七月末(常夏)

 夏雲が降り立つ七月末。その日、陽はプールサイドに立ち尽くしていた。芝生練習中に盛大なロブを打ってしまい、ボールがそのままプールに落ちてしまったのだ。先輩にも説教され、部活終わりにこうしてボールを取りに行くと約束し、無事に回収もしたのだが、その間に用務員の最終戸締りが完了してしまい、プールルームに一人残されテニスボールが浮かんでいるのを呆然と眺めていた。プールを囲うフェンスに穴が開いていないかくまなく確認したが、人が通れそうなサイズのものはなかった。部活が終わる時間を、とうに過ぎている。テニスコートとプールは校庭の端っこにあり、ここから大声を出しても誰にも届かない。それよりも陽は、何故プールに侵入したのかと先生や先輩に見つかってどやされることの方を懸念していた。七月の雲は流れが速く、夕陽があっという間に学校の向こう側に沈んでいくのを見ている。途方に暮れた陽が、ここで一晩過ごすべきか思考を巡らせていると、奥の入り口の方でがしゃん、とフェンスの揺れる音がした。驚くと同時に人であれば助けてもらおう、と陽が走り出すと、そこに顔を現したのは、きょとんとした顔の瑞海だった。

「あれっ、なんでいるの」

 陽はこっちのセリフだ、何故人気のない校舎のプールに彼が?と思う。すっかり夕陽も地平線に近づき、すでに黄昏時だ。

「ボールを取っている間に、施錠されちゃったんだ」

「どんくさいやつだなぁ。入口の左のフェンスを取り外せるから、そこから出なよ」

「なんでそんなこと知ってるの」

「おれが切り落としたからだよ」

 瑞海は笑いながらそう答える。陽は嘘か真かもわからない、そんな話にぎょっとしてしまう。なぜそんなことを、と質問が喉まで出かけるが、こうして誰も居なくなった後、プールで遊ぶためなのだろう、と察することができた。彼は陽に目もくれず、その場で学ランを脱ぎ捨て、靴下を脱ぎ、ズボンとシャツの裾を巻くっている。

「泳ぐの?」

 陽は思わず声をかける。

「ウン」

「制服のまま?」

「おれの裸が見たいって言うの」

 瑞海はそういって振り返った。陽を見て笑っている。

「お気遣いどうも」

 そう言って陽は踵を返して入口へ向かう。すると瑞海が声をかけてくる。

「待てよ。ちょっと一緒に遊ぼうよ」

 呼び止められた陽は、手に持っていたはずのテニスボールがプールに浮いているのを見てはたと歩みを止める。すれ違いざまに撮られたことに気づかなかったのだろう。瑞海は制服のまま堂々と飛び込んだ瑞海をプールサイドで眺めることにした。彼は泳ぎが上手く、飛び込んでから顔をだしたのは十メートルも先だった。彼はあっという間に反対岸に着いて、すぐに陽の足元にまで戻ってきた。制服姿の美しい男が鮮麗なプールの中で泳いでいる姿はまるでおとぎ話に出てくる人魚のようだった。

「泳ぎが上手いね」足元に顔を出して笑っている瑞海に問いかける。「服が重くない?」

「下着までぐっちゃぐちゃ」

「そりゃそうだよ」

 夕闇がすぐそこまで迫っていた。瑞海がボードから手を放し、身体を水面に浮かしてプールに揺蕩う。ほとんど日も落ちたなか、二十五メートルのプールに人が浮いている姿は不思議な光景だった。ルールを破っている背徳感のせいで、妙な興奮が陽を包んでいた。

「そのまま、夕方と夜の間に溶けていきそうだ」

 陽が言うと、瑞海が身を翻して泳ぎだす。

「お前もきたら? 気持ちいいよ」

「泳げないんだ」

「そうなの? 扇情的だね」

 意味不明である。また、とぷん、と音を立てて潜っていった瑞海が、次に顔を出したのはまた陽の足元だった。まるでイルカショーだ。身体はどこへいったかわからないのに、その顔を見ると彼が自分に心を開いているように感じる。身体を回転させ、次の目的地へ消えていく瑞海はまるで王様だった。夜闇にとろける二十五メートルの清廉な水空間を、鉄格子のない檻のなかを自由に支配している。その姿はイルカのようにも、人のようにも、魔物のようにも見えた。陽はこの少年が大人になる絵を想像できないでいる。そこでその質問が飛び出した。

「瑞海って、将来のこと考えてる?」

 すると彼はまた身を翻して陽に近づいてくる。

「何者にでもなれるよ。陽は?」

 今度は十メートルも先の対角線上に顔を出していった。

「なにも考えてないや」陽は答える。

「明瞭だよね、陽は」

 瑞海は難しい言葉を使う。しかし彼は、場面に意味をあてて言葉を発しているのではない。おそらく聞いたことのある言葉を、音のイメージで自由に発しているのだ。それが彼の、無知な友人たちを人知れず揶揄う遊びのようであった。または、一般の中学生が意味を知らない言葉を使うことで自分の印象付けることが目的なのかもしれない。

