第39話 あらし(6)

 あのときと同じだった。

 昼から夕方にかけて嵐は激しくなっていった。

 その激しさはあのとき以上かも知れない。

 相瀬はその嵐をいて林のなかを進む。背をかがめて、自分が風にあおられないように気をつけながら。

 雨は真横から打ちつけている。

 木々は枝を大きくくねらせていた。吹き飛ばされた葉や砂が雨に混じって襲ってくる。地面に近い草も身もだえするようにたえず右になびいたり左に靡いたりを繰り返していた。

 波の打ちつける音はいつもよりも大きく、激しく、地を伝って轟いて来る。

 地面の上にはかかとを浸すぐらいに水がたまっていた。

 それでも、林の木々の騒ぐ音は、風のうなる音をべつにすれば、ふだんの風のときの音を何倍も大きくした音だ。ほんとうはどうか知らないけれど、林のなかでは、嵐もふだんの強い風や大雨が何倍かひどくなっただけのことなのかも知れない。

 そんな大嵐のなか、禁制の浜の別院は、雨や風の恐ろしさもまったく受けつけず、いつものとおりにしっかりと建っている。

 別院の裏の壁を二度、少し間を置いてから三度叩いてから、別院の裏に潜りこむ。

 扉を閉じる。相瀬はほっと息をついた。そのとたんに、自分の体から水が床にほとばしり流れ出ているのに気づいた。

 それはそうだ。髪や着物が濡れているというより、髪や着物に雨水をしみこませてここまで運んできたのだ。

 指も手のひらも、海に長く入っていたときと同じようにふやけている。

 「あー、なんだろうなー」

 小さい声で言って、胸に抱いて持ってきたおぜんのものをできるだけ遠くに置く。着物と髪を絞る。相瀬の周りはいちめんの水溜まりになった。

 こんな姿でお姫様に会うのは気がひけるけれど、しかたがない。それに、天気はお殿様でも変えられないのだから、お城でも嵐の日には供回りの人たちはやっぱりこんな姿でお姫様に会っていたはずだと思う。

 それより、いつもの塗り物のお椀に入れてきたものが水浸しになり、ひどいありさまになっているだろうとは思った。それを姫様に進めるのはもっと気がひける。でもこれもしようがない。

 天井裏を通って、姫様の潜んでいる部屋に入る。

 嵐の音が遠ざかる。雨の打ちつける音や草木のざわめきは消えないが、ずいぶん遠くで聞こえているように感じる。相瀬の家はもちろん、参籠所とも造りが違うと思う。

 それはいいが、お姫様がいない。

 姫様のために持ってきておいた茣蓙ござもない。

 逃げたのだろうか?

