第45話 あらし(12)

 林助りんすけの船は貞吉さだきちの船の進んだ向きからずれる。

 右へ――筒島つつしまに近いほうへとどんどんずれていく。

 最初は流されているのかと思った。でも、もう潮は満ちきっているので、潮は入り江のなかに向かっては流れない。

 「だめーっ!」

 舳先へさき真結まゆいが悲鳴を上げた。相瀬と同じことに気づいたらしい。

 「さだぁっ! 後ろっ!」

 その声が届いたはずもない。でも貞吉さだきちも気づいたのだろう。急いで櫓を繰っている。また横波を受けながら舳先の向きを変える。

 「ばかーっ!」

 相瀬あいせも罵る。

 せっかく貞吉が船を先に停めて進む道を示しているのに!

 林助は――。

 村の浜に少しでも近づきたい一心でだろう。

 いや、もしかすると朝に貞吉と言い争ったのを思い出したのかも知れない。いつまでも貞吉の後ろに着いて行けるか、などとよけいな意地を張ったのかも知れない。

 林助は、貞吉の船を追うのではなく、村の入り江に斜めに船を進めているのだ。

 でも、そこには筒島の「根」の部分がある。

 いま林助が進んでいるほうに船がまっすぐ進めば、まだ筒島の「根」の向こう側をかするように通り抜け、「根」の岩にはぶつからずに進めるかも知れない。

 しかし、潮は逆向きに流れているのだ。少しでも押し戻されると筒島にぶつかってしまう。

 相瀬は血の気を失いそうになる。

 相瀬の父親の乗った船はそこで難船したのだ。

 その同じ道を!

 「相瀬さん!」

 真結が声をらして叫ぶ。

 言われるまでもない。相瀬だって懸命にいでいる。漕いでいるが、この小さい舟では向こうから来る波を無理に乗り切れない。しかも筒島に寄せて引いてくる波が船足を引っぱる。

 それに、この小さい舟では、間に合ったところで何ができるわけでもない。だれかが海に落ちたとき、潜って助けられるならば、海女にも出番がある、というだけのことだ。

 見ているしかなかった。

 林助たちの船は筒島の横を無事に通り抜けたように見えた。

 そこに大波が来る。林助の船にとっては横波だ。

 その横波に林助の船はさらわれる。波の作る高い山の頂に乗せられる。

 少し遅れて娘組の小舟も同じ波の尾根にさしかかった。相瀬は逃げずにその尾根の上に船を上げる。

 林助の船の行方を見守るため――だったのだろうか。

 波は筒島に打ちつけ、打ちすぎていく。相瀬の小舟はその過ぎて行く波の後ろの谷間へと滑り降りる。波は、そのまま筒島の陸の上にざあっと崩れた。

 林助の船を押し上げたままだ。

 あっと言う間もなかった。

 林助の船は崩れる波といっしょに斜めに岩に叩きつけられた。この激しい雨と風の音をいて、ぱあんとはじける音が伝わってくる。その風のなかに、はずれた船板が舞い上がり、どこかへ飛ばされていく。

 波の谷間に落ちて行く娘組の舟の上から、相瀬はなすすべなく見ている。

 船板が落ちただけで船が壊れていなければ大事にはならない。

 だが、一じょうよりも高いところから岩の上に勢いよく投げ落とされた木の船が無事なわけがない。

 船は二つに折れた。それを見届けて相瀬の舟は波の谷間に落ちる。

 少しだけ幸いなことに、壊れた船は筒島の岩の上にはとどまっている。船に乗っていた者たちは、その壊れた船にいまもすがりついているらしい。

 次の波が来た。ゆったりと筒島に覆いかぶさる。

 間に合わない!

