第42話 あらし(9)

 すがりついてきたこう美絹みきぬに引き取ってもらって身軽になったクワエが横から言う。

 「おれたちもできることはないかって浜に来て、とりあえずかがりを立てさせてもらった」

 それで篝の立てかたが違うのだ。お城ではこんなふうに篝を立てるのかも知れない。

 「おれたちも沖に出ようかとは言ったんだが、おれのさばきや泳ぎではこの嵐に海に出るはとても無理だそうだ」

 「ええ。ありがとう」

 クワエに言う。分別を働かせてくれたことも含めて、ありがたい。

 陸育ちで、さむらいになるからと舟を漕ぐのをならっただけのクワエがこの海に出ても、できることといえば、舟をひっくり返して海に落ちて漁師や海女あまの手間を増やすことだけだろう。

 「で、娘組は?」

と相瀬が浅葱と麻実にきく。

 「真結まゆいさんが船を出すって言って、ふささんとかやさんが」

 麻実あさみが答えると、浅葱あさぎ

「そうそう。房さんが舟を漕いで」

と言う。

 房が、か……。

 「わたしたちも出たほうが……?」

 浅葱が言うので、相瀬は首を振って止めた。

 この二人はまだ海女あまになってまる一年くらいだ。

 ふだんの夜でも舟を操るのは難しい。しかもこの荒れた天気では無理だ。

 相瀬が声に勢いをこめていう。そうでないと聞こえない。

 「あんたたちは美絹みきぬさんとこうさんといっしょにいて。それから桑江くわえ様」

 相瀬はクワエのほうを振り向いた。

 クワエは、打ちつける雨風をものともせず、唇をしっかり閉じ、落ち着いた目で相瀬を見返した。

 さすが侍だと思う。

 この男は、サンシューの横車で武士にされたのではなく、もともと武士になる男だったのだ。

 「浜に戻って来たとき、あのひとたちが暖まれるように支度しておいてください。気付けに熱い酒と、それからできれば何か甘い食べ物を」

 「なんとかしよう」

 酒はこのヨシイやキタムラがいつも飲んでいるからあるはずだし、名主様のお屋敷まで戻れば食べるものもあるだろう。ただ、屋敷町まで道が通れるかどうかだ。

 「たきぎはまだあります?」

 「ああ」

 「あのマユイって海女さんが油と薪はいっぱい用意してくれていたから」

 ヨシイかキタムラが横から言う。

 ――真結は言ったことをきいてくれていた!

 相瀬はすばやく頷いた。

 「じゃ、わたし、真結のとこ行くから。あとよろしく」

 相瀬が波打ち際に駆け出す。

 「相瀬っ!」

 いまになって声をひっくり返してどなりつけるように言ったのは香だ。取り乱しているから、というより、このひとはもともと相瀬にはこういう乱暴なしゃべり方をする。

 風と雨でもうすっかり解けてしまった髪を頬から胸に垂れ下がらせ、眉を寄せて、にらむように、すがるように相瀬を見ている。

 美絹が手を横に伸ばして香の動きをさえぎる。

 「無理しないでね。頼んだわよ」

 美絹が落ち着いた低い声でしっかりと言った。いつもふんわりしたやわらかい声で話す美絹がだ。

 軽く頷いて波打ち際に立つ。

 いつもより大きい波が打ちつけ、それがばしゃばしゃとみっともなく崩れていく。相瀬はその波の引くところへと身を投げた。

 闇夜の海のなかを強い勢いで引っぱって行かれる。

 引っぱって行かれる勢いが新しく前に来た波でふいにさえぎられる。その波を力いっぱい蹴って上に出て、そのまま抜き手で泳ぎ出す。

 遠くを行く篝が貞の操る漁師組の船だろう。後ろで頼りなく揺れているのが房が漕ぐ娘組の舟だ。

 この大嵐でも、この浜辺には大きい波がそのまま届くことはない。村の岬と北の岬と、二つの岬のあいだの深い入り江になっている上に、その入り口に筒島つつしまがあって、三方でじかに大波が打ちつけるのを防いでいる。

 だから、その入り江のあいだを進むかぎり、波の高さはそれほど心配しなくていい。

 でも、そのかわり、天候の荒れたときは波が乱れるのだ。

 前の波は右前から打ちつけるのに、そのすぐ後ろでは波が左から打ち寄せる。波に右に持って行かれたかと思うと、すぐに左へ流される。いきなり海のなかに大渦ができて、それがまたすぐに消えたりもする。北の岬や村の岬のあちこちに波がぶつかり、はね返り、はね返った波どうしがまた海のまん中でぶつかってそんなことが起こるのだ。

 貞吉さだきちは慣れているからだいじょうぶだろう。相瀬は後ろの小舟に向かって泳ぐ。入り組んだ波の動きを手探りしながら、力いっぱい抜き手を切る。

 舳先へさきで、篝を背に前の波を見て手で合図しているのは真結だ。その後ろに萱がついている。櫓を執っているのは房だ。浅葱が言ったとおりだ。

 房はその大きい体の全部を使って櫓を操っている。だが房には荷が重い。村の岬に寄りすぎて磯に乗り上げないよう、それに櫓を取られて自分が水に落ちないようがんばるだけでせいいっぱいだ。

 房に任せておけば舟はひっくり返らないし沈まない。でも前には進まない。

 相瀬が追いついた。最初に気づいたのは萱だ。

 「相瀬さん!」

 真結が舳先から相瀬を振り向く。びっくりしているようだ。

 「真結は前見てて」

 叩きつけるように言ってから、ふなばたから這い上る。

 腕と脚がりそうでだるい。少しでも早く追いつくために無理な泳ぎをした。

 「替わる」

 房に短くそう言うと、房は

「うん」

と言ってを譲ってくれた。

 少し休みたいところだが、そんなことは言っていられない。

 真結はよく波を見ていた。右から、左からと波が入ってくるのを手振りでいち早く教えてくれる。

 最初はこの荒れた海での櫓さばきのやり方がわからなかった。櫓を押してもまったく前に進まないこともあったし、そうかと思うといきなり波の谷間に滑り落ちていくこともあった。波頭が立とうしている高い波を舳先が斜めに突っ切ってしまい、全員が波をかぶって舟は右へ左へと激しく揺れたこともあった。

 これなら房に任せておいたほうがましだった。房は無理はしない。

 でも、そのうち、やり方がわかってきた。

 引っぱられるところは引っぱられればいいのだ。持ち上げられたら、逃げるのではなくて、ただひっくり返らないように舟を立てればいい。渦に巻きこまれそうになっても無理にがんばらない。この入り江で起こる渦などすぐに消えてしまうのだから。波には舟をまっすぐに向かわせる。それほど大きくなりそうもなければ横波にふなばたをさらす。斜めからすくわれるよりそのほうがましだ。

 引っぱられ、揉まれながらも、舟は進んだ。

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