「瑞海って面白いよね」素直にそう思っている。

「陽の方が面白いよ」

「俺?」瑞海の言葉に陽は驚く。「どのへんが?」

「流れに逆らって生きているところかな」

 瑞海はまた、身体を水面に浮かせて大の字になった。キラキラと反射する光が体育館から漏れているものだと気づく。

「流れって、勉強や生活のことを言ってる?」

「ウウン。もっと本質的なこと」

「そういうの、難しいと思うよ」

「簡単だよ。自分が本当にしたいことだけを追求するんだ」

 そこまで言って、瑞海はまた水の中に潜り、今度ははしごの側に身を寄せてそこから這い上がってきた。瑞海の身体から流れる水滴は、夜のプールを反射する体育館からのライトに照らされ、美しく滴った。邪心なく綺麗だ、と陽は思った。瑞海は脱いだシャツを手で絞りながら陽の方へ近づいて、すぐそばのベンチに腰掛けた。

「何をしたいのか。何が欲しいのか。どうなりたいのか。身近なものでいいから考えて」

 瑞海の言葉に、陽は少しだけ考えて、簡易的に思いついた目標を言う。

「テニスが上手くなりたい。英語の点数を上げたい。学年テストの順位をあげたい」

「いいね。ではそれに、『何故』をつけて考えるんだ。なぜ、テニスが上手くなりたいか。なぜ、英語の点数をあげたいか。なぜ、学年順位を上げたいか」

「何故?」

「陽が今言ったことは、目の前にある目標だろう。それを深く追求していけば、自分が一体何者なのかの答えに辿り着く。一つずつ行こうか」

「テニスは、上手くなるとレギュラーになれるから」

「なぜ、レギュラーになりたいの?」

「レギュラーになったら、試合に出れる」

「なぜ、試合に出たいの」

「試合に出たら、遠征のために町から出れる。それから親に報告ができる。そうすると、頑張ってるのねって褒められる。友達にも、後輩にも先輩にも一目置かれて、あいつはすごいって言われる」

「つまり、自分が認められたいからだ」

 陽はすぐに、今言った目標が自尊心に付随するものだと気づく。陽は瑞海を見た。

「良い目標だと思うよ。自己顕示欲や商人欲求を満たされることは思春期において非常に大事だ。ただし自尊心を保つためのものはモチベーションの維持が難しい。本当にプライドが高いただの負けず嫌いだけが目指すだろう」

 瑞海のいうことは、陽には少しも理解できない。

「それらを馬鹿にするつもりはないよ。それだって達成できるというのは努力している証拠だからね。ただ、プライドより大事なものがある人間にはそれは向かない。もっと別のことを探したほうがいい」

「陽、ほかの二つの目標も同じように『何故』をつけて考える。最終的に君の行きつく答えが見つかるだろう。考えなければならないのは、その答えが自分自身にそぐわない場合だ。そのときは君には、もっと大切にしなければならない目標があるはずだから」

 その瑞海の言葉は、よりすっと陽の中に入ってきた。そこで彼がいつものような難解な言葉を使っていないことに気づく。彼が難しい言葉を使うときは相手を煙に巻きたいときで、論理的に説明するときには相手にわかりやすいように言葉を咀嚼していることに気づく。

「時間をかけてでも、若いうちから知る必要のあることだと思うけどね。手っ取り早く知る方法はあるよ。だからこそおれはいつもプールに来るんだから」

 なにか秘策でもあるのだろうか、と立ち上がった瑞海のあとに続く。彼はプールわきのシャワーブースに入り、すぐ隣の手洗い場の排水溝の栓を閉め、三つの蛇口からすべて水を出した。手洗い場にはみるみる内に水が溜まっていく。

「泳げないんじゃあ、仕方ない」

 瑞海がそう言った途端、陽は後頭部を掴まれてそのまま水のたまる手洗い場に顔を突っ込まれた。あまりに咄嗟のことでわけもわからず抵抗すると、瑞海がやけに落ち着いた声で話を続けた。

「質問だ。お前の最大の欲求はなに?答えられたら解放してやる」

 瑞海の言葉に、これは秘策でもなんでもない、ただの追い込み漁だと気づく。軍事文学で読んだことのある水拷問。死の淵まで精神を追い詰めて、人間の奥底にある秘密をとりだす方法だ。呼吸を整える間もなかったので陽は息を止める方法もわからず、鼻から口からがぼがぼと水を飲み続ける。瑞海の声は聞こえるが、彼の手の重さからその言葉に伴う行動が本気であることを悟る。陽が抵抗の力を緩めたとき、また乱暴に頭を掴みあげられ、空気が口から入ってきた。

