中編



 高夜根神社の歴史はそこそこ長い。


 始まりはウィズランド王家が異世界である地球に別荘を作った事がきっかけである。全てのしがらみから解放される完璧な遊休の地を求めた結果か、はたまたいざと言う時のシェルターだったのかは、今となってはわからない。


 最初は温泉があるこじんまりとしていた別荘なのだが、地球側の、日本の人口が増えるに連れて、彼らの姿は浮き始める。そこで日本人と似た特徴があった為、別荘の管理を任されていたタカヤネル家の当時の当主は、自ら高夜家に名を変え、神社を併設する事にした。


 結果、ウィズランド王家の人々は、その身体的特徴と魔法と言う超常の力により、信仰の対象に変化する。時々しか姿を見せない事も好材料だった。現在高夜根神社には天狗が祀られているのもその為だ。


 神社への切り替えが成功した事により、日本での居場所を盤石にしたウィズランド王家は以後、長期の休暇は高夜根神社にて過ごす事が慣例となっていた。


 なお、高夜家の当代である涼子は、元々はリヨウ=ウィズランドと言い、ウィズランド王家の人間だ。現国王の姉に当たり、魔力適性がなかった事から王位継承権はなく、高夜家に嫁いだ経緯がある。


「早いうちに戻すのかい?」


「む、無茶を言わないでよ姉さん。それじゃあ何の意味もないんだ」


 涼子は普段占いを行っている卜占室で、水晶を前に、はん、と鼻を鳴らす。


 球体の中では、熊のようなウィズランド国王が寒さに震える子犬のように縮こまっている。


「意味、意味だって。よく言うよ。娘一人を通知一枚で私の所へ送りつけておいて、どんな大層な意味があるっていうんだい?」


「そ、それはその、今回エミリアを送る件はちゃんと伝えようと」


 蹄の音を奏でるように指で台を叩き、涼子は相手の言葉を遮ると、ニッコリ笑って水晶を覗き込む。


「い、み、だよ」


 エミリアが突然来た事は、彼女に取ってはまるで問題ではないのだ。ここが高夜根神社である以上は。


 ハンカチで額の汗を拭いながら、しどろもどろ、国王は告げる。


「あ、あの子は自由にさせすぎた」


「本人もそう言っていたが、言うほどのものかい?」


 涼子にしてみれば、多少の奔放さを除けば、外遊などはきっちりこなしているようにしか見受けられない。


「姉さんの時とはわけが違うんだ。あの子には、継承権がある」


「イザベラが先だろう?」


「順位の問題じゃない。あの子には、柔軟で自由な物の考え方を身に着けてもらいたかったが、思った以上に無邪気に育ってしまった。このままでは、何かあった時にとても指名できない」


「王家の人間としての自覚、か。それなのにわざわざ私の所へ預けようって言うのかい」


 一服しながら、彼女は笑う。あまりにも、自分には無縁の話だ。


 魔力の適性が低いだけならともかく、皆無に近かった涼子が王家として他の兄妹達と同等の扱いを受けていた時期はほとんどないのだから。


「私にゃ教えられる事なんざ何もないよ」


「そんなつもりは毛頭ないよ。あの子に命じたのはあくまで視察なんだ」


「あんた、本気で言ってるのかい?」


 涼子はすっと目を細め、鋭く王を射抜いた。


 てっきり二つ三つお灸を据える程度の事かと思っていたが、向こうの言い分は完全に放逐だ。


「一体全体、何をやらかしたんだい」


 涼子は大きく首を傾げる。


 警邏隊として不興を買ったりした程度にしては、あまりにも対応が大げさ過ぎる。


 参った、とばかりに国王は目を逸らすが、諦めたように大きく溜め息をついた。


「くれぐれも、内密に頼むよ」


「あんたね。私が一体どうやってよそ様に話すっていうのさ」


 今こうしてきっちり話をできているのとて、魔力がこもった球を定期的に送ってもらっているからなのだ。たまにしか使わないからこそ安定して通信できているだけで、そうしょっちゅうできるものではない。


