第41話 あらし(8)

 この大嵐で、下りの坂道にはあたりから泥で濁った水が流れこみ、急流の川と化していた。川というより滝だ。

 相瀬あいせは濁流に足を取られ、転んだ。流れが激しくて立ち上がれない。しようがないので尻をついたまま足で下のほうを探って、流されながら下りていく――というより落ちて行く。何度か尻や太腿ふとももや背中を打ったけれども、痛みは水で冷やされてすぐ消えた。

 いつもは楽に上り下りしている坂道がこんな難所になるとは思いもしなかった。

 下りてきた、というより、転がり落ちてきたところから、参籠所の下の鳥居をくぐり、村の道に出た。ここにはずっと神職の子が寝ずの番をしていて、参籠所のほうに登ろうとする人を見張っているのだが、この天気ではさすがにいない。

 村の道も流れ下ってきた水が斜めに流れ、濁流の川底のようになっていた。また何度も足を取られそうになる。今度は転ばないように背をかがめて用心しながら走る。相瀬の家を通りかかる。真結が言ったとおり、ここもきっちり雨戸が打ちつけてある。こんなことをしてもむだなのに、と思うが、いまはここは真結の住みかだ。なかに灯火は見えない。真結はたぶんここにはいないのだ。

 相瀬の家から回りこんで、また坂を下り、浜に出た。

 木を組み合わせ、鉄のかごを支えた、しっかりした造りのかがりが浜を照らしている。

 その篝の造りが村のやり方と違う。

 「これってさ、もとはといえばあの佃屋つくだやの爺さんのせいだろう?」

 雨が砂浜を打つさーっと言う音に交じって声が聞こえる。

 はっとする。

 その篝を背に、半ば陰になりながら、きっちりと刀を差した男の姿がわかる。

 若い男の侍だ。見たことがある。

 あのクワエシンノジョーといっしょに村に来たヨシイゲンスケかキタムラセーゴのどちらかだろう。もう一人もその向こうにいた。

 「あいつ、自分のカネもうけのことしか頭にないからなぁ」

 そして、闇から篝のなかに姿を見せた長身の侍――クワエ本人だ。

 一人ではなかった。

 その右腕に、暗い色の着物を風に靡かせながら、一人の女が取りついている。

 こうだ。

 クワエにすがって泣いているらしい。

 この嵐のなか、結った髪も半分崩れ、半分開いた襟のなかに雨のしずくが筋になって流れていくようすがつやっぽい。

 美人は得だな、と思い、そんなことを思っている場合ではないと相瀬は篝の明かりのなかに急ぎ足で出る。

 「香さん! それに桑江くわえ様」

 「ああ、おかしら

 「相瀬っ!」

 クワエと香がいっしょに叫んだ。

 「どうしたんだ! あんた、あの岬の上に……」

 クワエが言う。

 なぜクワエやヨシイやキタムラがここにいるのかわからない。でもそれを探るのは後だ。

 「いや、上で篝火を見て、浜で何かあったのかと思って、下りてきた」

 「ああ、よかった。あの岬の上の建物が壊れたんじゃないんだな」

 そんな心配をしてくれるのか。

 「なんせ浜でこの風だ。さえぎるもののない岬の上はもっと大風だろうから」

 言うクワエの横で、香が怖い顔で相瀬をにらんでいる。あまり怖い顔すぎて、かえっておかしいほどだ。

 相瀬は、海を遠ざかって行く二つの篝火に目をやった。

 波はいつもは寄せないあたりまで上がってきていた。

 相瀬の姿を篝火のなかに見つけたのか、三人の女たちが、砂と雨水に足を取られそうになりながら走ってくる。波打ち際のほうからだ。

 美絹みきぬ浅葱あさぎ麻実あさみだった。

 「どうしたの?」

 「林助りんすけさんたちが帰ってきた!」

 浅葱がわめく。美絹はクワエの横に寄って、クワエの腕から香を抱き取った。

 だが、帰ってきたのなら、どうしてこんなに騒ぎになっているのだろう?

 「いや、筒島つつしまの沖まで帰ってきたんです! でも浜に入れなくて」

 麻実も大きい声で言う。こういうときはおしゃべりの浅葱の高い声より麻実の低めの落ち着いた声のほうがよく通る。

 「帰ってきたのはいつごろ?」

 「夕方」

 麻実が言う。

 夕方までいったい何をしていたのだ?

 嵐になりそうな気配は昼前からあったのに。

 その気もちをこの三人にぶつけてもしかたがない。

 「だれが見つけたの?」

 「まだ暗くなりきらないうちに沖まで戻って来て、筒島の向こうからこっちに手を振ってたんです」

 今度は浅葱が答える。

 「でもずっと待っても浜まで来ないから!」

 「それで?」

 「貞吉さだきちさんがって、漁師組が船を出した。美絹さんも乗ろうとしたんだけど、貞吉さんが夫婦でいっしょの船は危ないからって下ろした」

 美絹が相瀬に向かって無言で頷く。肩のところには香がすがりついているが、香はもう相瀬を見てはいない。

 難船して二人とも溺れたら――なんて貞吉は考えているのだ。

 美絹にもすまないし、老親のめんどうはだれが見るのか、と。

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