながらそんなことを言った。

「鍵を持ってるの?」

「侵入経路なら教えただろ」

「けど、まだ昼間だし」

「意外と誰も見てないんだよ」

 確かにこの間の夜間のプール遊びで、後日誰かに咎められることはなかった。大騒ぎしていたわけでもないし、遊んだ後は綺麗に片づけたので見つからなかっただけかも知れないが、休日の部活動がほとんど午前中で終わっているとはいえ、外が明るいうちには人目にも付きやすいのではないかと考えてしまう。陽が考えている間、瑞海はブラシをかけ終わって、ラケットをバッグにしまっている。

「自由になりたいんだろ」そうして彼は言った。

「ルールを破ることが自由?」

「やりたいことをやるのが自由だ」

 陽は結局、瑞海の後について金網からプールに侵入することになる。

「おれは陽がすきだ」

 瑞海の言葉に陽は驚いて振り返る。心に芽生えた感情を見透かされたのかと思った。

「人の気持ちをよく知ってるし、余計なことを言わないから」

 しかしそれが友人に対する評価であることを知ると、陽はほっと胸をなでおろす。瑞海が続ける。

「今だってここでおれが何をしていたのか、聞かないし触れない。それはおれが何をしていたのか予想がつくだけでなく、それに触れたらおれがどう思うかを考えたからだ」

 よく人を見ているんだなと思った。それから自分に自信がある様子も見受けられた。

「負けた試合の後だもん、想像はつくでしょ」

 陽が言うと、瑞海はブラシを引きずる手を止めた。

「踏み込むやつは躊躇がない。思いついた言葉をそのまま言うのさ、相手の都合や気持ちを考えずにね」

 瑞海の口から、誰かを卑下する言葉が出てきたことにすこし驚く。自分の領域をむやみに侵犯されることが嫌なようだ。それも普通の人間と一緒だと思った。

「べつに、興味がないだけだよ」

 なんでもうまく返されるのが癪で、少し噛みついてみる。すると瑞海は嘲笑し、陽の真隣のボール籠を指差した。

「普段、居残り当番なんてやるっけ?」

 陽は心の中で舌打ちをした。瑞海は笑みを浮かべている。陽が無言で睨み付けると、彼の表情はすまなそうに変わって、またブラシをかけ始めた。

「ごめん、おれはいつも言い過ぎる」

 陽は、瑞海が自身を過大も過小もせずに正確に捉えていると感じた。褒められれば礼を返すし、自分に非がある時はすぐに謝る。

「陽は発言するとき、相手の言葉の背景を想像することができる。そういう、会話の引き算は誰にでもできるわけじゃない」

 対して自分は、面と向かって褒められることに慣れていない。それから誰かを直接褒めることもしない。感じたことを言葉にして相手に伝えることのできる瑞海は、単純に尊敬に値すると思った。

「面倒だから言わないだけ。妙に持ち上げないでよ」

 陽も、自分だけが特別なわけではないことを良く知っている。

「できない人もいるよ」

 そう答えた瑞海の表情は憂いを帯びていた。誰のことなのだろう、と陽は思った。

「さて」

 脈絡のない瑞海の言葉に彼を見ると、思っていた以上に陽の近くで、まっすぐにこちらを見つめている。口角は上がっているが瞳孔が開いている。陽は一瞬のうちに五月の帰り道で見たヒマワリを思い出した。静と動を味方にしている空間支配の能力が恐ろしかった。

「おれの正体を知りたい?」

 ここで陽は、瑞海が自分の思惑と行動に気付いていると悟った。そして瑞海もこの機を伺っていたのだ。風が強く吹いて、ブラシを持ったまま陽を凝視する瑞海の髪を引っ張っていく。七月の雲は瞬時に流れて、それまで快晴だった空を覆った。コートの半分が影で暗くなる。普段太陽に照らされてキラキラ薄い色を反射している瑞海の瞳が、曇り空の下だと知らない深い色に変わることを陽は知った。晴れた空の下にいる瑞海は薄い色をしていて人間離れした明るい印象なのに、雲の真下にいる時は、夜の物の怪じみた印象に変わった。

 けれど陽にとって大切なのは、瑞海の本心や真実に触れることだった。

「なんだろうが、瑞海は瑞海だ」

 その姿を見て、口をついてでてきた言葉だった。珍しく何も考えずに出た言葉だった。瑞海はそれ以上言葉を口にすることはなかったが、とても嬉しそうに微笑んだ。からかわれたのか、答える気がないのか、図りかねた。