 そんな事は、向こうも百も承知のはずだった。


「そうだった。ごめん、姉さん」


「それで?」


「ああ、実は」


 国王はとつとつと、姉に全ての事情を説明する。


 話を聞き終えた涼子は、我慢していた全てをぶちまけるように吹き出した。


「あっはっはっはっ! いやはや、そりゃすごい。なるほどなるほど、やられた方は面白くないね」


「わかってくれたかい?」


 涙を拭きながら、何度も彼女は頷いた。


「ああ、事情は把握したよ。まあ、自覚が足りないといわれても仕方ないね」


 話を聞いた限りでは、国王が頭を悩ませるのも無理はない。


 しかし、それだけに、彼女にしてみれば愉快であった。


 自分も相当色々と文句を言われてきた側だが、エミリアのした事は勝るとも劣らない。いや、彼女が置かれていた立場を考えればありえない事か。


「まったく、他人事だからってそんなに笑わなくても」


「いやいや、すまん。くくっ。しかし、なんだな」


 ひとしきり笑った涼子は間延びした調子で国王に尋ねる。


「あんた、その時はどうしたんだい?」


「どうしたって、エミリアにはもちろん十分注意したさ。ただその後は、聞いての通り警邏隊での騒ぎだよ」


「いや、そういう事じゃ――ああ、もういいや」


 王の不思議そうな様子に、全てを悟った彼女はぐしゃぐしゃと頭を掻き、とても醒めた、出来の悪い弟よりもさらに低いものを見る目を向けた。


「それでこっちに送り込んできたわけか。有無を言わさず」


「微妙な時期が続いてるんだ。海の向こうだって」


「ああ、そうかい」


 たちまち不機嫌になった涼子に、国王はただでさえ小さくなっていた肩をさらにキュッと寄せた。


 もはや犬どころか団子になりそうである。


「な、なんだい姉さん。そんな目をしたって、僕はエミリアを戻す気は当面ないからね」


「いや、そりゃいい。あんたはそういう所は昔から、曲げない奴だしね。ただ」


「な、何さ」


「本当に国王になっちまったんだね」


 寂寥か、侮蔑か、はたまた嘲笑か。涼子は背を向けて、ただ呟く。


 国王は、はっとなり俯き、力なく、彼女に向けて言葉を搾り出す。


「そうさ。僕には、僕の、責任があるんだ」


「あの子の面倒はちゃんと見るよ。安心して、政治でもしてな」


 返事を待たず、一方的に涼子は通信を切断する。


 背をどっぷりとイスに預け、肘掛をぎゅっと握り締める。


「ったく、親子揃ってどっちもどっちだよ」


 せめて義妹が、母親が生きていればもう少し違ったのだろうか。


 だが、今更そんな事は言っても仕方ない。


「王家としての、自覚ねえ」


 目的も事情もはっきりしたが、それだけにどうにもならない。


 少なくとも、涼子自信教えられることではないし、言っただけでそれが身につけば、こんな楽な事はない。


 そうなると本人が気付くしかないわけだが、果たしてこちらの世界でそれが叶うかどうか。


「まあ、いいか。いっそ私の娘になってもらえば」


 考えるのに疲れたと言うか、飽きたというべきか。


 面倒くさくなった涼子は、さっさと妥協案を見出して完結し、朝食前に一眠りすべく、卜占室を後にするのだった。




「ん~、んん?」


 自然に任せた目覚めなど、一体いつ以来だろうか。


 実に清々しく起きたエミリアはググッと体を伸ばす。木枠のシーリングライトをはじめ、木と紙の匂いのする部屋はとても懐かしい。


 いや、その部屋の全てが、彼女にとっては懐かしかった。


 布団も家具も、置かれた本や人形まで、全てが、五年前に訪れた時のまま、タイムスリップでもしたかのようだ。


「ふふ」


 何故だかとてもほっとして、彼女は微笑む。


 障子から差し込む夏の陽射しに、まぶしさを覚えつつ、布団を跳ね除ける。


「え、あ、あれ?」


 壁の時計に、目を点にする。針が右向きに九十度を描いている。


 おかしい。自分がここに来たのは朝だったはず。十時間近く寝ていたことになる。


 そんなバカなと思う彼女をあざ笑うように、時計から現れた鳩が三回鳴いた。


「ああ、そっか。壊れてるのよね」


 エミリアは指先に念を込めて時計に向けるが、どこかバカにしたような目の鳩の人形が戻って行くだけだ。


「うそ~ん!?」


 およそ半日を睡眠に費やした事に彼女は叫びを上げる。曲がりなりにも視察の名目で来ているのだ。


 訪れてなかった期間に起きた動向くらいは午後のうちに調べておこうと思ったというのに。


「ううん、落ち着け、私」


 いや、まだ一縷の望みはある。電池残量だ。


 真偽を確かめるべく、廊下に飛び出す。


 隣にある洋介の部屋をノックしようとして、手を止める。


 居間の方が少々騒がしい。彼女はふらふらとそちらへ引き寄せられる。


 部屋の前に立つと、気のせいか、幼い声が合唱しているようだ。


 小さく襖を開け、中を伺う。


「あんちゃん、まだ~?」


「ちょっと、止めなさいよ」


「はいはい、待て待て。あちちっ、おっと」


 卓袱台を囲んだ数人の子供達に、洋介がおにぎりを作っている姿が飛び込んでくる。


 エミリアは折れんばかりの勢いで首を傾げた。


「あらら~?」


 スパン、っと大きな音を立てて、身を影にしていた襖が開く。


 横になった涼子が眠たげな目でこちらを眺めていた。「そんな所で見てないで、こっちにおいで」


 途端に、子供達の視線が集中する。戸惑いが手に取るように伝わってくる。


 こういう時は、フレンドリーに対応しておけば間違いあるまい。


 エミリアは力いっぱい笑顔を浮べて手を上げる。


「はあい、初めまして」


 それが皮切りとなって、ざわめきが波のように広がった。


「あああ兄ちゃん、この人誰!?」


「わぁ、綺麗な髪~」


「がが、外人さんっ。僕、初めて見ました」


「お姉さん、妖精さん?」


 等々。反応は男女年齢でバラバラだったが、誰もが興味津々。反応は決して悪くはなかった。


 エミリアはウィンクしながら両手で自分を指して挨拶する。


「私はエミリア。そこのお兄さんの、従姉よ。みんな、従姉ってわかる?」


「知ってる~」


「兄ちゃん、この人とシンセキなの?」


「んん、まあな」


「兄ちゃん、すげえや!」


「いや、お前ね。ああ、もういいや」


