第46話 あらし(13)

 一つ横波を乗り切ってから、隆左りゅうざはふなばたをよじのぼり始めた。左足をふなばたにかける。右手は恒七つねしちが渾身の力で引っぱっている。

 だが、そこまで来て、隆左の全身から力が抜けた。水から引き上げられたたこのように体が力なくしなる。

 「隆左っ!」

 恒七が叫ぶ。船の上から落ちそうになった隆左の腰帯をつかもうと手を伸ばす。

 勢いが余った。

 恒七は頭から水に落ちてしまった。隆左もいっしょにだ。

 「恒七っ!」

 貞吉が叫ぶ。

 そこに大きな波が来た。難船した漁師も乗せて重くなった貞吉の船が大きく揺れる。

 「おーいっ! だいじょうぶかっ!」

 波をやり過ごしてからふなばたから手を伸ばした漁師がつかんだのは、ほとんど気を失っている隆左だけだった。

 恒七の姿はない。

 貞吉の船と相瀬の舟の篝の光の届くなかに、その姿はなかった。

 しゅっ、と何かが水から跳ねるような音がして相瀬あいせが振り向く。かやが小さな悲鳴を上げる。

 真結まゆいの姿がない!

 真結が舳先へさきから海に飛びこんだのだ。

 恒七の姿をどこかに見つけたのだろう。

 「えいっ!」

 相瀬はとっさにを引き上げた。真結を追って跳びこむ。

 いったん自分の舟に戻る。

 「ふさ、櫓、頼む! 萱、薪貸して!」

 返事は待たない。萱の手から火のついた薪を受け取ると泳ぎ始める。

 薪を持っているので抜き手が切れない。そのうえ油をませてあるのですぐに薪がすべる。足を思い切り蹴って進むが、その足は舟の上でずっと櫓を支えて立っていたので、もうずいぶん重く感じるようになっている。

 前を平泳ぎで行く真結の頭が見えた。その真結を頼りに探すと、そのもう少し先を流されていく黒い頭も見えた。あれが恒七だろう。

 高い波は何度も襲ってくるから、相瀬のところから真結と恒七は見えたり隠れたりしていた。そのうえ、筒島から跳ね返ってくる横波や、たぶん北の岬からの跳ね返りの波まで入っているのだろう。体は何度も考えもしなかったほうから押され、揉まれた。

 でも真結はもう少しで追いつく。恒七はただ流されているだけだ。真結はこのややこしい波を巧くさばいて泳ぐことができる。

 自分以上の才があるのだから――と相瀬は思う。

 相瀬の薪から届く仄かな明かりで、恒七の頭がすうっと右に流されるのが見えた。

 ああ、引き潮が始まった。

 こんなときに!

 だが、真結は落ち着いていた。少し横泳ぎすると、そこから抜き手を切って一気に恒七とのあいだを縮める。

 恒七はもう浮いたり沈んだりしていた。体の力が尽きている。

 真結はその恒七へとまっすぐに近づいて行く。

 「あ、だめっ!」

 相瀬は声の届くところまで詰めてはいなかった。雨の降りすさぶ海にむなしく消えて行く。

 果たして、真結が近づいてくるのを見た恒七は、真結に飛びついた。

 真結が慌てる。

 二人とも姿を消した。まっ暗な海のなかに。

 「もうっ!」

 薪を投げ捨てて、相瀬は潜った。

 それでいままでよりずっと速く泳げる。

 でもいいやり方ではなかった。海は闇に戻り、相瀬の姿も恒七の姿も見えなくなってしまう。

 月はまだ昇っていない。星が出ていればまだなんとかなるのだけれど、それも望めない。

 まっ暗な海のなか、潮の流れだけが頼りの手探りだ。しかも二人とも潮の流れのままに流れて行ってくれるとは限らない。

 どうしよう、という思いを、相瀬は押し殺す。

 どうしようと言ったって、進むしかないのだ。自分がこちらだと思うほうに、いや、思う前に自分の体が導くほうに。

 目のまえは闇だ。恒七と真結の姿が見えないだけでない。海の深さがどれくらいかもわからない。

 舟の上からと違って、次にどんな波が来るかもわからない。

 恒七と真結が姿を消した場所からだいぶ来た。

 ということは、どこかでまちがっていればもう取り返しがつかない。

 体が急に重くなる。

 ――真結をこんなことで失うなんて!

 そう思う。そのつぎに来たのは

「溺れる!」

ということばだった。

 そんなこと、いちども考えたことがなかった。鮫に追われて恐ろしい思いをしたことはあった。沖で足がって慌てたこともあった。でもどんなときも自分が溺れるなんてひとときも考えに浮かんだことがなかった。

 溺れる前に――と相瀬は力を抜いた。

 息をゆっくりと吐き、自分で水のなかに体を沈める。

 溺れるならばこのまま二度と浮き上がれないだろう。

 でも、ここで溺れるものでないならば……。

 くすぐったい声が、耳の中でささやきかける。

 「憐れんだからといってどこまでも憐れみきることができるものでもないでしょう」

 はっとして息を呑みかけ、ここは水のなかなのだから水を飲んでしまう、と思う。相瀬はともかく水を蹴って浮き上がった。

 自分の周りに、天から降る矢のように大粒の雨が突き立っている。

 くすぐったい声の女の子が、せいいっぱい、おごそかな声で声を立て続けている。

 「ぶっせつけぇうぅほう しゃくしょぅみぃぞぅもん せぇそんゆうたいりき じゅぅみょうふぅかぁりょう むぅすうしょぉぶっしぃ もんせぇそんふんべつ せつとくほうりぃしゃぁ かんぎぃじゅうへんしん」

 相瀬は、落ち着いて息を吸うと、もう一度水に潜った。

 行けるところまで行こう。

 つたない、けなげな女の子の声は続く。

 「てんこぉこぉくうちゅう じぃねんしゅつみょうしょう てんいぃせんばんおく せんてんじぃらいげぇ しゅうほうみょうこうろぉ しょうむぅげぇしぃこう じぃねんしつしゅうへん くぅようしょぉせぇそん」

 闇の海のなかで何かが動いたと思った。

 それが人かどうかはわからない。魚かも知れないし、荒れる海が見せた潮の流れの影かも知れない。

 それでもいいと思った。相瀬は足を思い切り蹴って全力で進む。

 黒い闇にかすかにひるがえる白い姿――まるで舞いを舞っているように。

 真結の体は白い。それがいまは何よりもありがたい。

 前に人食い海蛇から救ったときのように、横抱きに抱く。抱いて、そこからまっすぐに海の上に上がる。

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