 いま相瀬が入ってきた入りかたの順を逆にたどれば、ここから出ることはできる。

 でも、そうではないだろう。

 「声が大きい」と言われないくらいに声を抑えて、呼んでみる。

 「玉藻姫たまもひめ様」

 何の動きもない。こうなると外の嵐の音がいやでもうるさく響く。

 もう一度呼ぶ。

 「玉藻姫様!」

 床でごそっと音がして、奥のほうの床が動いた。床板が跳ね上がる。

 姫様がそこから半分ぐらい顔を出し、相瀬を見上げる。

 胸のところに茣蓙を丸めて抱いている。

 相瀬は床の穴の横に膝をついた。

 床下の石の仕掛けのどこかに足をのせて、顔だけ床の上にのぞかせているのだ。

 その姿が何とはなくおかしい。

 「何をやってるんですか?」

 「この嵐では合図の音が聞き分けられません」

 木の壁を二度、三度と分けて叩く合図のことだろう。

 それはそうだなと思う。雨の打ちつける音や木の枝が壁を打つ音がいっしょになって響いていて、とても指で壁を打ったくらいの音では聞き分けられはしない。

 「用心のために隠れました」

 「よい心がけです」

 相瀬はこみ上げてくる笑いを抑えて言った。

 姫様は、ここに来ることに慣れてしまった相瀬よりずっと用心している。

 上から見下ろす姫様の姿もかわいらしい。でも貴人を上から見下ろすなどということは、小百姓こびゃくしょうの娘はやってはいけないのではないだろうか。

 姫様の長い髪の毛は床下で乱れて、床下の石の上をでるようにい回っている。姫様の上品な肌着も風をはらみ、ふくらんだりひるがえったりしている。

 床の上には風はほとんど吹きこんでこないのに、床下は嵐の風がそのまま吹き抜けているようだ。

 「手を貸しましょうか?」

 「ありがとうございます」

 姫様は相瀬が差し出した右腕につかまった。右腕を白い指でちょこんとつかまれると、力仕事をしている自分の腕はあきれるくらいに太く見える。

 でも、姫様は、相瀬の腕にはあまり力をかけず、ほとんどは自分の力で上がってきた。床の上に上がって、きれいに腰を下ろし、茣蓙を床に置き、床板を元に戻す。

 そのしぐさに少しもがさつなところがない。つくづく育ちがよい女の子だ。お姫様なのだからあたりまえだけれど。

 姫様の着物はまったく濡れていない。

 「たいしたものです。床下の石の岩屋には雨水は少しも漏れていません」

 茣蓙を拡げながら姫様は言った。

 「でも、床下はたいした風だったみたいだけど」

 「ええ」

 姫様は茣蓙の上に腰を下ろす。

 「家にまったく風が入らないと、風の力をすべて家が受け止めることになって、かえってよくありません。わたしはこの建物のほかのところがどうなっているかよく知りませんが、おそらく風が吹き抜ける道がきちんと造られているのでしょう」

 この嵐のなかでまじめにそんな話をする姿が「何とはなく」以上におかしい。

 それに、長い髪が乱れたのが気になるのだろう。手でいている。

 手で梳いただけですなおにきれいなかたちになる髪がうらやましい。

 相瀬は持って来たものを姫様の前に進める。

 「水浸しになってしまったと思いますけど、今日のご飯です」

 「まあ。こんな日にありがとうございます」

 布巾を開いてみると、昨日取った出汁で炊いた煮物には思ったほど水は入っていなかった。あるいは戻した干しひじきが水を吸ってしまったのかも知れない。

 「だいじに持って来てくださったんですね」

 姫様が見て言う。

 「いや、くださったなんてものでは……」

 照れて答えながら、今夜こそ姫様を連れ出す算段の話をしなければ、と思う。

 でも、その前に、お椀のなかをのぞきこんでいた姫様が言った。

 「相瀬さん」

 「はい」

 「この大嵐をいてここまで来てくださったことはとてもありがたいと思います。けれども、一度、お戻りになったほうがよくはないですか?」

 「はい?」

 姫様は何を言っているのだろうと思う。

 「いや。今日は姫様にかならずきいていただかなければいけないお話があって」

 「ええ」

 姫様はきちんと座り、お椀から顔を上げて相瀬を見、瞬きする。

 「それはうかがいたいと思います。でも、この嵐です。一群の長ともあろう人が村を離れていて、何かがあったときには困ったことになります。ひいては、そのいないあいだにどこに行っていたか、ということも詮議せんぎされてしまうかも知れません」

 「あ、ああ」

 だいじょうぶです、真結まゆいにぜんぶ任せてきました――と言おうと思った。姫様は真結のことは知っている。

 それに、この嵐では、浜の村から参籠さんろう所に上がって来るのはまず無理だろう。相瀬が参籠所にいるかどうか確かめられるのは嵐が去ってからだ。

 だが――。

 姫様の心配ももっともだと思う。

 真結がどんなにまじめで能があっても、また、もしかすると美絹みきぬが力添えしてくれるとしても、さばききれることには限りがある。

 それは真結だからというわけではない。海女の娘組は二人を含めて六人しかいない。しかも浅葱あさぎ麻実あさみはこんな荒れた天気の下で働かせるのは無理だ。残る四人のみんなが揃うか、一人が欠けるか。それで海女の娘組の働きには大きな違いが出る。

 姫様が言う。

 「この嵐はもうたぶんそれほど長くは続きますまい。夜半を過ぎればおさまると思います。そのときに訪ねて来てくださればお話を承ります。夜が遅くてもお気になさらないで」

 「ああ、うん」

 またあの凄まじい風雨の中に戻るのが億劫おっくうだ。

 でも、姫様にこう言われたら、村はだいじょうぶですから、と言ってここにとどまるのも、なんだか卑怯ひきょうなように思えた。

 「じゃ、あとでかならず来ますから」

 相瀬は言って、天井板を上げ、天井裏へと上がった。

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