 洋介はそっけない反応ながらも、口元を上げておにぎりを作り上げて皆に配る。


 涼子はあくび交じりにゆっくり立ち上がると、エミリアの肩を叩く。


「あ~、皆。このお姉ちゃんは親戚でね。暫くこの家に居る事になるから、仲良くしてあげてくれ」


「は~い」


「わかりました、神主様~」


 元気な返事に、満足気に頷いた彼女は、エミリアに耳打ちする。


「ほら、あんたもちゃっちゃっと座った座った」


「え、あ、はい」


 どうやら時間からして、この子達のおやつの時間らしい。


 押し切られるようにして、彼女は洋介の隣に座らせられた。


「お前の分もあるぞ。飯抜いただろ。食っとけよ」


「え、本当? いいの?」


 他の子達より一回り大きなおにぎりが差し出される。エミリアはキラリと目を光らせた。


 彼女のお腹は、すでにいつ鳴き出すかという状態だったのだ。


「よ~し、それじゃあみんな、いただきます」


 洋介の合図に合わせて、幼いいただきますの合唱が居間に響く。


 みんな一口食べて次々と笑顔を咲かせていく。


 エミリアもぱくりとひと口。


 あったかいお米の食感と海苔の風味、そして程よい塩気が口の中に広がる。


「あ~、おいしい。久しぶりに食べたけど、やっぱりお米はおいしいわね」


「そういや、向こうじゃパンとかが主流だっけか」


「そうそう。でもパンもましよ。アカデミーの食堂なんてなんて豆中心で、今思い出しても信じられないわね」


 エミリアは一足先にぺろりと平らげてしまう。


 子供達は熱さになれてないのか、はふはふと少し苦戦中だ。


「それより、この子達はどうしたの? 結婚でもしたの?」


「悪い冗談だよ、ったく」


 洋介の説明によると、定期的に開いている教室の生徒達だという。


 神社で奉納している演武や神楽を、伝統芸能として教えているのだとか。


「昔からやってたっけ?」


「今みたいになったのはここ数年だな」


 最初は氏子達に儀式に参加してもらうために行っていたものだったが、市内の開発や儀式参加の氏子の減少に合わせて、学童保育的側面を要した、教室に変わっていったのだ。


「まあ、家に置いておくよりは安心、なのかしらね」


「それは親御さんの判断だからな。利用者の少ない建物ってのは傷むのも早いから、人が来る分には歓迎だ、とは母さんが言ってたな」


「そうね。それはわかるかも」


 ふと、母親の部屋を思い出し、エミリアは目を伏せる。


 誰も使わなければ、そこはもう、無いも同然だ。


「お姉さん、大丈夫?」


 四人の中で一番小さな女の子が、心配そうに見上げてくる。


「ああ、うん。ごめんね。大丈夫だよ」


 まったく、こんな小さな子に心配されるとは。


 まいったまいったと自分の頭を叩きながら、エミリアは目線の高さを合わせて笑い返す。


 だが、彼女に注目していた子供達の間にも心配そうに見つめる者達が増え、しんみりした空気が流れ出す。


 それを振り払うように、彼女はパンと手を叩いた。


「そうだ。皆、この後一緒に遊びましょう」


 こういう時は、何か他の事をするに限る。小さい子供達なら尚の事だ。


「そうだね、いいんじゃないか」


 涼子が目を瞑ったまま、彼女の提案を後押しする。


 体格の一番いい少年が、ガバっと立ち上がった。


「本当、神主様!?」


「ああ、たまにはそれもいいだろうさ。せっかくの夏休みだし、みんな練習がんばってたからねぇ」


「やったあ!」


 一気に居間が、子供達の元気な騒がしさを取り戻す。


 誰もが期待交じりに、何をしてもらおうかと話し合っている。


「ほらほら、お前ら。まずは食っちゃえよな~。おい、そんなに急ぐと詰まらせるぞっ」


 洋介はさっそく喉を詰まらせた子供の背中をさすって介抱する。


 こうして見ると、本当に兄弟のようだ。


 エミリアはその様子を横目に、さっと立ち上がる。


「さて、と。それじゃあ洋介、後はまとめておいてね」


「おいおい、主役がどこ行こうってんだよ」


「着替えよ着替え。この格好は向いてないでしょ」


 彼女は、家から放り出された時と同じ、ワンピース姿だったのだ。


 洋介はのんびりするなよ、と手を振って返す。


「じゃあね。伯母様、ありがとうございます」


「なあに。その分私も楽が出来るからね。それに、仲良くなるならこれが一番だよ」


 エミリアは、入り口に相変わらず寝そべっている涼子にお礼を告げてから、部屋を後にする。


 襖を閉めた彼女は、しかし、すぐにはその場から歩き出せなかった。


 背後からは相変わらず子供達の声が響いてきている。


「やっぱり、変わらないわけないわよね」


 溜め息混じりに、彼女は誰にともなく呟く。


 少しばかり、留守にし過ぎたのだろう。


 神社はともかく、この家も、彼女達だけの場所ではなくなってしまっていた。


「ダメダメ。こういう時は笑顔が一番」


 両手で頬を叩いて喝を入れ、彼女は急ぎ足で部屋へと戻るのだった。




 Tシャツにジーパンと言うラフな格好に着替えたエミリアは、子供達に引きずられるように外へと出る。


 提案された遊びは、


「かくれんぼ?」


「まあ、鬼ごっことかだとハンデがあるしな」


 エミリアは自分と洋介を見て、納得する。


 二人が鬼になろうが逃げる側になろうが、間違いなく、負けないのは目に見えている。


「それで、鬼は」


「「お姉さん!」」


 予想していた通り、子供達が一斉に宣言する。


 彼女はぶんぶんと腕を回した。


「よし、任せなさいな。皆すぐに見つけてあげるからね」


 高夜根神社は、そこそこ広さがあるものの、お互いに声の届く範囲でやるのだから、距離は限定される。


 エミリアは、子供達に指示されるまま、両手で目を隠すと、その場にうずくまる。


「それじゃあ、カウント始めるわよ~」


「よし、皆、隠れろ!」


 百のカウント開始に合わせて、子供達が一斉に散って行く。


 ふと、隣に気配を感じて、エミリアは声をかける。


「あら、洋介。あなたは隠れないの?」


「ん~、俺はいいさ。それより、カウントとまってるぞ」「いいのよ、ハンデハンデ。それより、洋介も隠れてよ。じゃないと、張り合いないでしょ。それとも、私に見つかるのが怖いのかしら?」