 八月の雲は流れが早い。空が晴れ間を呼び戻した時、一時は暗く覆われたコートは、東から連れ込まれる鮮やかな赤色に包まれた。空の色に交わる瑞海の髪から滴る汗は不覚にも美しく、陽はそれ以上何も言えなかった。瑞海は、笑ったままブラシをもって走り回り、落ちていた自分のラケットを振り回し始めた。結局、何度聞いても教えてくれないじゃないか、と陽はため息をついた。しかし、夏の夕焼けの下、くるくると機嫌良く回っている薄い色の瑞海を見ている心情は奇しくも晴れやかなものだった。もし、本当に彼が人間でなくとも、自由を満喫する彼を見るのも悪くない、と陽は思った。


 しかしその週末、瑞海がプールの栓を引き抜いてしまったときには、さすがに陽も笑うことができなかった。昼休み中に体育館で友人数人とバスケットボールをしていた瑞海が、二階に打ち上げたボールを取りに行ったきり帰って来ず、友人たちが探しに行くと、割れた窓ガラスの向こうでプールが音を立てて渦を巻いていたという。瑞海は体育館の二階の窓ガラスをぶち破り、屋根を伝ってプールサイドに降り立った。昼休みだったこともあり、瑞海のその奇行を多くの生徒が目撃していて、噂は昼休み明けの授業に多大な支障をきたした。飛び込み台に両手を広げて立ち、伝う真っ赤が渦巻くプールに混ざっていく様子を笑う瑞海は、ほとんどの目撃者に理解されなかった。

 しばらくの間、瑞海は学校に来なかった。数日の謹慎処分だと噂で聞いた。クラスでは学級会議が行われ、担任が瑞海の行動についてと、今回のプールの栓を抜く行為がどれだけの負債を招くかなどの説明を受けた。最後に多動性障害の説明をされたとき、それは狂言である思った。瑞海の行動は病気によるものではない。陽はある考えにたどり着く。瑞海が繰り返す質問は、彼自身が普通の人間であることを求めるものではないだろうか。彼が、自分たちと同じ、この世間一般の、正常の感覚を持っているのだとしたら、彼は外からの評価の差分に苦しんでいるのではないか。彼がなにかに支配されて感覚を失う瞬間、または正気を取り戻す瞬間、得も知れぬ不安や恐怖を感じたりはしないのだろうか。後悔や反省はないのだろうか。瑞海は人知れぬ絶望と常に対峙しているのではないか。ざわつく教室の中、その喧騒にいつも紛れる闇の存在に気づいた陽は、一人静かにその深淵をのぞき込む。


 とある火曜日、陽は同じ美化委員を務める幾世橋小出身の宮澤を訪ねて、部活前に音楽室に出向いた。急に彼女から話がある、とお呼びがかかったのだ。陽のような内気な男子にも、やんちゃな男子にも同じ態度で接する彼女を、陽はひそかに慕っていた。その日、陽が音楽室に出向くと、宮澤がカノンをゆっくりと弾いていた。陽が戸を閉めると、その音に宮澤が顔を上げた。明るく微笑む顔が不覚にも可愛らしくて、思わず目をそらす。人気のいないところへ呼ばれるとは、まるで告白でもされるようだとふと顔が熱くなるのを感じた。

「話ってなに」

「瑞海のこと」

 彼女はぴたりとピアノの演奏をやめて陽を見た。陽がなんで瑞海のこと、と聞くと、宮澤がクククと音を立てて笑う。

「部活も同じだし、心配してると思って」

 普段つるんでいるわけでもない瑞海と、仲の良い印象もないはずだ。陽がなぜかと聞く前に、彼女は「時々話してる感じから、意外と仲良いのかなって思っただけだよ」と言った。彼女に建前は無意味と悟った。かまをかけられても面白くない。

