最終話

「どうやら縁があったみたいだねえ」

 イヤホンを外しながら、満足そうにかなえは振り返りながら言った。

「何してるんですか?」

 僕は顔が綻ぶのを抑えながら言った。

「それがさ。食器を洗うのを忘れてね。さっき引き返して来たところなんだよ」

 かなえは真面目な表情を作りながら答えた。ふざけやがって。

「それにしては階段を降りていく足音が聞こえませんでしたけど」

 僕は自分でそう言いながら、そういえばかなえが出て言ってから外階段を降りていけば聞こえるはずの足音を聞いていないと思い出していた。普段であればうるさいはずの、金属製の階段の音を。

「部屋を出てからすぐ思い出したんだよ」

「それなら入ってくればいいでしょうに」

「私から来ちゃダメだって言ったのはキミでしょ?」

 かなえの返答の正当性に僕は詰まった。

「それにしたってロマンがなさすぎますよ」

 僕たちは目を合わせて、そして笑った。

「ロマンを追い求めて、大切なものを失うのが怖かったから」

 かくいう僕もそうだ。そんな悠長なことをして後悔するのは目に見えていた。だからこそこうしてかなえを追いかけて来たのだから。追いかけるまでもなく、すぐそこでかなえは待っていてくれたけれど。

「それにしたって、あんなにジュンヤのこと好きって言ってたじゃないですか」

「違うよ。あれはキミがジュンのどこに惹かれたかを聞いてきただけでしょ」

 僕はポカンとした。

「何が違うんですか」

「んー、何も違わないかもね」

 全く、と僕は苦笑いした。

「かなえさんの惹かれるポイントに僕は当てはまって見ないみたいですけど」

 僕はあえて悲しい表情を浮かべた。

「そんなの。結局関係ないんだよ」

 僕にはよくわからなかった。

「それにしてもいつ出てくるのかなって思ったよ」

「出てこなかったらどうしてたんですか」

「さあ?」

 かなえは本当に考えていなかったんだろう。さも興味なさげにそう答えた。

「危ないって、言ったじゃないですか」

「確かに。最近、この辺で男性にイタズラされた女性がいるみたいだしね。酔いつぶれて無防備な、いたいけな女性に」

 かなえはいたいけな、という部分を強調していた。僕が言い返せないことを知っているくせに。

「で、キミはそんなに急いでどこへ行こうと思ったんだい?」

 かなえはいたずらな表情を浮かべて僕に尋ねてきた。本当に意地の悪い人だ。

「溢れちゃった水を、お盆に返そうと思いましてね」

「ほほう」

 かなえは怪訝そうな表情で僕を見つめたが、僕の発言の意図を汲み取るとにっこりと微笑んだ。

「で、戻せそうかい?その水は」

 かなえは僕の目をまっすぐに見つめながら尋ねてきた。

「それはこれからわかります」

 僕はその前に、と言ってかなえを部屋の中へと促した。寂しそうにしていた部屋に再び活気が戻っていくのを感じる。

「いいじゃない」

 新たに壁にかけた額入りのパズルを見ながらかなえが満足そうに言った。

「さっきかけました」

 満足そうなかなえは僕の言葉を聞きながら、ソファに腰掛けた。

「で、キミがいう水の戻し方はどうなんだい?」

 かなえは期待に胸を膨らませているかのように、大きな瞳で僕を見つめて来た。僕はかなえの隣に腰掛けると、深呼吸を一度した。

「それは」

 僕はそんなかなえの大きな瞳をしっかりと見つめ返した。心臓がドンドン高鳴っているのを感じる。こんな気持ちはいつぶりだろうか。僕は大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出した。

「かなえさんのことが好きです。結婚してください」

 僕はおどけることもせずに言った。もしかしたら声が震えていたかもしれない。僕の言葉を聞いて呆気に取られていたたかなえは、プッと吹き出して口を開いた。

「もう。順番がおかしいよ。まずは付き合うのが最初じゃないの?」

「ちゃんと付き合ったじゃないですか。今日一日だけですけど」

「それはそうだけど」

 やっぱりキミは変な人だなあと言って、かなえは笑った。

「私もここに住もうかなあ」

「さすがに遠すぎませんか?」

 驚きながら僕は言った。

「ちょっと。朝と同じこと言ってる」

 かなえは笑いながら言った。

「だって、かなえさんの職場から相当遠いですよね、ここ」

 僕は朝と同様にかなえの職場を考えながら、その通勤時間を勝手に計算していた。

「たとえ通勤時間が長くても、彼氏とは一緒にいたい」

 かなえはそんな僕の頭の中を見透かしたのか、そんなことを言った。

「じゃあ」

「あ、待って。やっぱりそれはこれから私が見定めていくから」

 僕はかなえの返答にはっきりと落胆した。

「たまには待たせる側にも立たせてよ。そんなに待たせたりはしないから」

 かなえは笑いながら言った。こういうのも悪くないのかな、なんて僕は思い直した。

「キミだって一日しか過ごしていない相手じゃ素性がわからなすぎるでしょ」

 確かにそうだけど、僕はそれで十分だと思っていた。

「引っ越そうかなあ」

 僕はかなえの顔を見ずに言った。

「こんな素敵な部屋を?」

 かなえが驚きながら聞き返して来た。

「ここは僕の部屋であり、かなえさんの部屋でもあった。思い出がありすぎます。いい思い出も、悪い思い出も」

 僕とかなえはどちらともなく部屋を目線で見回した。僕もかなえもそれぞれが抱いているこの部屋での思い出を思い返している。

「確かにねえ」

 かなえがポツリと言った。

「いろんな思い出があるよ、この部屋には。今日のことだって大切な思い出の一つだけどさ」

 僕はかなえの言葉に頷いた。

「だからこそ、また一から作っていきたいんです。新たな環境で、かなえさんとともに」

「それも、悪くないかもね」

 かなえも笑顔で頷いた。

「泊まって行きますか?」

「ダメって言ったでしょ、キミが」

 かなえが得意ないたずらっぽい笑みを浮かべて言った。

「ケチ」

「ケチはそっちでしょ」

 僕たちは互いの表情を見て笑った。

「でも今度こそ送って行きます。ここは譲りません」

「ありがと」

 僕たちはゆっくりと立ち上がり、玄関へと向かった。

「それより連絡先教えてくださいよ」

「えー、ロマンはどうしたのよ」

 そんなこと言ってたらもう二度と会えないよ。そんな冗談を言いながら連絡先を交換した。

「今度は誰の部屋になるんだろうね」

 靴を履き終えて先に外に出たかなえさんがそうこぼした。

「さあ。この部屋自身が良い人を引き寄せてくるんじゃないですか?僕らみたいに」

 僕がそう言いながら外に出ると、かなえさんはバーカと言いながらくすくすと笑った。

 部屋のドアが大きな音を立てながらゆっくりと閉まった。



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誰の部屋 林としや @hayashi-toshiya

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