「挑発になってないぞ、それ。だけどまあ、そうだな。たまにはいいか」


 軽く頭を叩かれたかと思うと、大きな足音が遠ざかっていく。


 少しだけ、彼女は気分が高揚していた。昔、もっと小さな時に、二人で遊んだときと同じ合図だ。


「ふふ」


 彼女はカウントを再開するが、駆け足にならないように気をつけなければならなかった。


「もーい~かいっ?」


 大きく声を張り上げると、大小さまざまな、もういいよ、が返って来る。


 タイミングはほぼ一緒で、距離感などがわからないようにされていた。


 子供達はだいぶ慣れている。と言うよりも、研究していると言っていい。


 ちょっとばかり油断していたかも知れない。


 目隠しをやめて立ち上がった彼女は、ぐるりと周囲を見回す。


 子供達が居る間は気付かなかったが、参拝客の視線がこちらに集中している。


 あるご老人夫婦にいたっては、奥さんが腰を抜かしていた。


「あらら~」


 なんだかやりにくいなと思った矢先、涼子が社務所から現れ、奥さんを助け起こしながら、色々と話をする。


 どうやら、自分の事を説明してくれたらしく、老夫婦はすぐに優しい会釈をしてくれた。


 他のお客さん達も、彼女の説明を聞くと同様に挨拶してくれる。


「あはは~、どうも~」


 彼女は手を振り返しながら、涼子に尊敬の念を抱く。


 普通なら、もう少し警戒されそうだと言うのに。よほど信頼されているようだ。


 視線から解放されて、彼女はぐっと腕に力をこめる。あまり待たせても悪いので、さっそく探すとしよう。


 ここは一つ、凄い所を見せたいものだ。


 そう思った彼女は、大きく息を吸い込み、両手を広げて体に流れる血液にも似た力の流れを、意識を、集中させた。




「兄ちゃん、こっちこっち」


「おっ、健。いい所を見つけたな」


 エミリアから隠れるために場所を探していた洋介は、かくれんぼうを提案した少年に呼び止められる。


 彼の他、数人が神楽殿の入り口下に身を潜めていた。


 手水などもあり、丁度影になっていて、大きく回りこまない限り、見つかる心配はなさそうだ。


 隠れる場所を探していた彼でも、恐らく言われなければ気付かなかっただろう。


「俺もいいのか?」


「もちろん。ここなら、絶対勝てるよ」


 最悪、木の上で青々茂った葉の中にでも隠れようかと思っていた洋介は、お言葉に甘えて体を滑り込ませる。


 ちょっと狭いが、彼の体でも十分入る事が出来た。


 こういう所は、やはり子供の方が見つけるのが上手い。


 すると、程よく、エミリアの問いかける声が聞こえてきた。


 子供達は、少しの間を空け、他の所に隠れた子供達と合わせるように、返事をする。


「お、うまいな」


「へっへ~。練習したもんな」


「こうすると探しにくいんだよね~」


「こりゃ、俺ももう見つけられる自信はないぜ」


 洋介のお墨付きに、健を初めとした少年達は、ガッツポーズをしたり、鼻の下をこすったりする。


 しかし、負ける心配はないとは言え、あまり簡単にギブアップするような相手でない事も知っていた。


 神社の手伝いなどにも影響がでるから長期戦はあまり望ましくないな、などと思っていた矢先、少年の一人があっ、と小さな声を上げて、胸元を叩いた。


「洋介兄ちゃん、ここ、どうしたの?」


「んん?」


 確認すると、うっすらと光を帯びた、見覚えのある幾何学模様が浮かんでいる。


 彼は慌てて小袖の襟をきゅっと閉じてその文様を隠した。


「ああ、かぶれたかな」


 慌てて誤魔化しつつ、今一度少年達に背を向けて確認。やはり、文様は浮かんでいた。


 冗談だろ、と内心毒づかずにはいられなかった。


 それは、ウィズランド王家の家紋。それが意味することはただ一つだが、常識的に有り得ない事だった。


 これは子供達の遊びだ。まさか彼女でもそれはないだろう、と思考を巡らす。


 その時、明るい声が響き渡る。


「み~つけた」


 洋介は、とっさに額に手をやる。


 その拍子に、足場の骨組みに頭を強打。視界に火花が散った。


「おぶうっ」


 このバカ、やりやがった。




「じゃあね、兄ちゃん。お姉ちゃん、今日はありがとう。楽しかったよ!」


「はいは~い。また今度ね~」


 夕方遅く、迎えにやって来た親と子供達を、手を振って見送る。


 三時間余りで、エミリアはあっと言う間に子供達の人気者だった。


「お姉ちゃん、凄かったんだよ。どこに隠れてもあっと言う間に見つけられちゃって、まるで天狗様みたいだったよ!」


「あらあら」


 そんな会話を、もう何度聞いた事か。


 洋介は気が気ではなく、げっそりしていたが、幸いというか何と言うか、真に受ける親は誰も居なかった。


「子供達って素直でいいわね~」


 優しく最後の親子を見送った彼女の肩を、洋介は力いっぱい掴んだ。


 この時を、ずっと待っていたのだ。


「ちょっと来いっ」


「ちょっとちょっと、痛いってば」


 自宅の居間へと嫌がる犬を連行するように引きずって行く。


 障子を閉めて、襖も閉めると、彼女をその場に正座させた。


「もう、何よ突然」


「正気かお前は!?」


 噛み付かんばかりの勢いで、エミリアへと詰め寄る。


 彼女は大声に驚いたものの、顎に指を当てて小首を傾げる。


「ん~と、何のお話?」


「魔法を、使っただろうがっ」


 勢い余って、畳をバンバン叩いてしまうが、彼女は動じない。


「あはは~、ばれた?」


「むしろ何でばれないと思ったんだよ」


 今は薄れて来ている胸元の文様を見せ付けるようにして聞き返す。


 エミリアは、自分の額を軽く叩き、あちゃ~、と呟いた。


「だって、普通そこまで見ないもんでしょ」


「そうだな。俺も危うく見逃す所だった。だが問題はそう言う事じゃない」


「じゃあ何が問題なのかしら?」


「魔法を使ったことそのものだよっ!?」


 荒れるのを通りこして声が上ずる。


 わざとか、わざと聞いているのか。そんな邪推をせずには居られない。


「え~、そうかしら。あの子達喜んでたけど」


「子供の遊びに魔法使って、フェアじゃないにも程があるだろっ」


「それくらいわかってるわよ。あくまでも、挨拶みたいなものじゃない。あの子達にとっては不思議なお姉さん、で固まったでしょ」


 次はお遊戯で魔法は使わないわよ、と彼女は告げるが、まるで信用ならない。


「走査魔法を使った事が大人気ないってだけじゃない。これで大人達にまで魔法がバレたらどうする気なんだ」


 今日の親達の反応からしてその可能性は少なそうだが、今後もエミリアがやらかす事があれば、可能性は決してゼロではない。


 そうなれば、保養地としての役目自体がなくなってしまうのはもちろん、二つの世界をまたにかけた大騒動になってしまう。


「んも~、いくら私でもわかってるわよ。だから今回は特別だってば」


 彼女はのほほんとしていて、説得力はゼロだ。


 だが、お互いにもう小さな子供と言うわけではない。これ以上言った所で何も進展はないだろう。


 洋介は「くれぐれも気をつけてくれよ」と最後にもう一度念を押し、肩をすくめながら両手を上げ、話を終わりにする。


「どーんっ!」


「おわっ!?」


 突然エミリアに飛びつかれ、後頭部をしたたかに打ち付けてしまう。


「何しやがるっ」


「んふふ~」


 洋介に馬乗りになった彼女は、鼻歌交じりに彼の服に向けて指を指す。


 途端に、胸元が開き、うっすらと光る紋章があらわになる。


「お、おい。何の真似だよ」


 彼女はそれを指でそっとなぞる。


「コレは、変わってないのね」


 洋介は急いで引き離そうとするが、彼女の呟きにその手が止まる。


「そりゃ、そうだろ。お前が望まなきゃ」


 これが消えるはずがない。これは、証なのだから。


 自然界に魔法の源たる魔力がほとんど存在しない地球において、生体には存在する魔力を相手に供給する事を承諾した契約の証。


 普段は消えているが、魔力を相手に供給してる際は、淡い光と共に浮かび上がる。


 本来は動物などに行い使い魔とし、予備魔力として活用するための手法だが、それをわけあって、以前洋介は彼女と交わしていた。


「うん、そうね。ふふ、ちょっと、ほっとしちゃった」


 彼女は、洋介の胸に顔をうずめるようにして、そっと呟く。


 まったく、自分もダメだな。そんな気弱に言われては。


 怒気も抜かれて、顔を真っ赤にしながらも、彼は、引き離そうとした腕を下ろす。


「ねえ洋介。明日は空いてるの?」


「まあ、今の所は大きな用事はないぞ」


「じゃあ街を案内してよ。色々と、変わってるんでしょ」


 断る、と言う選択肢は洋介の頭には浮かばなかった。


「おっと」


「へ?」


「あ」


 不意に聞こえた声に寝転がったまま顔を向けると、上下逆さまの涼子の姿が目に飛び込んでくる。


 ぶわっと、背中から汗が吹き出す。


 この状況は、朝の風呂より言い訳不能だ。桶どころでは済まない。


 やましい所は何もないが、声が出ない。口をパクパクと動かす彼に対し、涼子は眠そうな目でじっと二人を見つめ「一姫二太郎で頼むよ」と言い残して、襖を閉めた。


「親としてどうなんだよそれっ!?」


 思わぬ反応に、洋介はただただびっくりだ。


「ねね、洋介」


「なんだよ!?」


「考えるのは、結婚してから、よね」


 エミリアは頬を朱に染めて、体をくねらせている。


 彼は迷わず彼女の額を引っ叩いた。


「お前もいい加減に、しろっ!」




 翌日、洗濯などの用事を済ませ、約束通りエミリアと街へ繰り出した洋介は、到着した時にはもう既にヘロヘロだった。


 駅前通りから少し脇に入った所にある公園。そのベンチにこしかけたまま、身動き一つ取れず、空を仰いでいる。


 ボケっと大きく開かれた口からは時折「うばはぁ」と珍妙な溜め息がこぼれ出す。


「ねえ、大丈夫?」


「オマエ、ソウミエルノカ?」


 エミリアに聞き返す声も力がない。彼女は、洋介の肩にポンと手を置き、上から顔を覗き込んでくる。


「見えないから聞いてるんだけど」


 じゃあ答えは決まってるだろうが、と言いたいが、声を出すのも億劫だ。


 頭を使うのも面倒という思いがよぎるほどに、彼はグロッキーだった。


「ごめんなさい。ダメそうね」


「だいたい、この距離で、跳躍する奴が、いるかっ」


 原因を辿れば簡単で、エミリアが魔法を使ったからである。


 必要な用事を片付け、鳥居の前で待ち合わせたと思えば、腕を掴まれ、次の瞬間には駅前である。


 魔法で跳んだ。それだけなのだが、その魔力の出所は洋介である。


 魔力は、精気に近いものなので、消費すれば疲れる。


 空間から空間を瞬時に跳ぶとなれば、短い距離でも相応の消費だ。


 まして、神社から自転車で二十分程度の距離となれば、結果は、この有様だった。


「ほら、昨日寝太郎しちゃった分は取り戻さないとね」


 声を絞り出した洋介に、彼女はまるで悪びれる様子を見せない。


 そんな急ぐような立場でもあるまいに、と出かかった言葉を飲み込む。


 言ってどうなるものでもないだろう。


 それで済むなら、そもそも彼女はこっちに放り出されるわけがない。そして何より、言った所で結果は見えている。


「一時間、いや、三十分でいい。寝かせてくれ」


「じゃあ私少し一人で回って来てもいいかしら」


 洋介は返事とばかりにひらひらと手を振る。


 エミリアはコーヒーでも買ってくるわね、と言い残し、まるで蝶のように、ベンチ脇に埋め込まれたタイヤの遊具をひょいひょい飛び越えながら去って行く。


 静かになった公園のベンチに、ゴロリと彼は横になって青空を見上げる。


 まったく、たった一日でボロボロだ。


 客が一人増えただけで、朝起きるのですら大変だった。礼拝を済ませる間に、何度体がバキボキと音を立てた事か。


 それでも約束は約束と出てきてみれば、この有様である。エミリアに振り回されるのは初めてではないが、今の彼女は、久しぶりの日本という事もあるのだろうか。特に押さえが効いていないように感じられる。


