第47話 あらし(14)

 真結まゆいは気を失ってはいなかった。水の上に出て、激しく何度も息をついた。苦しそうだが、自分で水をいて立ち泳ぎしている。

 「……下……この下……」

 苦しい息の下から、真結は確かにそう言っていた。

 「ああもう……」

 真結だけであきらめるつもりだった。

 「待ってて。すぐ戻る」

 でも恒七つねしちだって隆左りゅうざを助けようとして水に落ち、波にさらわれたのだ。

 それに恒七はきょうという子のほんとうの親かも知れない。

 嵐の日に漁に出た船が沈んで親を亡くす子は自分まででじゅうぶんだ。

 真結に倣うつもりがあったわけではないが、いつもの力尽くの潜りはせず、真結と同じように力を抜いて水の下に落ちていく。そうやって潜る。

 恒七はすぐに見つかった。もう浮き上がれなくなって、波の力に揺られてただ漂っているだけだ。

 ――人の体ってほんとうに沈むんだ、と思う。

 相瀬はずっと人の体はほうっておいたら浮くものだと思っていた。いや、いまもそう思っている。だから、海の上を泳ぐより潜るほうがたいへんなのだと。

 もう抱きついてくることもないだろうと恒七の体を引っぱり寄せる。そのまま浮き上がって、真結が待っているところまで戻る。

 恒七はぐったりして相瀬に引っぱられるままになっている。水を吐かせたほうがいいのはわかっているが、いまはそんな余裕はない。

 真結はさっきより落ち着いていた。

 「あのさあ」

 不機嫌な声で言ってみる。

 「溺れてるひとを助けるときって、相手から見えるところから行っちゃだめなんだよ。懸命になって抱きついてくるからさ。いまのでわかったでしょ?」

 真結はたよりなさそうに小さく頷く。相瀬も笑って頷いた。

 「でも、よくやった!」

 ふっ、と息をつく。

 「さて、っと……」

 よくやったのはいいけれど、さて、その先がどうにもならない。

 ずいぶん沖まで来てしまったらしい。

 もっとも、ここまで泳いで来たことならば、相瀬はある。真結もいずれはこのあたりまで泳いで来ないといけない。

 だから、この場所がどういう場所なのか、真結にいま教えてあげようかとも思う。

 でも、やめた。

 もしかすると、恒七がきいているかも知れない。

 海が荒れていても、少なくとも筒島つつしままでならば泳いで戻れる。真結もそれぐらいはできるだろう。

 けれども、そうやってゆっくりと戻っていて、水を飲んだはずの恒七を助けることができるのかどうか。

 波の向こうからひと筋の光がさっと射した。まぶしい。

 こんどはけなげな女の子の読経どきょうの声が生み出した明かりではない。

 その明かりは、波に隠れ、また波から現れる。それを繰り返すたびに強くなっている。

 さっき投げ出した薪が消えずに燃えているのかと思う。

 そうではなかった。

 やがて波に隠れたときも波が向こうからの明かりで明るく見えるようになった。

 嵐の雨風に紛れてようやく届いてくるのは――。

 「おーい、だいじょうぶか? ばか!」

 貞吉さだきちの声だ。

 腹の底から怒りが湧く。そう言えば、子どものとき、男と女とどっちがばかかを賭けてこいつと殴り合った。

 「ばかって何!」

 出せる限りの大声でどなり返す。横で真結がびくっとした。

 自分って怒りっぽいな、と思う。

 貞吉が乗っているのは海女の娘組の小舟だ。この荒海を、相瀬が漕いでもけっして出せないような速さで漕いでこちらに向かってくる。

 怒鳴らなくても声の届くところまで来た。

 「あんたね! 自分の船はどうしたの?」

 「おふさに任せてきた」

 「あんたねっ!」

 また怒鳴る。

 「房にあれは無理だよ。だいたい乗ってる人数増えてるでしょうがっ」

 それだけ重くなって、水に深く沈んでいるから、水は入りやすくなり、しかも操りにくくなる。

 「お房には先に進めるのは無理だよ。でもひっくり返さないぐらいのことはできるだろう? 入り江のなかなら」

 「入り江のなかなんか入ってなかったでしょうがっ!」

 「入れたよ。入れてこっちに乗り移ってきたから遅れたんだろう? もう。わかったから、こんなところまで来て大声で叫ぶなっ!」

 「この嵐で、大声で叫ばなきゃ聞こえないでしょうがっ!」

 「おまえのは必要以上に大声なんだっ!」

 舟の上のかやが笑っている。

 貞吉は、自分の船をともかくも村の岬の向こうまで入れて、そこからこの船でこっちまで来たんだ。

 たいしたやつだと相瀬は思う。口には出さなかったけれど。

 ――あとで美絹みきぬさんに言っておいてあげよう。

 「とにかくまず恒七さんを頼む」

 先に恒七の体を渡す。真結といっしょに体を持ち上げて、波が盛り上がる力も使ってその体を舟の上に上げる。

 萱が手際よく水を吐かせる。すると、ぐったりはしているものの、恒七は舟板に手をついて、自分で咳をし始めた。

 だいじょうぶなようだ。

 「おまえらも乗れ」

 この娘組の舟は四人乗るのが限度だ。ふだんは無理に六人乗せることもあるけれど、それは海が穏やかなときの入り江のなかでの話だ。

 でも、っているのが貞吉ならば、きっとだいじょうぶだろう。

 相瀬はまず真結を舟に上げ、それから自分も海のなかから勢いをつけて飛び乗った。

 舟が揺れ、貞吉が

「おい!」

と不機嫌に言う。

 嵐は収まる気配はない。それどころか、さっき外海そとうみに出たときより激しくなっているようだ。

 海から上がっても、頭の上も肩の上も周囲はぜんぶ水だ。着物の内側は水浸しだし、舟からはずっと水をかい出していないといけない。それだけ雨は激しく打ちつけている。

 それでも貞吉が操る舟は平地を行くように波の大きい海の上を走って行く。相瀬は波を斜めに突っ切るのが怖くてできなかったが、貞吉は波の盛り上がるところを上手に避けて、波の向きに逆らって船を進めている。

 こういう才では自分は貞吉に及ばない。

 しかたないよなぁ――と思うけれど、やっぱり悔しい。

 そして、そんなことをいま悔しがることができるのが、ほんとうに「ありがたい」ことだと、相瀬はふと思った。


 ※ 物語は『荒磯の姫君(下)』に続きます。

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