第37話 あらし(4)

 参籠さんろう所に戻った相瀬あいせは、珍しく床にきちんと座り、この天気が「あの日」と同じにはならないよう、目を閉じて祈った。

 祈って、外に出て空を見て、またきちんと座ってお祈りして――を繰り返す。

 昼前には東南のほうから飛んでくる雲が大きくなってきた。

 ずっと日が出ていたのに、日がかげり、また日が照り、翳るという繰り返しになった。

 白い大きな雲のかたまりが青い空をすべるように飛んで来て、空が曇る。白い雲が日にかかり、たちまち雲は黒雲に変わって、あたりがにび色に沈む。強い風が吹いて、雨がざあっと降る。でも、雨はすぐ上がり、空はもとの青い空に戻る。

 それが何度か繰り返した。

 だが、やがて来た大きい雲ではそうはいかなかった。

 最初はそんな大きい雲とも見えなかったのに、雲は切れず、そのまま空いちめんが曇ってしまった。

 海も、向こうのほうが黄色くなって残っているほかは、墨を流したような暗い色に変わる。

 曇った空は真っ暗にはならなかった。そのかわり、空の色が、青いのか黄色いのか緑色なのかわからない気味の悪い色に変わる。

 また青い空に戻ってほしい。

 その祈りはかなわない。

 相瀬はほこらの向こうまで回ってみた。

 岬の先に歩いて行けるところまで行く。立って沖を見る。

 漁師組の船は帰って来ないだろうか?

 海は大きなうねりに覆われている。禁制の浜には大きな音をとどろかせてそのうねりが打ち寄せている。

 だが、このぐらいのうねりならば、漁師組の船は乗り切れる。貞吉ほどの腕がなくても、いまならばまだ浜まで帰って来ることができる。

 いまならば。

 しかし、見渡すかぎり、船は見えなかった。

 「相瀬さん!」

 後ろから声がきこえた。

 真結まゆいだ。

 真結は、あの岬の下の洞穴に通じる道のあたりにいた。その黒い髪の毛が着物といっしょにはためき、遠くになびいたり首にまつわりついたりしている。

 そのあとも何か言っているらしい。それも、顔に手を当てて大きい声を立てているらしい。

 でも聞こえない。

 真結の声が細いからではない。風がきつすぎるのだ。耳の中には耳を擦る風の音しか響いてこない。

 「真結!」

 だから、相瀬が叫んでも聞こえないだろう。

 風に足をすくわれないように用心しながら、相瀬は真結のほうにできるだけ速く駆けていく。

 「真結っ!」

 その両手でしっかりと真結の手を握る。

 真結は一人ではなかった。神職の男が何人か、大きい板を担いで来ている。落ち着いた顔をしているが、その板を持っていると板といっしょに飛ばされそうだ。でも、板を置くと板だけ飛んで行きそうで、難渋なんじゅうしている。

 すぐ近くなのに、真結は声を絞るようにして言う。

 「さっきからずっと、名主様のところで、神主さんとか、屋敷町のほうの頭の人たちとか、漁師組や大人の海女組のお頭さんとか集まって、あと貞吉さだきちさんとかも来て」

 「うん」

 そうか。

 「話し合ってたんだね」

 相瀬は声がもともと大きいので、そんなに力を入れなくても通じるだろう。

 「うん」

 「とにかく、ここは雨戸を打ちつけることにした」

 ここというのはこの参籠所のことだろう。

 たしかに、雨戸は、打ちつけておかないとこの風では飛んでしまいそうだ。

 「うん」

 「お社の人たちが相瀬さんのお家も雨戸つけてくれるって。釘は打たないけど」

 「ああ。あそこはいいよ」

 あの家ではいまさら何が壊れるわけでもない。

 「相瀬さん!」

 でも真結がきつく大声で言ったので、逆らわないことにする。それにいまあの家に住んでいるのは真結だ。相瀬が何か言える義理でもない。

 「それと漁師組の船のことだけど」

 「うん」

 「何かあったときに備えて、漁師組と海女組はいつでも集まれるようにするって」

 「うん」

 とは言っても、このまま嵐になったとしたら、浜に集まったってできることなんか何もないのだ。

 「で、わたしは何をすればいい?」

 「ここにもっててって。それがいまの相瀬さんの役目だから」

 「うん」

 これにもすなおに従う。真結に言う。

 「じゃ、海女の娘組は真結が差配さはいするんだね」

 ここで迷ったような答えをしたら、大小母に言われたように叱ってやろうと思う。

 「うん」

 でも真結の答えはしっかりしていた。

 「次の頭になったばっかりで、苦労かけるね」

 「それが役目だから」

 真結は顔を上げて答え、唇をきゅっと結ぶ。

 だいじょうぶだ。さっき、浜から名主様のお屋敷に行ったのだって、何の考えもなしに逃げたのではないと改めて思う。

 ふと気がついた。

 生暖かい風と、さっきの雨で濡れた着物のぞくっとする冷たさと。

 そのなかで、握っている真結の腕だけが温かい。

 あのときといっしょだ。

 あのときと。

 相瀬はその腕を伸ばす。

 嵐の強暴さに負けないよう、力づくで真結の体を引き寄せる。

 両手で真結をかきいだく。

 強く強く自分の体に真結の体を押しつける。

 前にこんなふうに真結を抱いたのはいつだっただろう?