 筒島の岩の上に居座っている船の残骸を持ち上げる。

 「あぁ……」

 自分の舟を操りながら、相瀬はため息を漏らすしかなかった。

 それでも、その波で難船した船が助かるという望みはもつ。成り行きを見守る。

 望みどおりにはいかない。

 波で高く持ち上げられた船の前半分が、あまり持ち上げられなかった後ろ半分の上に落ちた。

 船の前半分と後ろ半分が激しくぶつかり合い、砕ける。船はばらばらになった。船がばらばらになってできた板子と男どもの体とが引く波に混じって島から流れ出る。

 ふさかやが顔を上げて相瀬を見る。

 海に流された者を助けるのは、潜りを仕事とする海女の役目だ。だが、この荒れた海で、しかも五ひろを超えるこの深い海で、房と萱にどれだけのことができるか。

 相瀬は迷う。

 「相瀬! どけっ!」

 叱りつける声――貞吉だ。貞吉が自分の船を割りこます。島と相瀬の舟のあいだの狭い海にだ。

 しかもわざと横波をうけるほうに船を向けている。

 むちゃなことをやると思いながら、相瀬は貞吉に場所を譲る。大きい波の谷間に落ちた間に、相瀬はかがりからまだ下まで燃えていない薪を二本引っぱり出す。

 「これ持って!」

 言って、火の燃えている薪を房と萱に投げる。房も萱も器用に受け取った。

 「打てっ!」

 貞吉の声だ。嵐の音に負けていない。

 だが、「打て」って、何を?

 ――貞吉の船のふなばたから網が広がった。

 「あぁ……」

 またため息をつく。安堵あんどのため息なのか、それともあきれたのか、自分でもわからない。

 貞吉は、林助の船に乗っていた漁師どもが落ちた水の面に網を打ったのだ。

 いわしを獲る網なので、男の一人や二人の重さは支えられても、あの船に乗っていた者全部を引っぱり上げることはできない。でも、鰯と違って、人間は網に自分からつかまり、自分でふなばたにい上がることができる。

 貞吉の船の篝と相瀬の舟の篝、それに房と萱が海の上に突き出している薪の火で、海は明るかった。この闇夜の嵐のなかでも、海の水は青く澄み、底まで透き通っているのがわかる。

 そこから男どもが浮かび上がってきた。水に沈んでくる網に手をかける。つかまる。網を自分の力で上に押し上げ、網の目を伝い、男どもは水の上に頭を出した。

 貞吉が船の上からその出て来た頭の数を数えている。

 怒鳴る。

 「よしっ! 全部いたぞ!」

 貞吉の船から歓声が上がる。相瀬も頬をほころばせた。

 でも危ないことには変わりがない。

 荒れ海で船がひっくり返る理由の一つが網に引きずられることだという。網を下ろしているので、大きい波が来てもその波をやり過ごすための動きが取れない。それに波が網を引っぱり、その力でさらに船が引っぱられる。それでひっくり返ってしまうのだ。

 ましていま貞吉は船を横波をうけるほうに向けている。

 「早く上がって来い! 早く!」

 貞吉は用のない連中を反対側のふなばたから身を乗り出させて船が覆らないようにし、難船した連中には自分でふなばたを這い上がるようにさせている。

 林助が最初に貞吉の船に上がった。

 頭のくせに、と相瀬は思う。相瀬ならば仲間がみんな船に上がったところを見届けてから上がる。

 でも林助はもう力の限りを出し尽くしたのだろう。船板の上に上がると、そのまま膝をついて、倒れ伏してしまった。

 あとから上がって来る者たちも同じようなものだ。あとから上がって来る連中に手を差し伸べる者もいるが、それも一人を引っぱり上げるのがやっとで、そのあとは自分自身が倒れこんでしまう。膝をついたり、凍えたように自分の肩を両手で抱いてうずくまってしまったり。

 それでも、難船した漁師どもが船に上がっている途中はそれほどたちの悪い波は来なかった。最後の一人になる。

 房を跳びこませようかどうしようか相瀬は迷う。その最後の一人が、もう目を開いているか閉じているかわからない、泳いだと思うとふらふらと水に沈んでしまったり、また浮いてきたりと、つまり気絶する寸前のようだからだ。でも跳びこませれば房を危ない目に遭わせることになる。

 「隆左りゅうざ! しっかりしろっ!」

 ふなばたから声をかけたのは恒七つねしちのようだ。いま沈みかけているこの男は隆左――二人ともあのこうの仲よしだ。

 浜で取り乱して泣いていたあの美人の香の――。

 恒七の声で隆左は正気を取り戻した。沈みかけていた海から、手と足で水をいて浮き上がってくる。もう房を助けに遣ることはない。隆左は自分から恒七の手をつかみ、ふなばたにもう一方の手と足をかける。

 「網を放せ!」

 みんな助かった以上、もう網に用はない。嵐のなかで横波を受けながら網をたぐるような愚かなことはしない。貞吉が号令すると貞吉の船の連中は網を手放した。網は海の底へと漂いながら消えて行く。

 あの筒島の洞穴の入り口に引っかかったりされると困ったことになると、相瀬はよけいな心配をした。

 全員が助かった。船は一隻失ったけれど、人の命は失わずにすんだ。

 涙がにじんでくる。

 しかし、安心するのはまだ早かった。

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