第44話 あらし(11)

 恐ろしい大波に楯突たてつかないよう気をつけ、自分の背が風に押される力も使って自分の体を動かしながら、斜めに、貞吉さだきちの船の斜め前に出るようにする。

 ふだんならば声が届くくらいに近づいた。

 貞吉の船では、男どもがふなばたに寄って、しきりにこちらに手まねで合図している。

 戻れ、と言いたいらしい。女では――とくに娘ではここは乗り切れないと。

 それに向かって、かやふさが腕を横に伸ばして、難船しかけている船を指差す。指差して口をぱくぱくさせる。声は立てない。叫んでも声が届かないのはわかっているからだろう。

 向こうでは気づかない。あいかわらず、戻れ、戻れのしぐさを繰り返す。

 だが、櫓を執っていた貞吉が、目を細めて前を見て、その船の姿をやっととらえたようだ。

 貞吉は二十けんもの間を隔てて相瀬をにらむ。入り組んだしぐさをして見せる。

 「おれたちが向こうに行ってあの船を連れてくるから、おまえたちはここで待て」

――というようなことを伝えたいようだ。

 ここは貞吉に任せようと思う。相瀬は貞吉の指図に従って船の行き足を止めた。

 貞吉の船は、娘組の舟を追い抜き、この大波の上を、飛ぶようにそちらに向かって行った。

 少なくとも、この海に難渋なんじゅうし、一時は人心地さえつかなかった相瀬から見れば、それは空を飛ぶ鳥のような速さと言ってよかった。

 相瀬は、沖から、筒島つつしまから少し離れたところにまで舟を寄せた。

 横着な考えが浮かんだ。

 このまま筒島に上がってしまってはどうだろう?

 筒島は岩のかたまりなので、筒島に近づいて岩に舟をぶつければ舟はひとたまりもないだろう。

 でも、筒島様のご加護をうける海女四人、ともかく筒島に上がることができればいいのだ。

 あとは、松と羊歯しだのあいだで嵐が収まるのを待って、泳いで浜に帰る。

 ――だが、やめた。

 こんどの参籠さんろうで、相瀬は筒島様に礼を失することをいろいろとやっている。

 これ以上、お騒がせするのはやめたほうがいい。

 「いまのうちに舟のなかの水をかい出して!」

 かわりに大きい声で海女の娘たちに言う。真結も振り向いたので、

「真結はずっと向こう見てて! 何かあったら知らせて!」

と言った。真結はかがりを背に前を見ることができる場所に座っている。篝に目をくらませることなく前を見られるのだから、そうしていてくれたほうがいい。

 房と萱が舟の底に半尺近くもたまった水を桶でき出し始めた。

 舟を止めておくのもたいへんだが、波の来かたはつかめてきたので、それほど難しくもない。

 息をついて、姫様のおかげだ、と思う。

 向こうの船は何度も闇にまぎれて見えなくなった。

 でも、貞吉の船が近づき、貞吉の船の篝火が届くようになる。

 向こうの船に人の姿は見えない。

 もう人は海に落ちていて、船だけが波にまれている――という不吉な考えもぎる。

 だがそうではなかった。

 貞吉の船がふなばたがぶつかるぐらいに近づくと、向こうの船からも人が立ち上がるのが見えた。

 一人の男がともに立つ。を使い始める。

 櫓が流されたわけでもなかったのだ。

 貞吉は海の上で船の向きを変えた。

 よくやると思う。この小さい娘組の舟ならばともかく、あの大きい船を横波にさらすのだ。それでも巧く船の舳先へさきをこちらに向けると、後ろの船を導いて浜のほうに戻ってくる。

 房と萱がほっと息をついて、顔を見合わせた。

 だが安心するのは早い。

 波はいま南から北へ流れている。海の水の流れそのものも同じ方向だ。しかも、引き潮が始まるとすると、その潮の流れまで加わる。

 南から北へは大波にも潮の流れにも逆らわずに行けた。

 帰りは逆だ。それに逆らって、乗り切ってこなければならない。

 貞吉の腕は確かだった。こんどは後ろに林助りんすけたちが乗っている船を従えているからか、全力で漕いでは来なかったけれど、この大きい波の作る上り坂をやり過ごし、下り坂を滑り落ち、少しずつこちらへ向かってくる。

 才に恵まれたやつだと思う。これでは、魚やあわび海鼠なまこに目を利かすより、船頭として働いてほしいと浜の漁師たちが望むのもあたりまえだ。

 だったらもっとたいせつにしてやればいいのに。

 相瀬は娘組の舟を少し沖に出す。貞吉の船が筒島に近寄りすぎずに村の入り江の入り口に入れるように道を空けてやる。

 貞吉の船の漁師どもが手を振る。みんな明るい顔だ。さっきは殺気立った顔で娘どもに戻れ戻れと身振りを繰り返していたのに。

 艫で貞吉が軽く手を挙げて相瀬に合図した。貞吉は相瀬が通り道を空けてくれたことがわかっているのだろう。

 房と萱が貞吉に手を振った。真結もちらっと貞吉のほうを見て笑ったようだ。

 相瀬も、波に櫓を取られないようにしながら、軽く手を挙げて応える。

 その後ろに船が続いて来る。ここまで近づくとまちがいない。朝にいわし漁に出た林助たちの船だ。

 櫓をっている大男は林助らしい。だがさっき貞吉とは立ち姿がまったく違っている。もう倒れ伏しそうになりながら、なんとか櫓にすがりついて漕いでいる。これでは林助が櫓を漕いでいるのか櫓が林助の体を動かしているのかよくわからない。

 林助は立っているだけまだましだ。

 朝に口々に真結を罵って出て行ったという漁師の若者連中は、船のなかに小さくなって丸まっている。船が揺れて転び、ようやく立ち直ったかと思うと反対側に転び、それでも船から落ちないように懸命にふなばたで体を支えている。

 よほど怖い目にったのだろう。

 その林助の船も相瀬の舟の横を通り過ぎる。もちろん林助には相瀬にあいさつを送っている余裕などあるはずがない。

 相瀬も舟の向きを変え、その林助の船の後ろに着こうとする。

 貞吉は、自分の船を、筒島と村の岬のあいだの、波のわりとゆるいところに停めて、後ろから林助の船が来るのを待っていた。

 ここさえ越せばとりあえずは安心だ。もちろん入り江のなかはあの入り組んだ波があちこちから寄せるので、気を緩めていいわけではないが、波はこれほど高くないので、船から落ちてもふなばたにつかまっていれば何とかなる。もし船がひっくり返ったとしても同じだ。

 ところが、見ていると林助の船の動きがおかしい。

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