「ふぁああ~あ」


 大きなあくびが、セミの声に飲まれて消えた。


 岩にしみいるなんとやら。子供達も居ない公園に疲れた体では、セミ達の奏でる音楽も立派なクラシック。


 あいつ一人にして大丈夫かなとか、立場上一人にさせたのはまずいかも等々、頭をよぎる一抹の不安も、疲労と夏の陽射しの前に吸い込まれて消えて行った。




 駅前へとやってきたエミリアは、うだるような蒸し暑さも何のその。鼻歌交じりに散策を開始する。


 時刻も九時を回り、駅前の大通りには夏の風物詩にも負けぬ喧騒が溢れている。


 通り過ぎる人々は皆彼女の姿に目を惹かれていたが、慣れた物。


 まったく意に介する事無く、ふらっと路地に入ったりして、猫のように街の中を見て回る。


 八岐市は古くは宿場として栄えて来た地である。


 中央には市を縦断する大きな川を湛え、神社がある北東の山林等豊富な自然を売りにして、観光地として根強い人気がある。


 駅前は昔ながらの商店とコンクリートのビルが、見苦しくない微妙なラインで混在していた。


 街の景観は様変わりして、エミリアの記憶とはかなりの差異がある。それでも見覚えのある建物や風景もあり、懐かしみながら歩き回っていた彼女は、はたと足を止めて首を傾げる。


「うーん、うん?」


 洋介と一緒に何度か和菓子を買いに来ていたお店がここにあったはずだが、今目の前にあるのは紛れもなくコンビニだ。


 緑と白の電飾看板には見覚えがある。駅の傍にもあったはずだ。


「ガーンっ」


 別に開いてて欲しかったわけではない。ただ、思い出のある場所がなくなってしまった。


 ほんの僅かな違いだが、急に世界が色褪せたように感じられた。


「あ~あ」


 彼女は少しの間口を開けて固まっていたが、肩を落としてフラフラとどこへ向かうでもなく歩き出す。


 やがて、どれくらい歩いた事だろうか。気付けばせせらぎと言うには大きすぎる水音が聞こえていた。


 彼女はさっと顔を上げ、堤の坂を真っ直ぐかけ上がった。


「わあぉ」


 眼下に広がる力強い川の前に感嘆の声がこぼれる。


 日本有数と言われる雄大な川の流れに引きずられるように、土手の草むらに寝転がった。


 照りつける太陽に吹き抜ける風が心地よい。


 横になって水面を眺めていると、綿埃が流されるように気持ちが少しずつ晴れていく。


「ここも変わってるのよね」


 はた目には堤防も川も昔からのままに思えるが、流れる水は昔のものではないし、川辺利も削られて、水位が下がれば少しずつ姿を変えている様が見えるのだろう。


 それにしても、と彼女は思う。


「早すぎるのよね」


 変わらないものはないとはわかっていても、そんな愚痴を止められない。


 この五年、アカデミーと警邏隊での生活は、変わり映えなどほとんどない日々だった。アカデミーを卒業して帰った国元など、この街の移ろいに比べれば、時間が止まっていたも同然だ。