「いったい何のつもり」

「答えて」

「認められたい」

「そうじゃない。次」

 そう言われて、もう一度乱暴に水面に頭ごと押し付けられた。質問主の声は聞こえるように絶妙な水面加減を調整されていて、彼がこの行動に手慣れているのを疑問に思うが、今はそれどころではない。陽は抵抗すればするほど焦って息が苦しくなることに気づき、黙って自分の本心と対話することにした。例えば、何故英語の点数をあげたいのだろう。英語は自分の中でも得意な科目で、特別に張り切って勉強をしなくてもある程度の点数が取れる。それは何故、なのだろうか、と問い詰める。自分は洋楽や洋画に詳しく、幼いころから英語が身近な存在だった。では、得意科目を伸ばした先に何があるのだろう。自分は英語が必要とされる仕事に就きたいのだろうか。そこで息が持たなくなり、水の中で空気を吐き出すと瑞海が頭を引っ張りあげる。むせながら大声で「将来のために勉強がしたい」と叫ぶと、厳しくも瑞海は「嘘つくな。次」と言ってまた陽の頭を水に沈めた。陽は必死で思惑する。このままだと本気で窒息させられてしまうと思ったからだ。瑞海の行間は先ほどより狭くなっており、本質から遠のくほど短時間での呼吸を強いられる。先ほどの続きを考える。何故英語に、いや、異国の文化に惹かれるのだろうか。何故、自分は邦楽よりも洋楽を好むのか。親の影響?……違う。外国への憧れ? ……それも違う。日本語以外の曲を聴く虚栄心、それもある気がするが、本質とは違う。例えば、何故学年の順位を上げたいのか。それは簡単だ、よい高校へ行くためだ。ではなぜ、よい高校へ行きたいのか。よい大学へ行くため? いや、自分は、おそらくそこまで未来のことを考えついていない。そこで三度目のタイムアップが来た。今度は陽が息を吐き出す前に頭が上がった。陽は息も絶え絶えに、適当に考えついた「良い職に就きたいから」という抽象的な言葉を言った。瑞海は呆れたように、「やる気出せ、次」といってまた数秒で陽の顔を水面に押し付ける。頭の中の酸素濃度がえらく下がったのを感じた。もはやぼうっとするし、視界もあまりよくない。息をするのも忘れてしまった。このままでは死んでしまう、と思った。そして同時にある考えに行きつく。いっそ、瑞海に今ここで殺されても構わないと思ったのだ。今の陽には、この先生きたいと思う活力がなかった。家族は今ここで自分が死んだらなんと思うだろう。六つ下の身体の弱い弟の心配ばかりして、自分のことには何も首を突っ込んでこなかった両親が。夜中のプールで、稀代の美少年に溺死させられたら、いったいどんな顔をするだろう。むしろそっちを見てみたい。陽はぼうっとする頭の片隅で考えた。そうだ。自分はずっと、いっそ死んでしまいたかったのだ。トレイシー・チャップマンのファーストカーのように、このまま平凡に生きながらえるくらいなら、この町でただ死んでいくだけなら。そこまで考えたとき、ふと顔があげられた。陽はその場に崩れ落ちた。意識が遠のいていく。瑞海の声が、はるか後方から聞こえる気がする……――

「陽」

 瑞海の声で、陽は目を覚ました。

「大丈夫か?」

 言うに事を欠いてなにを、と陽は思ったが、ぼうっとする頭の片隅で、考えついた答えが爛々と輝いているのを見つけた。それが彼の見ている思いの本質であることに、ようやく気がつく。三つの目標に共通する本質が、一つだけある。

「ここからでていきたい」陽はか細い声で言った。同時に涙が溢れてきた。それは瑞海がいつも口にする言葉と同じだった。「自由になりたい」

 陽は自分に特出した才能がないことに悩んでいた。テニスが上手くなったら、英語が特に伸びたら、学年で順位をいいところまで上げられたら。けれどそれは自分が決めた目標ではない。同調圧力、田舎の小さな町で生きながらに得る劣等感、焦燥感、そんなものが陽の人生を決めていくことに、本当は気づいていてうんざりしていた。自分の目標ではないことが一生続くのであれば、いっそここで命を絶っても同じことだと思っていた。けれど、僅かに一筋、終わらせる前に試してみたいことがある。この町から出て自分自身で生きていくことだ。まだ抽象的なその思いだったが、それは陽の自意識が気づかなかったひとつの本質だった。

「いいね。良い答えだと思う」

 人をそこまで追い込んだ瑞海は、涙でぐちゃぐちゃになった陽の顔を眺め、月光に照らされながら美しい顔で満足そうににこりと笑っている。陽は身をもって、瑞海がただの少年ではないという結論に辿り着く。

「お前、いったい何者?」

 しかし瑞海から帰ってくる答えは陽の期待するものではなかった。

「お前にはおれがどう見える?」

 生ぬるい月夜に照らされた、水浸しの少年の美しさを形容する言葉を陽は知らなかった。得られない答えを追求するよりも、彼の質問が意味をするなにかを陽は知りたがった。

「綺麗だ」

 陽が素直にそう答えると、そうか、と瑞海は言って笑った。

「またおれと遊んで。夏が終わるまででいいよ」

 そう言って濡れたズボンをもう一度絞った。その笑顔が悲しげであった理由を、陽は後になって知ることになる。


 <続く>

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る