 そうだ。人食い海蛇から真結を助けたときだ。あのとき――。

 そして、真結が次の頭になってくれると決めたあのときからだ。

 抱き寄せた真結の胸から息が抜け、それが声になって出てくるのがわかる。

 「相瀬さん……」

 こうやっていつまでも抱いていたい。

 嵐が止むまで、ずっとこうやって風と雨のなかで真結を腕と胸のあいだに守っていたい。そうしてこの真結の暖かさを感じていたい。息も、鼓動も動きとして感じていたい。自分の息や鼓動を感じるのと同じように。

 でも、そんなわけにはいかない。向こうで神職の男が相瀬を見ている。相瀬が合図ししだい、雨戸の釘打ちにかかりたいのだ。

 真結の体を離しながら、相瀬は神職の男に合図を送った。男たちは、さっそく障子の外に板を立てて、釘を打ち始める。

 相瀬が参籠所の入り口に戻ろうとすると、真結もついてきた。

 この参籠所はこうしなければ嵐から守れないんだな、と相瀬は考える。

 あの別院は造りがしっかりしているから――と思って、相瀬は気づいた。

 「すみません!」

 正面に雨戸を止めようとしていた男に大きな声で呼びかける。男は強い風のなかで器用に後ろを向いた。

 「一枚だけ、釘、打たないで、かぎで止めるようにしておいてくれません? 内側から開けられるように」

 男は頷いた。でも相瀬の顔を見つづけている。

 どうしてそうするのか?

 嵐が去ってもそのまま雨戸を釘付けにしたままにして、相瀬を参籠所に閉じこめて餓え死にさせてしまうつもりだと思われたとでも思ったのだろうか。

 相瀬がそんなことを心配するはずもない。そんなことになったら雨戸を蹴破って逃げ出すまでのことだから。

 「まさかと思うけど、この参籠所が崩れたりしたら、逃げ出せなくなるから!」

 そういうと、男は軽く頷いた。

 神職の子どもが二人、おぜんを運んできた。風に飛ばされそうなのを、腕と体でかばってがんばっている。お膳は無事に釘付け前の参籠所に運び入れられた。

 これで相瀬の餓え死にはなくなった。もっとも一食や二食や三食抜いたからって死にはしないけれど。

 真結はずっと相瀬の後ろについている。

 「じゃ、頼んだよ」

 相瀬が言う。

 真結は相瀬の顔を見て頷いた。

 その笑顔にさっきより力がないように見えたのは、いよいよここから相瀬の力が借りられないのがはっきりして、気が張りつめているからだろうか。

 背中を向けた真結が小さく見える。その小さい背中を、真結のあの黒い髪の毛が落ち着きなくでる。

 何か言っておくことがないだろうか? 何か言っておかないと。声をかけないと。

 そうだ。

 「真結っ!」

 相瀬は鋭く声をかける。真結ははっと息をのんで振り向いた――のだろう。息の音など聞こえないけれど。

 今度は、きょとんとして、軽く首を傾げている。

 「この嵐で海の上に出ることになったら、普通の灯火も、篝火かがりびも役に立たないよ。すぐ消えてしまうから」

 「うん」とでも言ったのだろうか。真結が頷く。でも声ももう届かない。

 空のにび色に覆われていた真結の白い顔に紅が差した。

 相瀬は、続けて、真結に届くように、ひとことひとことを大声で叫ぶ。

 「いまからよく乾いた布とたきぎとをいっぱいの油の樽にぶちこんで、いっぱい油を吸わせておくんだ! それだったらよほどの雨と風でも消えないから! そのための油のむだとか考えないこと! ほんと湯水のように、いや、湯水よりも派手に使うんだ! 布も薪もだよ! いいね! 人の命に関わるかも知れないからね!」

 「わかった!」

 今度は真結の声が届いた。のどから絞り出したのだろう。

 その真結の返事はいたずらな男の子の声のようだった。

 そして、くるっと向こうを向くと、こんなことはしていられないというふうに早足で小さい鳥居をくぐり、着物をはためかせながら、ぱたぱたと村のほうに下りていく。

 その様子がせいの気に満ちているように見えた。

 相瀬はやっとほっと息をついた。

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