「毎年、楽しみだったのになぁ」


 ある時、どこでも電話が出来るようになった。またある時は、インターネットで情報がいくらでもやり取りできるようになっていた。


 毎年毎年、何かが大きく変わっていて、それを知るのが楽しみだった。


 でも今は、巨大な箱だったテレビが薄くなり、電気が信じられないほど明るくなっても、以前ほどは驚きも楽しさもない。


 そうした思いすらすり抜けてしまうような、隙間がある。


 ブルッと彼女は体を震わせて体を起こす。


 土手の下では、川から水を引いて作られた遊び場で子供達が男女の垣根なく楽しんでいた。


 最後に洋介とああして遊んだのは、やはり五年前だろうか。


 何かに駆られるように、立ち上がる。


 そろそろ戻ろう。せっかく洋介と来たのだし、それに何より、時間をかけすぎた。


 まだ寝ているかも知れないが、今は一刻も早く戻りたい気分だった。


 力を体全体に行き渡らせるように呼吸を整え、目を閉じる。


 先ほどまでいた公園の姿を思い浮かべた所で、あっと声をあげて彼女は頭を掻く。


「手ぶらはまずいわね」


 コーヒーでも買っていくと言ったのだ。


 反故にしても文句はあまり言われないだろうが、それではやはり気分が悪い。


 跳躍が原因という事もあるし、せめて何か差し入れよう、と彼女は踵を返し、コンビニへ向けて足を走らせるのだった。




 一度は通り過ぎた緑と白の看板のコンビニへと飛び込み、エミリアは他のものには目もくれずに飲料の棚へ向かう。


 やはりLEDとやらは今までより明るいな、と思いつつ、商品を物色する。


 缶コーヒーも色々と種類があって何がいいものか。それに、コーヒーより紅茶の方がカフェインが多いので眠気覚ましには効くと聞いた覚えがある。


「う~むむむ」


 思わず顎をさすりながら考え込んでしまう。


 お茶ならペットボトルも悪くないか、と隣の棚を見た彼女は、ある商品に目を奪われた。


「スパークリング、コーヒー?」


 スパークリングと言うのは、確か炭酸だっただろうか。


 コーヒーなのに、炭酸飲料という事か。


「いいかも知れないわね」


 エミリアはにっと唇を吊り上げた。


 炭酸にカフェイン。眠気を一発で場外ホームランしそうな組み合わせではないか。


 下にちっちゃくエスプレッソと記載されているのも、彼女の心をくすぐった。


 以前洋介がそれを苦さ百倍と表現していたのを思い出す。


 もはや買わない理由はどこにもなかった。


 彼女は冷蔵庫のドアを開けてそれを取り出すと、レジへ向かう。


 店員はこちらを見るや挙動不審になったが、彼女はにこやかにかつ流暢な日本語で「テープでお願いします」と告げると、相手は安心したのか、落ち着いた調子で値段を告げる。


「百五十円です」


「はいは~――い?」


 彼女はおもむろにショートパンツのポケットに手をやり、固まる。


 財布は入っている。入っているが、これは、違う。違うはずだ。


 恐る恐るそれを取り出し、中を確認した彼女は、油の切れたロボットのように、そっと一枚の硬貨を取り出す。


「ウィル、で大丈夫かしら?」


 初代ウィズランド国王の肖像画が彫られた金貨を前に、店員は営業スマイルをこれでもかと浮べた。


「百五十円です」


 エミリアは商品を断り、とぼとぼと店を後にする。


 参った。まさか持ち合わせがないとは。


 魔法で日本円に換える方法もないわけではないが、狐のお金と一緒で、時間が経てば元に戻ってしまう。


 いくら彼女でもそこまでするほど短絡的ではなかった。


 もはややる事はただ一つ。迅速に公園へ戻る事だ。


 魔法で跳んでさっさといこう。そしてお金を借りて何か買って渡せばいい、と思ったが、人が多い。


 彼女は適当に人気のなさそうな路地に入っていく。


 通りから極力見えないようにうずくまり、魔法を使うべく意識を内に向けたその時「ねえ」と呼び掛けられた。


 慌てて顔を向けると、日焼けした金髪の青年が立っていた。


「お姉さん、道に迷っちゃった? 案内してあげるよ~」


 口調はふにゃふにゃ。服装も乱れて足取りもフラフラ、吹けば飛びそうに軽い。まだこんなタイプがいたのか、とエミリアは脱力する。


 こう言う手合いはきっぱり断って逃げるに限る。


「いえ、間に合ってます」


 背を向けて反対側に抜けようとした彼女の前に、先ほどの青年と似たタイプの男が立ちはだかる。こちらは染髪こそしていないが、耳や鼻がやたらキラキラしている。


 間違いなく、お仲間だ。


「へー。お店でもそうだったけど、日本語上手だね~」


「俺たち、この辺詳しいから案内してあげるよ」


「そうそう、ちょっと休憩しながさ」


 ニタニタ笑いながら、男達は下卑た視線でエミリアの体をなめ回しながら近づいてくる。


 動き易さ重視でショートパンツやノースリーブのシャツ等、父親が見たら卒倒確実な露出の多い服装で出てきたとは言え、ここまで下品に邪な目を向けられると実に不愉快だった。


(お茶ならまだしも休憩って、誘い方も酷いわね)


 エミリアは路地の壁を背にして左右を窺う。ダッシュで逃げるには道は狭い。


 魔法を使えばどうにでもなるが、下手をすると洋介を背負って帰る羽目になるので出来れば避けたい。


 幸い表の通りは人通りがある。大声を出せば誰か気づいてくれそうだ。通行人に助けを求めるのは癪だが、何事も妥協点を見謝っては行けない。


「誰か――んむっ!?」


 息を吸い込み、叫ぼうとした瞬間、ピアスの男に口と右手を押さえられ、壁に押さえつけられてしまう。


「おお、ダメダメ。別に酷い事しようってわけじゃないんだよ。大声は困るなあ」


「そうそう、ちょっと楽しい事しようってだけさ」


 しまった、と思うより早く、彼女の左手を掴んだ金髪が腹の辺りをまさぐった。


「ふぁめははいふぉっ」


 体をよじって逃げようとするが、思った以上に相手の力が強い。エミリアはキッと相手を睨む。


「怖い怖い。でも、すぐに気持ちよくなるよ」


 ピアス男の気持ち悪い囁きに合わせるように、金髪の手が段々とお腹から上へと上がって来る。


 これ以上やらせるくらいなら、洋介を担いで帰った方がマシだ。エミリアは呼吸を落ち着け、魔力を丹田に集めて使う魔法を選択する。


 こういう連中には痛い目を見せるに限る。魔力を体全体へ行き渡らせ、相手の体に干渉。体温を一気に低下させる。


「ぶぇっく!? な、何か寒くねえか」


「バカ野郎、何言ってやがんだ。興奮し過ぎじゃねえのか」


 くしゃみをする金髪にピアス男は小馬鹿にした調子で返すが、彼の歯の根も合ってはいなかった。エミリアはさらに相手の体温を下げにかかる。


 下半身は念入りに。アレは凍傷にしてやる、と一気に魔法を強める。


「兄さんら、その辺にして起きな」


 突然、路地に響いた声に、三人の視線が一斉に向かう。その先には、小柄な中年の男性が両手で杖をついて立っていた。


 夏だと言うのにピシッとしたスーツ姿で、杖が本当に必要なのかと思う程しっかりと立ち居姿だ。撫で上げられたオールバックの白髪でニコニコ笑うその人物は、一見すると好好爺。


 紳士然としているが、曲がりなりにも外遊で様々な要人と会ってきたエミリアにはそれが明らかな欺瞞だとすぐにわかった。


 まるで蛇。あの笑顔は獲物の匂いを探る大蛇の舌だ。


 彼女は睨まれた蛙のように身動きできなくなってしまう。


「なんだ、爺さん。俺たち楽しんでる所なんだよ」


「そうそう。邪魔しないでくれよ」


 魔法が途切れた事で男達はにわかに活気づく。


「お前さんらの邪魔をする気はないがね。場所を弁えろ、と言っとる」


「別に俺達がどこで何しようが勝手だろ。あっちに行けよジジイ」


 瞬間、落ち着き払い、暑そうな出で立ちでも汗一つ流していない男性の目に冷たい光が宿る。


「あんたら、聞こえなかったのかね。私ゃね、失せろ、と言っとるのだよ」


「何、ジジイ。喧嘩売ってんのか?」


 金髪達は眉に皺を寄せて男性をにらみ返す。


「ほう、これはこれは。売って欲しいのかね?」


 耳に手を当てて聞き返す彼の姿に、金髪がエミリアから手を放した。


「ジジイ、痛い目みないとわかんねえのかよ」


 拳をポキポキ鳴らして凄む金髪達の鈍さに、エミリアは内心、ため息をつかざるを得なかった。


(やっぱり頭もへなちょこなのね)


