第43話 あらし(10)

 村の岬から外に出る。

 岬から外に出るところで海の潮の流れが大きく変わる。

 いまは二十三夜様の前――ということは小潮こしおに近い。満ち潮はまだしばらく引かないだろう。

 このまま筒島つつしまの向こうまで突っ切れる。

 「風が来るよ! 用心して!」

 相瀬は大声で叫ぶ。村の岬の陰を出た。

 思った通りだ。強く打ちつけるような風が来る。

 ふさかや真結まゆいがふなばたから身を低くする。

 相瀬はを抱くと、腕をまくり、裾を腰のところで縛った。それでも袖や裾が風に取られるだけで海に投げ出されそうだ。

 波も入り江のなかとは違っている。あの入り組んだ波の来かたはない。

 そのかわり、人の丈の何倍もあるような波が押し寄せてきては、それが波頭を立てて崩れ、崩れた波がまたすぐに大きく持ち上がる。

 波という生やさしいものではない。山だ。海の水でできた山だ。山ができて、崩れて、谷になって、また山ができる。崩れるときの波頭のしぶきが飛礫つぶてよりも痛く肌を打った。

 これは横波を食ってはたまらない。波が来るほうがまっすぐ後ろになるように舟の向きを変える。これでもひっくり返されるかも知れない。でも、ともから波を見て舟を操れるのでこれがいちばんましだ。

 大きい波の前側に出ると、舟が前に傾き、坂を滑り落ちるように前の谷間へと落とされていく。それほど深い谷ではない。でも引きずり込まれるように舟ごと引っぱって行かれる。それが怖い。といって、落ちるのを無理に止めると、今度は後ろから山の尾根が崩れてくる。崩れてきた尾根の水を浴びて前に押し出されるよりは、先に谷間に落ちたほうがましだ。しかし谷間に落ちて終わりではない。落ちた谷間の水が盛り上がり、舟はまたたくうちに峰のいただきに来てしまう。

 生きている心地がしない。

 前に、岬に立って、岬の先と筒島よりも沖は人の領知りょうちする場所ではないと思った。

 そのとおりだ。

 そして、いま、相瀬はその場所に来てしまった。

 生きて帰れるのだろうか。

 人の世のなかに。

 舟が艫から持ち上げられるいやな感じを感じ、暗い空に山のような波が盛り上がってその先が白く崩れそうになっているのを見ながら、相瀬は、自分の心に安らかさが海の波よりも先に寄せて来るのを感じた。

 昼間に参籠さんろう所に寝ていたときと同じだ。

 でも、こんどは、そんな気もちになったら危ない、ということは感じている。感じているが、どうにもしようがない。

 ふと相瀬は声を聞いた。

 「じぃがぁとくぶつらい しょけいしょごうすう むぅりょうせんひゃくまん おくさいあぁそうぎぃ じょうせつほうきょうかぁ むぅすうおくしゅぅじょう りょうにゅうおぉぶつどう じぃらいむぅりょうこう」

 平坦に続く細い声だ。それがおきょうだということにも気がつく。

 お経を読む声は続く。

 「いぃたくしゅじょうこぉ ほうべんげんねぇはん じぃじつふぅめつどぉ じょうじゅうしぃせっぽう がぁじょうじゅうおぉしぃ いぃしょぅじんずうりき りょうてんどうしゅぅじょう すいきんじぃふぅけん」

 ああ、もう自分たちは死んでしまったのか。それでだれかが自分のためにお経を唱えてくれている……。

 でも、房や萱まで巻きこむことはなかったな。舟に追いついたときに、帰れといわなければいけなかった。

 それに、真結も……。

 そのとき、そのお経を読む口もとがふと思い浮かんだ。

 まだあどけなさを残した女の子だ。絹の着物を着て、外を嵐が吹きすぎる暗いところで、目を閉じて一心にこのお経を読んでいる……。

 「がぁじぃごぉしゅぅじょう じょうざいしぃふぅめつ いぃほうべんりきこぉ げんゆうめつふぅめつ よぉこくゆうしゅぅじょう きょうけいしんぎょうしゃぁ がぁふくおぉひぃちゅう いぃせつむぅじょうほう」

 油を注いだたきぎが目のまえで爆ぜる。その光が相瀬の目に射し、そのまま海原うなばらを照らした。

 この広い海原を。

 小さな火の粉だ。そんなことがあるはずないのに。

 「相瀬さんっ!」

 舳先へさきから真結が叫ぶ。

 「前見てて!」

 思うより先に言い返し、相瀬は櫓で水を大きく押した。

 舟が大きい波の前側から波の谷間へと勢いよく滑り落ちる。勢いは止まらず、舳先を水のなかに突っこみ、舟は次の波の上に昇る。そのままでは後ろ向きに落ちてしまいそうなのを、櫓をいて波の上に乗せる。

 真結が後ろを振り向いて笑い、また前を見る。

 けなげな姫様!

 あの別院の後ろの部屋で、姫様は相瀬を守るために、相瀬と仲間の海女たちを守るために、お経を唱えている。

 あの姫様がついているならば――と相瀬は思った。

 無理に力を入れなくても、この海原を渡っていける。

 お経の声が遠ざかる。遠ざかっただけで、姫様がお経を読み続けている――それもお経の本は見ないで!――声が続いているのを、相瀬は感じる。

 「あれっ!」

 指差したのは房だ。

 筒島よりも北、北の岬の沖合ぐらいに、木の葉のようにもてあそばれている船がある。

 闇のなかだ。唐子浜の漁師たちの船かどうかはわからない。

 もし違ったとしても、ここまで来た以上は助けなければいけない。

 貞吉さだきちが櫓を執っている船がどこか探す。

 これは篝火を焚いているからすぐにわかる。

 いま筒島の沖に出たところだった。外海に出て、筒島にぶつかる波と引く波のあいだでまれている。

 なんのことはない。

 あとから来た娘組の舟のほうが先に沖に出てしまった。

 たぶん、相瀬が村の岬を出たところの潮の流れを読んで、思い切って沖に進んだのに較べて、貞吉は慎重に筒島と村の岬のあいだを抜け、潮を探りながら進んだからだろう。

 まだ林助たちの漁師組の船には気づいていないようだ。

 ――さて、どうしよう?

 この小さい舟で難船しかかっている向こうの船に寄りついたってしようがない。こちらの舟に漁師たちを乗り移らせることはできない。いま四人乗っているだけでもひっくり返りそうなのだ。相瀬が向こうの船に移っても、あの大きい船は相瀬では操れない。穏やかな海ならばともかく、この荒海では手にあまる。

 貞吉の船をあちらに引っぱって行くしかない。

 「揺れるよ! 落ちないようにがんばって!」

 相瀬は雨風に負けない強い声で言うと、櫓を立てた。

 いままでは波にすくわれないように激しく櫓を漕ぐことはしなかった。でも今度は力の限り櫓を強く漕ぐ。

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