「瑞海って、ずっとああなの?」

 宮澤はシフトペダルを踏んでから、またゆっくりとした調子でピアノの演奏をしながら、話を始めた。

「瑞海は五年生のときの転校生だから、それ以上前のことは知らないの」

 知らなかった。幼少のころからの仲だと思っていた。

「それまでは北のほうにいたらしいんだけど、誰もそれ以上は知らないのよ」

 なぜ、だろう。出身地くらい言ってもいい気もするが。

「陽だから言うんだけどね、瑞海、それまではどの学校でも馴染めなくて、ずっと転校を繰り返してきたんだって」

 女の子っておしゃべりだなぁ、と陽は内心思った。聞いてもいないことを話し続けるのは、母親と一緒だ。陽は思わず深呼吸をした。

「今日呼んだのはね、忠告するためだったの」

 ピアノの演奏を途中で止めて、同じところをまた繰り返す。気に入らなかったからなのだろうが、陽は、音楽への理解があまりないのでわからない。

「あの子には深く入れ込まないほうがいいよ」

 宮澤は突然演奏を止めて陽に向き直り、そういった。

「なんで」陽は訊ねる。

「引きずり込まれるから」

 その目は憐れみを持っていてとても緩やかだった。

「なにそれ……」陽の喉元がひくついた。響きが醜悪である。

「知らないほうがいいこともあるってこと」

「どういう意味」

 意図を測りかねたので、陽は聞き返した。彼女は陽から目を離さず、真剣そのものだった。

「あの子、悪魔なのよ」

 小さな声だったが、それは陽の耳にもしっかりと届いた。

 悪魔?

 信じられない表情で宮澤を見る。彼女は級友に対して決してこんなことを言う人ではないことを、陽は知っている。誰にも変わらず平等に接することのできる人だ。誰かを貶すことなんてない。いや、それはいっそ幻想だったのだろうか。彼女は陽を見ずに言葉を続けた。

「あの子に深く関わった人、みんな不幸になったわ」

 陽の口から、思わず嘲笑が出た。

「なんだよ、それ」

 宮澤は黙って受け止めている様子だった。陽が好きな、いつもの彼女だった。

「あの人の行動の結果で怪我をするとか、なにするかわからないから、とかの比喩じゃないの。あの人の存在自体に問題があるのよ」

 陽は寒気を感じた。彼女は、瑞海を異常だと思っている。そして、彼を恐れている。

「小学校時代の、先生が病気になったのも、彼が原因なの」

「先生?」

 例の、入院している先生か。陽の中で良くない妄想が働く。

「だから、先生と約束したの」

 彼女には、もう鍵盤を弾く余裕などないようだった。陽を真剣に見つめている。

「どんな約束?」

 聞きたくもないのに、口をついて出てしまう。

「瑞海に、もう誰かを傷つけさせないって」

 悪心が強くなる。その儚い約束を守る狭間で生まれる青春の感覚に酔っているような気がした。

「そんなの」声を絞り出す。「そんなの妄想だ」

「陽は知らないだけよ」宮澤が静かにまつ毛を伏せる。

「ばかばかしい」引きつった声が出た。

「先生の病気は、もう治らないのよ。そんな風に、誰かを傷つけさせたくない」

 その約束は、彼らの卒業間近にその教師が生徒を集めて、『瑞海に誰も傷つけさせないで。あの子を守って』と言ったそうだ。

 彼らには、誰が悪魔なのかわからないのだろうか。

「約束して。もうあの子に入れ込まないって」

 彼らには、それが誰の呪いなのかわからないのだろうか。

「いつ誰が入れ込んだって言うの」

「いつも彼を見てるでしょ。誰も気づいていないと思ってる?」

 陽は激しい憤りを感じた。絶望的なほどやり場のない怒りを、そして悪心を抱いている。陽は制御の難しいほどの感情に支配される経験がなく、それが恐ろしくなった。同時に、陽の中で瑞海の存在がいつの間にかそれまで大きく膨れ上がっていることに気づかされる。気に入っていたはずの宮澤に指摘されたことで、自分が彼を神格化しかけていることにも気づく。

「あいつは悪魔じゃないよ、人間だ」

 そう吐き捨てることが精いっぱいだった。ピアノの上に置いた荷物を取る手が震えている。すでに彼女は、陽の中で可憐な少女ではなくなった。

「信じてくれなくてもいい、お願い、約束して。瑞海に入れ込んではだめ」

 懇願するような声の彼女の顔を見たら、もしかして恐ろしい妖怪になっているのではないかと思った。それだけで音楽室が冷たく感じた。

「ご忠告ありがとう。友達くらい、自分で選ぶ」

 お前ら気味が悪いよ、陽は喉上まで出た言葉を飲み込み、音楽室のドアを乱暴に閉めた。彼女を振り返ることはなかった。


 <続く>

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