 男性はやれやれとかぶりを振って金髪を見上げる。その時、彼が不意に心から笑ったように見えた。


「ふむ。どうやら私が売るまでも無かったようだ」


「あいたただだあーっ!」


 何故かピアス男が悲鳴を上げ、エミリアの体が解放される。


 ピアス男は背後から頭を捕まれ、宙吊りにされていた。


「なあ、おい。お前はトラブル起こさずにはいられないのかよ」


 男を捕まえた手の主は、馴染みのある不機嫌な声でエミリアに尋ねる。彼女は顎に指を当てて困った笑みを浮かべる。


「一応今回は、私に非はないと思うんだけど」




 洋介は黄金の名を冠した栄養ドリンクを一気に飲み干し、エミリアの方へ放り投げる。


「持ってろ」


「はいは~い」


 脳天気な返事に、彼は米神を押さえる。


 まったく、頭が痛い。


 思ったより深く眠ってしまっていたのに、戻ってきた気配がないから探しに来て見れば、彼女は瑕がつく寸前だった。


 頭痛を通り越して吐き気がする。


「テメエ、ふげっ!?」


「ほっほっ。兄さん、余所見は行かんぞ」


 お仲間らしい金髪チャラ男は、襲われたピアスを助けようと憤慨した隙に、洋介の見覚えのある中年男性のステッキで股間を強打されてのた打ち回る。


「ご協力感謝します」


「何、洋介君。後はお任せしますよ」


「さて、と。あんた、俺の連れに何しようとしてくれたのかな?」


 万力のように相手の頭を締め付けながら、洋介は尋ねる。


「あがががっ」


 激痛にバタバタと足を動かすピアス男。洋介は足が地面につくまで下してやり、改めて耳打ちする。


「もう一度聞く。何しようとしてたんだ」


「やん、思い出したらお嫁に行けないわ」


 両手で顔を覆うエミリアに「お前少し黙ってろ」と、腹の底からマグマを纏わせて吐き出した。


「はあい」


 彼女はシュンと小さくなる。


「なあ、おい?」


「ぐぐっぐぐぐ」


「ああ、そうか。悪い」


 痛みで喋れない事にようやく思い至り、彼は一度手を放す。


「くそがああっ!」


 解放されたピアス男は、怒りに任せ、振り向き様に殴りかかってくる。


 答えはそれで十分だった。


 洋介は片手でパンチをいなして背後を取り、一気に首を締め上げる。


「目を離した俺も悪い。だから」


 頚動脈を力の限り圧迫する。五秒とかからず、ろくな抵抗もないまま、ピアス男が白目を剥き、体から力が抜けた。


「痛くはしないさ」


 失神したのを確認して、洋介は手を放す。ピアス男は顔面から地面へダイブした。


 全てが片付いた静寂を、エミリアがあっさり打ち破る。「洋介っ、ありがと~」


 抱きつこうとダイブして来た彼女を避けて、洋介はスーツの男性の下へ歩み寄り、深々と礼をする。


「この度は、ありがとうございました」


「何、お気になさらず。それよりも、少々お待ちを」


 男性はにっこりと笑いながら、手を上げる。


 待ち構えていたように、背後から、服の上からでもはっきりわかるほど鍛え上げられた体の男が現れて、無言で気絶した二人の若者をずるずると引きずって行く。


「この時期は、ゴミが多くて仕方ありませんな」


「自然が多いと開放的な気分になるんでしょうね」


 連れられて行く様子を、見慣れた様子で彼は答える。


 八岐市は川原や山でのキャンプやバーベキューの客も多く、ナンパも少なからずある。そして、海以上に人気の少ないポイントが多いので、そこから先はお察しの状態だ。


 彼と、そして目の前の男性はそれをあまり快く思っていない事で共通の認識を持っていた。


「それにしても、見事な手際。さすがは、涼子さんの息子さんだ」


「慣れてますから。それに、母には遠く及びませんよ」


 高夜家には別荘の管理と、王族の身の回りの世話が求められているが、警護も当然範疇に入っている。


 そこで、洋介も母親から武芸をかなり叩き込まれて来たが、未だに一度も立会いで勝った事はなかった。


 その様が想像できたのか、男性はカラカラと笑う。


「おやおや、それはそれは。涼子さんらしい話だ」


「あの~、洋介」


「なんだよ」


「そちらの方は、お知り合い?」


 背後からこそっとエミリアが尋ねると、男性はこりゃ参った、と額を打った。


「お前、山住のおっちゃんを忘れたのかよ」


「ヤマズミ、山住のおっちゃんさん?」


 エミリアが額に皺を寄せる。完全に忘れている。


 洋介は仕方ないので、彼女に思い出せるように説明する。


 中年紳士の名は山住源蔵。日本有数の建設会社・山住建設の会長で、八岐市商工会の会長も勤めている。高夜根神社の氏子でもあり、涼子の下へ占いを依頼してくる政財界の関係者は彼の紹介である事も多い。


 その為、神社への出入りも多く、昔から洋介とその従姉であるエミリアにも夏や正月などにはお小遣いをくれたものだ。


「ああ、お菓子のおじさん!」


 やっとこさ記憶のピースがはまったのか、エミリアはポンと手を叩く。


「いや、お菓子も持ってきてくれたけどさ」


「はっはっはっ。結構結構」


「ところで、おっちゃん。よくここに」


 たまたま見かけた、と言いながら彼は洋介に事の一部始終を説明する。


 コンビニでエミリアを見つけ、追いかけて来てくれたことはもちろん、お金がなかった事まで全てを。


「いかに暫く見なかったとはいえ、かように美しい髪をした女性はそうそういませんのでね」


「あらあら、おじさん、お上手ねえ」


「お前はまず礼だろうが」


 普通に談笑するエミリアを嗜める。大本の原因が彼女にないとは言え、手を煩わせてしまったのは事実なのだ。


 彼の注意に、山住は首を横に振って、顎をなで上げる。


「なあに、先ほども言いましたが、お気になさらず。涼子さんのご親類。ましてエミリアちゃんなら家族も同然。助けるのは当然でしょう」


「の、割には一緒に失せろと言われた気が」


「ほっほっ。路地の外へ出してしまえばどうとでもなるでしょうに」


 彼に限って無闇やたらな発言はしない事を洋介は良く知っていた。


 そうでなければ、顔役など務まらない。


「さて、洋介君。この後は何かご予定が?」


「いえ、特には」


「え~」


 エミリアは不満そうな声を上げるが、洋介は無視する。


 本人はこう言っているが、あんな事があった直後だ。どうせ家に戻れば布団へダイブして動かなくなるのは目に見えていた。


 それに、彼もできれば今日の所はさっさと帰りたかった。


「では、ちょうど私は神社へ伺う予定でして。ご一緒にいかがです?」


「喜んで」


 話がまとまり、山住の後に洋介達も続く。


 不満げに唇を尖らせていたエミリアが、そっと肩を寄せてきた。


「心配した?」


「そりゃあな」


 一時間近く眠りこけた挙句、目を覚ませば、遊びに来ていた子供達が光る文様を指差してスゲーと声を上げていたのだから、我が身ともども心配せざるを得なかった。


 大きな騒ぎにならなかったのが幸いだ。


「ふふ、そっかそっか。本当に、ありがとね」


 満足そうに口元に手を当てて笑うと、エミリアはぎゅっと腕に抱きついてきた。


「おい、やめろよ」


「お礼よお礼。それとも、私じゃ不満かしら?」


「お前、よくさっきの今でそういう真似ができるね」


 呆れを通り越して、感心する。


 おやおや、と山住にも何やら含みのある微笑みを向けられたが、洋介は振り払うことはなかった。


 彼女の手から、確かに、震えが伝わっていたから。


 促されるまま、山住が使っている送迎用の高級SUVへと乗り込む。


 運転席には、先ほどナンパ男二人をゴミ捨て場に放りに行った男に負けず劣らずの若い衆が座っていた。


 山住と、戻って来た男が乗り込んだ所で、車は、見た目とは裏腹に静かに神社へ向けて走り出した。


「へ~、凄いのね」


 エミリアは最新の車という事で興味を持ったのか、キョロキョロと中を見回したり、助手席の男性に色々と話を聞いていた。


「相変わらず、好奇心旺盛な子だね」


「ええ。あんまり変わってないでしょう?」


「いやいや、美人になったじゃないか。洋介君、気が気じゃないのでは?」


「冗談でしょう。そういうんじゃないですよ」


「おや、私ゃてっきり」


 これ以上からかわれては叶わない。洋介はどっぷりと柔らかいシートに体を預けて目を閉じる。


 ごそごそ、と何かをまさぐる音がした。


「そうそう。これをどうぞ」


「え?」


 山住からスパークリングコーヒーが差し出される。


 彼は思わず顔をしかめた。


 興味本位で一度だけ飲んだ事があるモノだったが、その時の彼の感想は、罰ゲーム用の商品じゃないのか、だった。


「あの、これは?」


「彼女がね」


 なるほどと、洋介は嘆息する。


 成分だけを見れば、悪い選択ではない。一応、彼女なりに気を使ったのだろう。


 ありがたく受け取り、ひと口飲むと、エミリアに差し出す。


「ほらよ。喉かわいたろ」


「え、いいの?」


「間接キスとか言うなよ」


 むふふ~、といたずらな笑みを浮かべる彼女の出鼻をくじく。


「あらら。つまんないの。それじゃ遠慮なく」


 よほど喉がかわいていたのだろう。エミリアはごくごくと勢い良く半分ほどを飲み込んだ。


 その顔が般若のようになるまで、時間は大してかからなかった。




 神社へ戻ると、社務所には狙い済ましたように、お茶の入った湯のみが四つ用意されて、涼子が煙草に火をつけた所だった。


 中へ通された山住は被っていた帽子をポンと叩く。


「はっはっはっ、これはこれは。さすがは涼子さんだ」


「一応ね、ウチも暇じゃないんだ。来るなら一言欲しいものだよ」


「それは失礼しましたな。以後気をつけましょう」


 洋介はさっさと窓口のイスに腰掛けて外を眺める。参拝客もまばらで、のんびりしたものだ。


 なるほど、母親の基準からしたら確かに暇ではないだろう。人が誰も居なくなってからが、暇なのだから。


「それで、今日は何の用だい?」


「来週の納涼市民祭の行程表ができましたので、持って来ました」


 山住が取り出した二つ折りの案内に、涼子は呆けたように口を開けた。


「なんでまたそんなものを?」


「舞台の順番がわからないとさすがに不便でしょう」


「……ちょいと待ちな。舞台に立つのか、私が?」


 まるで要領を得ないのか、涼子は身を乗り出す。


 山住も同様らしく、何度か工程表を見直して、頷いた。


「ねえ洋介。夏のお祭りってもう終わってるんじゃないの」


「神社のはな。今話してるのは市が主催の奴だよ」


 不思議そうに尋ねるエミリアに、窓を開けてカウンターの端からチラシを取って渡す。


「五十回目? 全然知らなかったわ」


「そういや行った事ないか」


 エミリアが来てる間にも開催されていたが、時期的に神社の催事が近いため、今まで積極的な参加はした事がないのだ。知らないのも無理はない。


 それだけに、妙な胸騒ぎがして、洋介は涼子達の会話に耳をそばだてる。


「じゃあ洋介に任せるよ」


「何の話!?」


 案の定、エミリアに気を取られている間に、話は大きく進展していた。


 今年は五十回の記念と言う事でステージイベントにかなり力を入れているそうで、伝統文化披露として高夜根神社の神楽が演目になっていたようだ。


「一応、暑気払いの時にお願いしてあったんだよ」


「おっちゃん、何で酒の席でそんな話をするのさ」


 涼子は決して酒癖が悪いわけではないのだが、アルコールが一滴でも入った後の話しは決して覚えていないか、覚えていても確実に余計な情報が混じっているのだ。


 くわえて、その時期は神社の夏越祭りが近かった。準備に追われていた涼子が、宴席で言われた話を覚えている確率は、ゼロである。


「我々の確認不足があったのは間違いない。申し訳ない限りだ」


「それを言ったら、酒が入ってようが返事した私も悪いんだから、大丈夫だって」


 一応、決まってしまったプランという事で、涼子も了承した所までは、洋介も流れとしては理解できた。


 問題は、その結果だ。


「だから、後はあんたに任せた」


「どこをどうしたらその結論に行き着くんだよっ」


「私夏越で疲れたから、や」


 涼子はテーブルにもたれかかり、ぷいっとそっぽを向く。


「や、じゃないだろ、や、じゃ」


「とにかく、私は行かないよ」


 背中から、絶対に、と言う強い意志がひしひしと伝わって来る。こうなったら、涼子は梃子でも動かない。重機でも無理だ。


 苦笑する山住に、洋介は肩をすくめた。


「俺は構いませんけど」


 日取りが決まった以上、神社として責任は持たねばならない。


「なんだね?」


「他の人たちが、ですね」


 神楽は一人でやるのではない。


 今から人を集めるとなると、なかなかに大変だ。


「それくらいは私に任せときな」


「出来れば全部任せたいよ」


 洋介のぼやきを、涼子は聞き流した。


「ではよろしくお願いするよ、洋介君」


 山住はしっかりと彼の肩を叩いて去っていく。音の大きさは期待の大きさか。


「参ったね」


 安請け合いしたかも、と彼は頭を掻く。


「じゃあ、後はよろしく」


 大きなアクビと共に社務所から引っ込もうとする涼子の襟を掴むべく手を伸ばすが、するりと避けられてしまった。


「何の真似だい?」


「いやこっちの台詞だよ」


「昼まで休むから番よろしくね」


 反論の暇も与えず、彼女はさっさと出ていってしまう。


 軽やかな足運びと言い、洋介が戻って来た事で、やる気がマイナスに振り切れてしまったようだ。


「ったく、しょうがないな」


 ぼやきながらも、窓口のカウンターに腰かける。丁度女の子がお守りを買いにやって来た。


「きがんじょーじゅください」


「はい、五百円ね。何かお願い事?」


 どこか緊張した面持ちが気になり、袋に入れながら尋ねると、女の子は力強く頷く。


「うん。明日ピアノのコンクールなの」


「そっかそっか。どこでやるの?」


「えっと、はままつ?」


「ちょっと遠いね。よし」


 洋介はカウンターの下から、交通安全と書かれた小さなストラップを取り出す。


 夏休み安全キャンペーンで作った物だ。


「オマケしとくよ」


「本当!? ありがとうお兄ちゃん!」


「賞が取れたら、今度はお母さんと一緒にお参りしてね」


「うんっ」


 一緒に渡すと、向日葵のような笑顔を咲かせ、何度も手を振りながら去っていった。


 女の子に手を振り返しながら、窓を閉めた洋介はエミリアに向き直る。先ほどから突っ立ったまま、彼女はそわそわと洋介に視線を送っていた。


「何だよ、さっきから」


「うーん、とね」


 チラシで口元を隠しながら、彼女は目を泳がせる。


「行きたいのか」


「うん、行きたい」


 でも忙しそうだし、と煮え切らない返事が返って来る。


 普段から何故その気遣いが出来ないのか、と思うが、頼まれたら仕方ない。


「いいよ、一緒に行ってやるから」


「本当!?」


「どうせ集合までは空いてるからな」


 パンフレットを見直して、彼はそう告げる。


 祭り自体は夕方五時。始まってしまえば神社は閑古鳥だろう。ステージはスタートが六時で、神楽は七時。祭りを歩く余裕は十分にあった。


「ん~、ありがとう、むぎゅっ」


 ぱあっと顔を緩ませて飛び付いてきたエミリアの顔面を掴んで止める。一連の動きは外から丸見えだ。参拝客の微笑みが実に痛い。


 まったく、さっきの子とこれでは変わらない。


「じゃあ、お礼じゃないけど、私も出来る事あったら手伝うから何でも言ってね」


「いや、いい」


 胸を張るエミリアに、洋介は即答する。出来れば大人しくしていてもらいたいくらいだ。


「大丈夫だって。お姉さんに任せなさい」


 うりうり、と頬を指でつつかれる。まるで大丈夫な気持ちが湧いてこない。


 むしろ、どうして彼女はそんな堂々と言えるのやら。


「――不安だ」

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